張飛卒

 白馬は疎林の細道を西北へ向ってまっしぐらに駆けて行った。秋風に舞う木の葉は、鞍上の劉備芙蓉の影を、征箭のようにかすめた。
 やがて曠い野に出た。
 野に出ても、二人の身をなお、箭うなりがかすめた。今度のは木の葉のそれではなく、鋭い鏃をもった鉄弓の矢であった。
「オ。あれへ行くぞ」
「女をのせて――」
「では違うのか」
「いや、やはり劉備だ」
「どっちでもいい。逃がすな。女も逃がすな」
 賊兵の声々であった。
 疎林の陰を出たとたんに、黄巾賊の一隊は早くも見つけてしまったのである。
 獣群の声が、鬨をつくって、白馬の影を追いつめて来た。
 劉備は、振り向いて、
「しまった!」
 思わずつぶやいたので、彼と白馬の脚とを唯一の頼みにしがみついていた芙蓉は、
「ああ、もう……」
 消え入るようにおののいた。
 万が一つも、助からぬものとは観念しながらも、劉備は励まして、
「大丈夫、大丈夫。ただ、振り落されないように、駒の鬣と、私の帯に、必死でつかまっておいでなさい」と、いって、鞭打った。
 芙蓉はもう返事もしない。ぐったりと鬣に顔をうつ伏せている。その容貌の白さはおののく白芙蓉の花そのままだった。
「河まで行けば。県軍のいる河まで行けば! ……」
 劉備の打ちつづけていた生木の鞭は、皮がはげて白木になっていた。
 低い土坡のうねりを躍り越えた。遠くに帯のように流れが見えてきた。しめたと、劉備は勇気をもり返したが、河畔まで来てもそこには何物の影もなかった。宵に屯していたという県軍も、賊の勢力に怖れをなしたか、陣を払って何処かへ去ってしまったらしいのである。
「待てッ」
 驢にのった精悍な影は、その時もう五騎六騎と、彼の前後を包囲してきた。いうまでもなく黄巾賊の小方(小頭目)らである。
 驢を持たない徒歩の卒どもは、駒の足に続ききれないで、途中であえいでしまったらしいが、李朱氾をはじめとして、騎馬の小方たち七、八騎はたちまち追いついて、
「止れッ」
「射るぞ」と、どなった。
 鉄弓の弦をはなれた一矢は、白馬の環囲に突きささった。
 喉に矢を立てた白馬は、棹立ちに躍り上がって、一声いななくと、どうと横ざまに仆れた。芙蓉の身も、劉備の体も、共に大地へほうり捨てられていた。
 そのまま芙蓉は身動きもしなかったが、劉備は起ち上がって、
「何かっ!」と、さけんだ。彼は今日まで、自分にそんな大きな声量があろうとは知らなかった。百獣も為に怯み、曠野を野彦して渡るような大喝が、唇から無意識に出ていたのである。
 賊は、ぎょっとし、劉備の大きな眼の光におどろき、驢は彼の大喝に、蹄をすくめて止った。
 だが、それは一瞬、
「何を、青二才」
「手むかう気か」
 驢を跳びおりた賊は、鉄弓を捨てて大剣を抜くもあり、槍を舞わして、劉備へいきなり突っかけてくるもあった。

 どういう悪日と凶い方位をたどってきたものだろうか。
 黄河の畔から、ここまでの間というものは、劉備は、幾たび死線を彷徨したことか知れない。これでもかこれでもかと、彼を試さんとする百難が、次々に形を変えて待ちかまえているようだった。
「もうこれまで」
 劉備もついに観念した。避けようもない賊の包囲だ。斬り死せんものと覚悟をきめた。
 けれど身には寸鉄も帯びていない。少年時代から片時もはなさず持っていた父の遺物の剣も、先に賊将の馬元義に奪られてしまった。
 劉備は、しかし、
「ただは死なぬ」と思い、ころをつかむが早いか、近づく者の顔へ投げつけた。
 見くびっていた賊の一名は、不意を喰らって、
「あッ」と、鼻ばしらをおさえた。
 劉備は、飛びついて、その槍を奪った。そして大音に、
「四民を悩ます害虫ども、もはや免しはおかぬ。涿県劉備玄徳が腕のほどを見よや」
 といって、捨身になった。
 賊の小方、李朱氾は笑って、
「この百姓めが」と半月槍をふるってきた。
 もとより劉備はさして武術の達人ではない。田舎の楼桑村で、多少の武技の稽古はしたこともあるが、それとて程の知れたものだ。武技を磨いて身を立てることよりも、蓆を織って母を養うことのほうが常に彼の急務であった。
 でも、必死になって、七人の賊を相手に、ややしばらくは、一命をささえていたが、そのうちに、槍を打落され、よろめいて倒れたところを、李朱氾に馬のりに組み敷かれて、李の大剣は、ついに、彼の胸いたに突きつけられた。
 ――おおういっ。
 すると、……いやさっきからその声は遠くでしたのだが、剣戟のひびきで、誰の耳にも入らなかったのである。
 遥か彼方の野末から、
「――おおういっ。待ってくれい」
 呼ばわる声が近づいてくる。
 野彦のように凄い声は、思わず賊の頭を振り向かせた。
 両手を振りながら韋駄天と、こなたへ馳けてくる人影が見える。その迅いことは、まるで疾風に一葉の木の葉が舞ってくるようだった。
 だがまたたく間に近づいてきたのを見ると、木の葉どころか身の丈七尺もある巨漢だった。
「やっ、張卒じゃないか」
「そうだ。近頃、卒の中に入った下ッ端の張飛だ」
 賊は、不審そうに、顔見合せて云い合った。自分らの部下の中にいる張飛という一卒だからである。他の大勢の歩卒は、騎馬に追いつけず皆、途中で遅れてしまったのに、張卒だけが、たとえひと足遅れたにせよ、このくらいの差で追いついてきたのだから、その脚力にも、賊将たちは愕いたに違いなかった。
「なんだ、張卒」
 李朱氾は、膝の下に、劉備の体を抑えつけ、右手に大剣を持って、その胸いたに擬しながら振り向いていった。
「小方、小方。殺してはいけません。その人間は、わしに渡して下さい」
「何? ……誰の命令で貴様はそんなことをいうのか」
「卒の張飛の命令です」
「ばかっ。張飛は、貴様自身じゃないか。卒の分際で」
 と、いう言葉も終らぬ間に、そう罵っていた李朱氾の体は、二丈もうえの空へ飛んで行った。

 卒の張飛が、いきなり李朱氾をつまみ上げて、宙へ投げ飛ばしたので、
「やっ、こいつが」と、賊の小方たちは、劉備もそっちのけにして、彼へ総掛りになった。
「やい張卒、なんで貴様は、味方の李小方を投げおったか。また、おれ達のすることを邪魔だてするかっ」
「ゆるさんぞ。ふざけた真似すると」
「党の軍律に照らして、成敗してくれる。それへ直れ」
 ひしめき寄ると、張は、
「わははははは。吠えろ吠えろ。胆をつぶした野良犬めらが」
「なに、野良犬だと」
「そうだ。その中に一匹でも、人間らしいのがおるつもりか」
「うぬ。新米の卒の分際で」
 喚いた一人が、槍もろとも、躍りかかると、張飛は、団扇のような大きな手で、その横顔をはりつけるや否や、槍を引ッたくって、よろめく尻をしたたかに打ちのめした。
 槍の柄は折れ、打たれた賊は、腰骨がくだけたように、ぎゃっともんどり打った。
 思わぬ裏切者が出て、賊は狼狽したが、日頃から図抜けた巨漢の鈍物と、小馬鹿にしていた卒なので、その怪力を眼に見ても、まだ張飛の真価を信じられなかった。
 張飛は、さながら岩壁のような胸いたをそらして、
「まだ来るか。むだな生命を捨てるより、おとなしく逃げ帰って、鴻家の姫と劉備の身は、先頃、県城を焼かれて鴻家の亡びた時、降参と偽って、黄巾賊の卒にはいっていた張飛という者の手に渡しましたと、有態に報告しておけ」
「あっ! ……では汝は、鴻家の旧臣だな」
「いま気がついたか。此方は県城の南門衛少督を勤めていた鴻家の武士で名は張飛、字は翼徳と申すものだが無念や此方が他県へ公用で留守の間に、黄巾賊の輩のために、県城は焼かれ、主君は殺され、領民は苦しめられ、一夜に城地は焦土と化してしまった。――その無念さ、いかにもして怨みをはらしてくれんものと、身を偽り、敗走の兵と化けて、一時、其方どもの賊の中に、卒となって隠れていたのだ。――大方馬元義にも、また、総大将の兇賊張角にも、よく申しておけ。いずれいつかはきっと、張飛翼徳が思い知らせてくるるぞと」
 雷のような声だった。
 豹頭環眼、張飛がそういってくわっと睨めつけると、賊の小方らは、足もすくんでしまったらしいが、まだ衆をたのんで、
「さては、鴻家の残兵だったか。そう聞けばなおのこと、生かしてはおけぬ」と、一度に打ってかかった。
 張飛は、腰の剣も抜かず、寄りつく者をとっては投げた。投げられた者は皆、脳骨をくだき、眼窩は飛びだし、またたくうちに碧血の大地、惨として、二度と起き上がる者はなかった。
 劉備は、茫然と、張飛の働きをながめていた。燕飛龍鬂、蹴れば雲を生じ、吠ゆれば風が起るようだった。
「なんという豪傑だろう?」
 残る二、三人は、驢に飛びついて逃げうせたが、張飛は笑って追いもしなかった。そして踵をめぐらすと、劉備のほうへ大股に近づいてきて、
「いや旅の人。えらい目に遭いましたなあ」
 と、何事もなかったような顔して話しかけた。そして直ぐ、腰に帯びていた二剣のうちの一つをはずし、また、懐中から見おぼえのある茶の小壺を取出して、「これはあなたの物でしょう。賊に奪り上げられたあなたの剣と茶壺です。さあ取っておきなさい」と、劉の手へ渡した。

「あ。私のです」
 劉備は、失くしたが返ってきたように、剣と茶壺の二品を、張飛の手から受取ると、幾度も感謝をあらわして、「すでに生命もないところを救っていただいた上に、この大事な二品まで、自分の手に戻るとは、なんだか、夢のような心地がします。大人のお名前は、さきほど聞きました。心に銘記しておいて、ご恩は生涯忘れません」と、いった。
 張飛は、首を振って、
「いやいや徳は孤ならずで、貴公がそれがしの旧主、鴻家の姫を助けだしてくれた義心に対して、自分も義をもってお答え申したのみです。ちょうど最前、古塔のあたりから白馬にのって逃げた者があると、哨兵の知らせに、こよい黄巾賊の将兵が泊っていたかの寺が、すわと一度に、混雑におちた隙をうかがい、夕刻見ておいた貴公のその二品を、馬元義李朱氾の眠っていた内陣の壇からすばやく奪い返し、追手の卒と共にこれまで馳けてきたものでござる。貴公の孝心と、誠実を天もよみし賜うて、自然お手に戻ったものでしょう」
 と、理由をはなした。張飛が武勇に誇らない謙遜なことばに、劉備はいよいよ感じて、感銘のあまり二品のうちの剣のほうを差しだして、
「大人、失礼ですが、これはお礼として、あなたに差上げましょう。茶は、故郷に待っている母の土産なので、頒つことはできませんが、剣は、あなたのような義胆の豪傑に持っていただけば、むしろ剣そのものも本望でしょうから」と、再び、張飛の手へ授けて云った。
 張飛は、眼をみはって、
「えっ、この品をそれがしに、賜ると仰っしゃるのですか」
劉備の寸志です。どうか納めておいて下さい」
「自分は根からの武人ですから、実をいえば、この剣の世に稀な名刀だということは知っていますから、欲しくてならなかったところです。けれど、同時に貴公とこの剣との来歴も聞いていましたから、望むに望めないでおりましたが」
「いや、生命の恩人へ酬いるには、これをもってしても、まだ足りません。しかも剣の真価を、そこまで、分っていて下されば、なおさら、差上げても張合いがあり、自分としても満足です」
「そうですか。しからば、ほかならぬ品ですから、頂戴しておこう」
 と、張飛は、自身の剣をすぐ解き捨て、渇望の名剣を身に佩いていかにもうれしそうであった。
「じゃあ早速ですが、まだ賊が押し返してくるにきまっている。それがしは鴻家のご息女を立てて、旧主の残兵を集め事を謀る考えですが――貴公も一刻もはやく、郷里へさしてお帰りなさい」
 張飛のことばに、
「おお、それでは」
 と、劉備は、芙蓉の身を扶けて、張飛に託し、自分は、賊の捨てた驢をひろってまたがった。
 張飛は、先に自分が解き捨てた剣を劉備の腰に佩かせてやりながら、
「こんな剣でも帯びておいでなされ。まだ、涿県までは、数百里もありますから」といった。
 そして張飛自身も、芙蓉の身を抱いて、白馬の上に移り、名残り惜しげに、
「いつかまた、再会の日もありましょうが、ではご機嫌よく」
「おお、きっとまた、会う日を待とう。あなたも武運めでたく、鴻家の再興を成しとげらるるように」
「ありがとう。では」
「おさらば――」
 劉備の驢と、芙蓉を抱えた張飛白馬とは、相顧りみながら、西と東に別れ去った。

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