長雨
一
秋七月。魏の曹真は、
「国家多事の秋。久しく病に伏して、ご軫念を煩わし奉りましたが、すでに身も健康に復しましたゆえ、ふたたび軍務を命ぜられたく存じます」
と、朝廷にその姿を見せ、また表を奉って、
――秋すずしく、人馬安閑、聞くならく孔明病み、漢中に精鋭なしという。蜀、いま討つべし。魏の国患、いま除くべし。
という意見をすすめた。
魏帝は、侍中の劉曄に諮った。
「蜀を伐たん乎。それとも、止めたほうがよいか」
劉曄はすぐ答えた。
「伐たざれば百年の悔いです」
その劉曄が、わが邸に帰っていると、朝廷の武人や、大官が、入れ代り立ち代り来て彼へただした。
「この秋こそ、大兵を起して、年来の魏の患いたる宿敵蜀を伐つのだと、帝には仰せられている。その事はほんとうでしょうか」
すると劉曄は一笑のもとに、
「君らは蜀の山川がいかなる嶮岨か知らないとみえる。いったい蜀を過小評価していることが、魏の患いというべきだ。帝にはよくご存じあるはずである。なんでさような軽挙を敢えてして、この上軍馬の損傷をねがわれるものか」
と否定し去って、まるで顔でも洗って来給え、といわぬばかりの返辞だった。
楊曁という一官人が、この矛盾を訝かって、こんどは直接、魏帝曹叡にこれをただしてみた。
「蜀を伐つ儀はご中止なされたのですか」
「汝は書生だ。兵法を語る相手ではない」
「でも劉曄が、そんなばか軍はせぬといっていますから」
「劉曄がそういっておると?」
「はい。何せい、劉曄は先帝の謀士でしたから、みな彼の言を信じております」
「はての?」
帝はさっそく劉曄を召して、さきには朕に蜀伐つべしとすすめ、宮廷の外では反対に、伐つべからずと唱えているそうだが、汝の本心はいったい何処にあるのかと詰問された。と劉曄はけろりとして、
「何かのお聞き違いでございましょう。臣の考えは決して変っておりません。蜀山蜀川の嶮を冒し、無碍に兵馬を進めるなどは、我から求めて国力を消耗し、魏を危うきへ押しこむようなものです。彼から来るなら仕方がありませんが、我から攻めるべきではありません。蜀伐つべからずであります」
帝は妙な顔して、彼の弁にまかせていた。やがて話がほかにそれると、侍座に佇っていた楊曁はどこかへ立ち去った。
楊曁がいなくなると、劉曄は声をひそめて、
「陛下はまだ兵法の玄機をお悟りになっていないと見えます。蜀を伐つことは大事中の大事です。何ゆえ楊曁や宮中の者にそんな秘事をおんみずからお洩らしになりましたか」
「あ、そうか。……以後は慎もう」
曹叡は初めて覚った。
荊州へ行っていた司馬懿が帰ってきた。彼も同意見であった。荊州ではもっぱら呉の動静を視察してきたのである。司馬懿仲達の観るところでは、
「呉は蜀を助けそうに見せているが、それはいつでも条約に対する表情だけで、本腰なものではない」という見解が確かめられていた。
号して八十万、実数四十万の大軍が、蜀境の剣門関へ押し寄せたのは、わずか十月の後で、洛陽の上下は呆気にとられたほど迅速かつ驚くべき大兵のうごきだった。
このとき、幸いにも、孔明の病はすでに恢復していた。
「――血を吐いて昏絶す」というとよほどな重態か不治の難病にでも罹ったように聞えるが、「血を吐く」も「昏絶」も原書のよく用いている驚愕の極致をいう形容詞であることはいうまでもない。
孔明は、王平と張嶷を招き、
「汝らおのおの千騎をひっさげ、陳倉道の嶮に拠って、魏の難所を支えよ」と、命じた。
二将は唖然とした。いや哀しみ顫いた。――敵は実数四十万という大軍、わずか二千騎でどうして喰い止められよう。死にに行けというのと同じであると思った。
二
孔明のむごい命令に、ふたりとも悴然としたまま、その無慈悲をうらんでいるかのような容子なので孔明は自分の言にまた説明を加えた。
「この頃、天文を観ていると、太陰畢星に濃密な雨気がある。おそらくここ十年来の大雨がこの月中にあるのではないかと考えられる。魏軍何十万騎、剣門関をうかがうも、陳倉道の隘路、途上の幾難所、加うるにその大雨にあえば、とうてい、軍馬をすすめ得るものではない。――故に、われは敢えてその困難に当る要はない。まず汝らの軽兵をさし向けておいて、後、彼の疲労困憊を見すましてからいちどに大軍をおしすすめて伐つ。予も、やがて漢中へ行くであろう」
そう聞くと、王平も張嶷も、
「お疑いして申し訳ありません。では、即刻これから」と勇躍して、陳倉道へいそいだ。そして彼らは軽兵二千をもって、高地を選び長雨の凌ぎを考慮し、かつ一ヵ月余の食糧を持って滞陣していた。
魏の四十万騎は、曹真を大司馬征西大都督にいただき、司馬懿は大将軍副都督に、また劉曄を軍師として壮観極まる大進軍をつづけて来た。
ところが、陳倉の道に入ると、途々の部落は例外なく焼き払われていて、籾一俵鶏一羽獲られなかった。
「これも孔明の周到な手まわしとみゆる。心憎い用意ではある」と語らい合って、なお数日を進むうちに、一日、司馬懿は突然、曹真や劉曄にこう云い出した。
「これから先へは、もう絶対に進軍してはなりませぬ。昨夜、天文を案じてみるに、どうも近いうちに大雨が来そうです」
「そうかなあ?」
曹真も劉曄も疑うような顔をしていたが、司馬懿仲達の言であるし、万一のことも考慮して、その日から前進を見あわせた。
竹木を伐って、急ごしらえの仮屋を作り、十数日ほど滞陣していると、果たして、きょうも雨、次の日も雨、明けても暮れても、雨ばかりの日がつづいた。
その雨量も驚かれるばかりである。車軸を流すという形容もおろか、馬も流され人も漂い、軍器も食糧もみな水漬いてしまう。いや仮屋もたちまち水中に没し、山の上へ上へと移って行った。
しかも、道も激流となり、絶壁も滝となり、谷を覗けば谷も湖と化している。ほとんど、夜も眠れない有様である。
こうした大雨が三十余日もひっきりなしに続いた。病人溺死者は続出し、食糧は途絶え、後方への連絡もつかず、四十万の軍馬はここに水ぶくれとなってしまいそうであった。
この事、洛陽に聞えたので、魏帝の心痛もひとかたでない。壇を築いて、
「雨、やめかし」
と、天に祷ったが、そのかいも見えない。
太尉華歆、城門校尉楊阜、散騎黄門侍郎王粛たちは、初めから出兵に反対の輩だったので、民の声として、
「早々、師を召し還し給え」
と、帝にいさめた。
詔は、陳倉に達した。
その頃、ようやく、雨はあがっていたが、全軍の惨状は形容の辞もないほどである。勅使は哭き、曹真、劉曄も哭いた。
司馬懿は、慙愧して、
「天を恨むよりは、自分の不明を恨むしかありません。この上は、帰路に際して、ふたたびこの兵を損じないようにするしかない」と、やっと水の退いた谷々に、入念に殿軍を配し、主力の退軍もふた手に分けて、一隊が退いてから、次を退くというふうに、あくまで緻密にひきあげた。
孔明は、蜀の主力を、赤坡という所まで出して、この秋ばれに、心地よい報告をうけとっていたが、
「病みつかれ果て、ただ今、魏の全軍が、続々ひきあげて帰ります」
と聞いても、
「追えば必ず仲達の計にあたるであろう。この天災による敗れを、蜀に報復して、面目を立てて帰らんとしている必勝の心ある者へ、われから追うのは愚である。帰るにまかせておけばよい」
そういって、すこしも意をうごかさなかった。