金雁橋
一
孔明が荊州を立つときに出した七月十日附の返簡の飛脚は、やがて玄徳の手にとどいた。
「おう、水陸二手にわかれ、即刻、蜀へ急ぐべしとある。――待ち遠しや、孔明、張飛のここにいたるは何日」
涪城に籠って、玄徳は、行く雲にも、啼き渡る鳥にも、空ばかり仰いでいた。
「皇叔。この頃、寄手のていをうかがってみますと、蜀兵も、この涪城を出ぬお味方に攻めあぐね、みな長陣に倦み飽いて、惰気満々のていたらくです。――これへ孔明の援軍が来れば、たちまち敵も士気をふるい陣容を正しましょう。むなしく援軍の到着を待つのみでなく、彼の虚と紊れを衝いて、一勝を制しておくことは、大いに成都の入城を早めることになろうと存じますが」
これは、ある日、黄忠が玄徳に呈した言であった。
思慮ふかい玄徳も、
「一理ある」と、意をうごかされた。
偵察の者も、黄忠のことばを裏書きしている。果断をとって、ついに涪城の軍は、百日の籠居を破って出た。
もちろん、夜陰奇襲したのである。案のじょう野陣の寄手はさんざんに混乱して逃げくずれた。面白いほどな大快勝だ。途中、莫大な兵糧や兵器を鹵獲しつつ、ついに雒城の下まで追いつめて行った。
潰走した蜀兵はみな城中にかくれて、ひたと四門をとじてしまった。蜀の名将張任の命はよく行われているらしい。
この城の南は二条の山道。北は涪水の大江に接している。玄徳はみずから西門を攻めた。黄忠、魏延の二軍は、東の門へ攻めかかる。
けれど、陥ちない。びくともしない。まる四日間というもの、声も嗄れ、四肢も離ればなれになるばかり、東西両門へ力攻したが、さしたる損害も与え得なかった。
蜀の張任は、
「もうよかろう」と、呉蘭、雷同の二将軍へいった。二将軍もよかろうという。
すなわち、ここまでは、本心の戦をなしていたのではない。要するに誘引の計を以てひき出し、さらに、玄徳軍の疲労困憊を待っていたのである。
南山の間道から、蜀兵はぞくぞく山地に入り、遠く野へ降りて迂回していた。また、北門は江へ舟を出して、夜中に対岸へあがり、これも、玄徳の退路を断つべく、枚をふくんで待機する。
「城内の守りは百姓だけでよい。一部の将士のほかは、みな城を出て、玄徳の軍をこの際徹底的に殲滅せよ」
張任は、こう勇断を下して、やがて一発の烽火をあいずに、銅鑼、鼓の震動、喊声の潮、一時に天地をうごかして、城門をひらいた。
時刻は黄昏であった。ここ数日のつかれに、玄徳の軍馬は鳴りをひそめ、今しも夕方の炊煙をあげていたところ。当然、間に合わない。
あたかも黄河の決潰に、人馬が濁流にながされるのを見るようだった。まったくひと支えもせず、八方へ逃げなだれた。
「それ撃て」
「すすめ」
と、その先には、山と江から迂回していた蜀兵が、手に唾して、陣を展開していた。呉蘭、雷同の二将軍とその旗本は、ほとんど、血に飽くばかり勇をふるった。
「あな、あわれ。こんなことが、いったいなぜ昨日にも覚れなかったろう」
玄徳は、悲痛な顔を、馬のたてがみに沈めながら、魂も身に添わず、無我夢中で逃げていた。
見まわせば、一騎とて自分のそばにはいなかった。
啾々、秋の風に、星が白い。――幸いにも、夜だった。
彼は、鞭打って、疲れた馬を、からくも山路へ追いあげた。
だが、うしろから蜀兵の声がいつまでも追ってくる。
谷や峰にも、蜀兵の声がする。
「天もわれを見離したか」
玄徳は哭いた。
しかし、たちまち、山上から駆け下ってくる一軍のあるを知って、きっと涙をはらい、静かに最期の心支度をととのえた。
二
「名ある敵の大将とみえるぞ。生捕れっ」
はや、殺到した軍馬の中からそういう声が、玄徳の耳にも聞えた。
すると、聞きおぼえのある声で、
「待て待て。手荒にするな」と、将士を制しながら、玄徳のそばへ馬乗り寄せてきた者がある。見れば、何事ぞ、それは張飛ではないか。
「おうっ、そちは」
「やあ、皇叔にておわすか」
張飛は馬を飛び降りた。そして玄徳の手をとって、この奇遇に涙した。
蜀兵は山のふもとまで迫っている。事態は急なり、仔細のお物語はあとにせんと、張飛はたちまち全軍を配備し、蜀兵を反撃してさんざんに追い討ちした。
蜀将張任は、ふしぎな新手が忽然とあらわれて、精勇溌剌、当るべくもない勢いを以て城下まで追ってきたので、
「濠橋を引け、城門を閉じよ」
と、全軍を収容して、見事に鳴りをしずめてしまった。後に、人々は云った。
(あの日の敗戦には、当然、劉皇叔もすでにお命はないはずであったのに、巴郡を越えて、山また山を伝い、厳顔を案内として雒城へさして来た張将軍の援軍と日を約したように出会うて、九死一生の危難を救われ給うなどということはただの奇蹟や奇遇ではない。まったく、後に天子になられるほどな洪福を、生れながら身に持っておられたからだろう)――と。
ともかく玄徳は、無事涪城にもどって、張飛から厳顔の功労を聞くと、金鎖の甲をぬいで、
「老将軍。これは当座の寸賞です。あなたのお力がなければ、とうてい、この義弟もかく早く、途中三十余ヵ城の要害を踏破して来ることはできなかったでしょう」と、ななめならず歓んだ。
事実、厳顔が説いて、途中三十余ヵ城を無血招降してきたために、張飛の兵力は、これへ来るまでにその新しい味方を加えて数倍になっていた。
涪城はにわかに優勢になった。それを計らずに、それから数日の後、雒城を出てここへ強襲して来た蜀の呉蘭と雷同の二将軍は、その日の一戦に、張飛、黄忠、魏延などの策した巧妙なる捕捉作戦にまんまと陥って、ふたりとも捕虜となり、ついに玄徳のまえで降伏をちかうというような情勢に逆転してきた。
雒城の内では、
「腑甲斐なき二将軍かな」と、同僚の呉懿、劉※たちが歯ぎしり噛んで、
「しかず、この上は、のるかそるかの一戦をこころみ、一方、成都に急を告げて、さらに大軍の増派を仰ごう」と、いきりぬいた。
名将張任は、沈痛にいった。
「それもよいが、まず、こうしてみては」
筆をとって作戦図を書きながら、何事かささやいた。
翌日、張任は、一軍の先に馬を飛ばして城門から繰り出した。張飛が見かけて、
「張任とは汝よな」
丈八の大矛をふるい、初見参と呶鳴ってかかった。戦うこと十数合、
「あなや。あなや」
叫びながら張任は逃げ奔る。
城北は、山すそから谷へ、また涪水の岸へもつづき、地形はひどく複雑である。張飛はいつか張任を見失い、味方の小勢と共に遠方此方馳けあるいていたが、そのうちに四山旗と化し、四谷鼓を鳴らし、
「あの虎髯を生捕れ」
と、蜀兵の重囲は張飛の部下をみなごろしにしてしまった。ひとり辛くも、張飛は血の中を奔って涪水のほうへ逃げのびた。――卑怯卑怯と罵りながら追っていた蜀将の呉懿は、そのとき一方の堤をこえて躍り馳けてきた大将に、横合いから槍をつけられ、戦い数合のうちに得物を奪られて生捕られてしまった。
「おういっ、張飛。おれだ、おれだ。引っ返して、共に雑兵を蹴ちらしてしまえ」
その大将の声に、味方の誰かと怪しみながら戻ってみると、それは荊州を共に立って、途中、孔明とひとつになって別れた常山の子龍趙雲であった。
三
長江から峡水に入り、舟行千里をさかのぼって、孔明の軍は、ようやく、涪水のほとりへ着いたのであった。
敵の雑兵を蹴ちらして後、趙雲が、そう語ると、
「では、軍師には、もう涪城へ入ったのか」と訊ね、然りと聞くや、
「急ごう」
と、急に連れ立って、涪城へ帰った。
趙雲は、入城の手土産に、途中で生捕った蜀の呉懿をひっさげていた。
玄徳がやさしく、
「予に従わないか」
というと、呉懿は、彼のただならぬ人品を仰いで、心から降参した。
孔明も、そこに来ていた。この降将に上賓の礼をあたえて、
「雒城のうちの兵力は何ほどか。劉璋の嫡子劉循を扶けておるという張任とはどんな人物か」などと質問した。
呉懿はいう。
「劉※はともかく、張任は智謀機略、衆をこえています。まず蜀中の名将でしょう。容易に、雒城は抜けますまい」
「ではまず、その張任を生捕ってから、雒城を攻めるのが順序ですな」
孔明が、座談的に、まるで卓上の椀でも取るようなことをいったので、呉懿は、
(この人、大言癖があるのか、それとも気が変なのか)
と、あやしむような眼でその面を見まもった。
あくる日、呉懿を案内に、孔明は附近の地勢を視察にあるいた。
帰ってくると、魏延、黄忠をよんで、
「金雁橋の畔、五、六里のあいだは、蘆や葭がしげっているから、兵を伏せるによい。――戦の日、魏延は鉄鎗部隊千人をあの左にかくして、敵がかかったら一斉に突き落せ。また黄忠は右にひそみ、総勢すべてに薙刀を持たせて、ただ馬の足と人の足を薙ぎつけるがいい。張任は不利と見るとき、かならず東方の山地へ向って逃げるであろう」と、さながら盤のこまでもうごかすようにいって、さらに、張飛と趙雲へも、べつに策をさずけた。
雒城の前に、金鼓が鳴った。城兵への挑戦である。
望楼から兵機をながめていた張任は、寄手の後方に連絡がないのを見て、
「孔明兵法に暗し」
と思った。
能うかぎり手近にひきよせておいて、大殲滅を計ったのである。寄手はひたと、濠へ近づき、城壁へたかりだした。
「よしっ。出ろ」
八門をひらいて、城外へ出る。同時に、南北の山すそに埋伏しておいた城兵も、鵬翼を作って、寄手を大きく抱えてきた。
潰乱、惨滅、玄徳軍は討たれ討たれ後へ退く。
「時は、今ぞ」
張任は、ついに陣前へあらわれた。荊州兵を根絶する日、このときをおいて他日なしと、みずから指揮し、みずから戦い、金雁橋をこえること二里まで奮迅してきた。
「しまった」
そのとき振り向くと、うしろに敵の一団が見える。しかも金雁橋はめちゃめちゃに破壊されている。
「油断すな。敵の趙子龍がうしろにいるぞ」
あわてて回ろうとすると、左右の蘆荻のしげみから、槍の穂が雨と突いてくる。なだれ打って、避け合おうとすれば、また一方から薙刀の群れが、馬の脛を払い、人の足を斬る。
「残念、南へ退け」
しかし、そこもすでに荊州の兵が占めていた。
ぜひなく、涪水の支流に沿って、東方の山地へ逃げた。
浅瀬をこえて、ようやく対岸の広野へわたる。――ところが、そこも怪しげなる一陣の兵がまんまんと旗を立てて一輛の四輪車を護っていた。
「や。あの車上に坐し、羽扇をもって、わしを招いているのは誰だ?」
張任が、部下へきくと、あれこそ新たに玄徳の陣に加わったと聞く軍師の孔明でしょうと、誰かうしろで答えた。
「あははは。あれが孔明か」
張任は肩をゆすって笑った。
四
――なぜならば、孔明の四輪車を囲んでいる兵は、みな弱そうな老兵であり、そのほかの兵もみなぶよぶよに肥えて、見るからに脆弱な士卒ばかりだったからである。
「いやはや、目前に見る孔明と、かねて耳に聞いていた孔明とは、大きなちがいである。用兵神変、孫子以来の人だなどと、取沙汰されておるが、あの陣容とあの兵気は何事か。芥の山を踏むより易いぞ、蹴ちらせ、あの塵芥を」
張任の一令に、なお背後にのこっていた数千の兵は、どっと喚きかかって行った。
四輪車は逃げだした。
右往左往のていで。
「車上の片輪者待て」
手づかみにして、生捕ることも易しと、張任は馬を打ってとびこみ、雑兵には目もくれず、あわや車蓋のうえから巨腕をのばそうとしかけた。
「捕ったっ」
それは足もとの声だった。何事ぞ、いきなり下から馬の脚をかついで引っくりかえした猛卒がいる。
ずでんと、見事な落馬だった。たちまち、またひとりが跳びかかる。これも雑兵にしてはおどろくべき怪力の持ち主だった。
それもそのはず、この二人は、雑兵の中にかくれていた魏延と張飛だった。
破壊したと見せた金雁橋も、実は完全破壊はしていなかった。張任があきらめて、上流の支川へ避け、浅瀬をわたって城のほうへ迂回したと見るや、蘆茅の中にいた全軍は四輪車をつつんで対岸へ越え、ここに先廻りして待っていたものだ。
山地へ谷間へ逃げこんだ蜀兵もあらまし討たれるか降伏した。
その中には、つい前日成都から援軍に来たばかりの卓膺という大将などもまじっていた。
張飛、黄忠、魏延などの諸隊も、各〻、功をあげて、ここに圧縮してきた。開いた花のつぼむように、総勢一軍となった後の陣容行軍はいかにも鮮やかだった。
「ああ、蜀の革まる日は来た」
捕虜として檻送されてゆく途中、張任は天を仰いで長嘆していた。涪城について後、玄徳が、
「蜀の諸将はみな降った。貴公ひとり降伏せぬ法もなかろう」
というと張任は、
「不肖ながら、自ら蜀の忠臣をもって任ずるものである。豈、二君にまみえよう」
と、昂然と拒んだ。
玄徳はその人物を惜しんで、いろいろ説いたがどうしても、肯かない。ただ声をはげまして、
「疾く首を打て」と、いうのみである。
孔明は見るに見かねて、
「余りにくどく強いるは、真の忠臣を遇する礼でありません。大慈悲の心をもって疾く首を刎ね、その忠節を完うさせておやりなさい」
と、玄徳にすすめた。
すなわち、張任の首を斬り、その屍を収めて、金雁橋のかたわらに、一基の忠魂碑をたててやった。鴻雁群れて、暮夜、碑をめぐって啼いた。
かくて雒城は、本格的な包囲の中に置かれた。
降参の大将、呉懿、厳顔の輩が、陣前に出て、城中の者へ説いた。
「無益な籠城は、いたずらに城内の民を苦しめるばかりであろう。我らすら降ったものを、汝らの手で如何とする気か。犬死すな」
すると、矢倉の上に、残る一将の劉※があらわれて、
「蜀の恩顧をわすれた人間どもが何をいうか」と、罵った。
とたんに彼は、矢倉の窓から下へ蹴落されていた。何者かが後ろから弱腰を突いたものとみえる。同時に、城門は内から開いた。
たちまち、城頭に、玄徳の旗がひるがえった。城中の者、ほとんど七割まで、降伏した。
劉璋の嫡子劉循は、この急変におどろいて、北門の一方からわずかな兵と共に、取る物もとりあえず、逃げ出していた。一目散、成都をさして。
「劉※を矢倉から蹴落したものはたれか」
占領後、玄徳がただすと、
「――武陽の人張翼、字は伯恭というものです」
と、侍側から申達した。
すなわち謁を与えて、玄徳は、張翼を重く賞した。
五
雒城の市街は、平静にかえった。避難した民も城下へぞくぞく帰ってきて、
「やれやれ、ありがたいお布令が出ている」
と、高札を囲んで、新しい政道を謳歌した。
孔明は、微行して、一巡城下の空気を視察してもどると、
「ご威徳はよく下まで行き渡ったようです。この上は、成都の攻略あるのみですが、功を急いで、足もとを浮かしてはなりません。まず雒城を中心として、附近の州郡にある敵性を馴ずけ、悠々成都に迫るもおそくないでしょう」と、玄徳へいった。
「いかにも」
と、玄徳も同じ気もちであったとみえ、すなわち隊を分って、各地方へ宣撫におもむかせた。
すなわち、厳顔、卓膺には張飛をつけて、巴西から徳陽地方へ。
また張翼、呉懿には、趙雲を添えて、定江から犍為地方へやった。
それらの諸隊が、地方宣撫の効をあげている間に、孔明は、降参の一将を招いて、成都への攻進を工夫していた。
「この雒城から成都までのあいだに、どういう要害があるかね」
降参の将がいう。
「まず、要害といっては、綿竹関が第一の所でしょう。そのほかは、往来を検める関所の程度で、取るに足りません」
そこへ、法正が来た。法正も早くから内応して、玄徳の帷幕に参じている者なので、蜀の事情には精通している。
「いずれ後には、成都の人民はご政下につくものです。その民を驚かし、苛烈な戦禍におびえさせることは好ましくありません。まず、四方に仁政を示し、徐々恩徳をもって、民心を得ることを先とすべきでしょう。一方それがしから書簡をもって、よく成都の劉璋を説きます。劉璋も、民の離れるのをさとれば、自然に来て降るにちがいありません」
「貴下の言は大いによい」
孔明は法正の考えを、非常に賞揚し、その方針によることにきめた。
一方、成都のうちは、いまにも玄徳が攻めてくるかと、人心は動揺してやまず、府城の内でも恟々と対策に沸騰していた。
太守劉璋を中心に、
「いかに、防ぐか」の問題が、きょうも軍議され、その席上で従事鄭度は、熱弁をふるって演説した。
「国家の急なるときは、自然、防禦の力も数倍してくる。官民一致難に当るの決意をもてば、長途遠来の荊州軍など何の怖れるほどのことがあろう。いかにここまでは、彼の侵略が功を奏してきたにしても、占領下の蜀の民は、まだ心から玄徳に服しているのではない。今、巴西地方からすべての農民を追って、ことごとく、涪水以西の地方へ移してしまい、それらの部落部落には鶏一羽のこすことなく、米穀は焼きすて、田畑は刈り、水には毒を投じ、以て彼らがこれに何を求むるも、一飯の糧もないようにしておけば、おそらく彼らは百日のうちに飢餓困憊をさまようしか道を知らないであろう。――そして成都、綿竹関の二関をかため、夜となく昼となく、奇策奇襲をもって、彼を苦しめぬけば、おそらくこの冬の到来とともに、玄徳以下の大軍は絶滅を遂げるにちがいないと考える。いやそう信じる。諸公のお考え如何あるか」
たれも黙っていた。すると、太守劉璋が、
「むかしから、国王は、国をふせいで民を安んずるということは聞いておるが、まだ、民を流離させて敵を防ぐということは聞いたことがない。それはすでに敗戦の策だ。おもしろくない」
と、いつもに似げない名言を吐いて、鄭度の策を否決した。
するとそこへ、法正から正式の書簡が来た。書中には、大勢を説いて、いまのうちに玄徳と講和するの利を弁じ、また、そうして、家名の存続を保つことの賢明なことをすすめてあった。
「国を売って敵へ走った忘恩の徒が、何の面目あって、わしにこの醜墨をみずから示すか」
劉璋は怒って、法正の使いを斬ってしまった。
直ちに、綿竹関の防禦へ、増軍を決行し、同時に、家臣董和のすすめをいれて、漢中の張魯へ、急使を派遣した。背に腹はかえられぬと、ついに、危険なる思想的侵略主義の国へ泣訴して、その援助を乞うという苦しまぎれの下策に出たのであった。