渭水を挟んで
一
曹操の本軍と、西涼の大兵とは、次の日、潼関の東方で、堂々対戦した。
曹軍は、三軍団にわかれ、曹操はその中央にあった。
彼が馬をすすめると、右翼の夏侯淵、左翼の曹仁は、共に早鉦を打ち鼓を鳴らして、その威風にさらに気勢を加えた。
「胡夷の子、朝威を怖れず、どこへ赴こうとするか。あらば出でよ、人間の道を説いてやろう」
曹操の言が、風に送られて、彼方の陣へ届いたかと思うと、
「おう、馬騰の子、馬超字は孟起。親の讐をいま見るうれしさ。曹操、そこをうごくなよ」
とどろく答えとともに、陣鼓一声、白斑な悍馬に乗って、身に銀甲をいただき鮮紅の袍を着、細腰青面の弱冠な人が、さっと、野を斜めに駈けだして来た。
「若大将を討たすな」と案じてか、それにつづく左右の将には龐徳、馬岱。また八旗の旗本、鏘々とくつわを並べて駈け進んでくる。
「あれか。馬超とは」
近づかぬうちから、曹操は内心一驚を喫した様子である。文化に遠い北辺の胡夷勢と侮っていたが、決して、彼は未開の夷蛮ではない。
「やよ。馬超」
「おうっ。曹操か」
「汝は、国あって、国々のうえに、漢の天子あるを知らぬな」
「だまれ、天子あるは知るが、天子を冒して、事ごとに、朝廷をかさに着、暴威をふるう賊あることも知る」
「中央の兵馬は、即ち、朝廷の兵馬。求めて、乱賊の名を受けたいか」
「盗人猛々しいとは、その方のこと。上を犯すの罪。天人倶にゆるさざる所。あまつさえ、罪もなきわが父を害す。誰か、馬超の旗を不義の乱といおうぞ」
いうことも、しっかりしている。これは口先でもいかんと思ったか、曹操は馬を退いて、
「あの童を生捕れ」と、左右の将にまかせた。
于禁と張郃が、同時に、馬超へおどりかかった。馬超は、左右の雄敵を、あざやかにかわしながら、一転、馬の腹を高く覗かせて、うしろへ廻った敵の李通を槍で突き落した。
そして、悠々、槍をあげて、
「おおういっ……」と一声さしまねくと、雲霞のようにじっとしていた西涼の大軍が、いちどに、野を掃いて押し襲せてきた。
その重厚な陣、ねばり強い戦闘力、到底、許都の軍勢の比ではない。
たちまち駈け押されて、曹軍は散乱した。馬岱、龐徳は、
「この手に、曹操の襟がみを、引っつかんでみせる」
と、乱軍をくぐり、敵の中軍へ割りこみ、血まなこになって、その姿を捜し求めた。
そのとき、西涼の兵が、口々に、
「紅の戦袍を着ているのが、敵の大将曹操だぞ」
と、呼ばわり合っているのを聞いて、当の曹操は逃げはしりながら、
「これは目印になる」と、あわてて戦袍を脱ぎ捨ててしまった。
するとなお執拗に追いかけて来る西涼兵が、
「髯の長いのが曹操だ。曹操の髯には特長がある」と、叫んでいた。
曹操は、自分の剣で、自分の髯を切って捨てた。
今日こそは――と期して、味方の馬岱、龐徳よりも先んじて曹操を捜していたのはもちろん馬超で、父の讐たる彼の首を見ぬうちは退かじと馬を駈け廻していたが、ひとりの部下が、彼に告げて、
「髯の長いのを目あてに捜してもだめです。曹操は髯を切って逃げました」と、教えた。
そのとき、曹操は、乱軍の中にまじって、すぐそばを駈けていたので、そのことばを小耳に挟むと、
「これはいかん」と、あわてたものとみえ、旗を取って面を包み、無二、無三、鞭を打った。
「首を包んだものが曹操だぞ」
また、四方で声がする。曹操はいよいよ魂をとばして林間へ駈けこんだ。すると誰か、槍を伸ばして突いた者がある。運よく槍は樹木の肌を突いて、容易に抜けない。曹操はその間髪にからくも遠く逃げのびた。
二
「きょうの乱軍に、絶えず予の後ろを守って、よく馬超の追撃を喰い止めていたのは誰だ」
曹操は、味方の内へ帰ると、すぐこう訊ねた。
夏侯淵が答えて
「曹洪です」
というと、曹操はさもありなんという顔して、うれし気に、
「そうか。たぶん彼だろうとは思ったが……。先日の罪は、今日の功をもって宥しおくぞ」
やがてその曹洪は夏侯淵に伴われて恩を謝しに出た。曹操は、今日の危急を思い出して、幾度か死を覚悟したことなど語りだし、
「自分も幾度となく、戦場にのぞみ、また惨敗をこうむったこともあるが、およそ今日のような烈しい戦いに出合ったことはない。馬超という者は敵ながら存外見上げたものだ。決して汝らも軽んじてはならぬ」と戒めた。
敗軍をひきまとめた曹操は、河を隔てて岸一帯に逆茂木を結いまわし、高札を立てて、
「みだりに行動する者は斬る」と、軍令した。
建安の秋十六年、その八月も暮れかけていたが、曹軍は、秋風の下に寂と陣して固く守ったまま、一戦も交えなかった。
「胡夷の兵め。また対岸で悪口を放っているな。いまいましい奴らだ」
業を煮やした曹軍の諸将が、ある時、曹操をかこんで、
「いったい北夷の兵は、長槍の術に長け、また馬の良いのを持っているので、接戦となると、剽悍無比ですが、弓、石火箭などの技術は、彼らのよくするところでありません。ひとつ、もっぱら弩をもって一戦仕掛けては如何でしょう」と、進言した。
すると、曹操は苦りきって、
「戦うも、戦わぬも、みなその腹一つにあることで、何も敵の心にあるわけじゃない」と、云い、そしてまた、
「下知に反くものは、軍罰に処すぞ。ただ部署について、守りを固うし、一歩も陣外へ出てはならん」と、再度の布令を出した。
曹操の肚をふかく察しない部将たちは、ささやき合って、首を傾げた。
「どうしたんだろう。いくら馬超に追いまくられて、お懲りになったからといえ、今度に限って、ひどく消極戦法の一点張りじゃないか」
「そろそろ、お年齢のせいかも知れんよ、銅雀の大宴を境として、お髪にもすこし白いものが見えてきたしな。……花にも人間にも、盛衰はある、春秋は拒まれぬ」
果たして、曹操には、もうそのような老いが訪れだしたのだろうか。
凡人の客観と、英雄自身の主観とにはおのずから隔たりもあり、信念のちがいもある。
われ老いたり、などとは曹操自身、まだ、夢にも思っていないらしい。いやその肉体や精神のつかれ方などに、若い頃の自身とくらべて、多分な相違が自覚されても、おそらく、彼自身そんな気持がふとでも湧くときは、強いてそれを抑圧して、
我なお若し!
という血色をみなぎらそうと努めているのにちがいなかった。
数日の後、味方の斥候がこう告げた。
「潼関の馬超軍に、またまた、新手の敵兵が、約二万も増強されたようです。しかも今度の新手もことごとく北の精猛な胡夷ばかりです」
聞くと、曹操は、なぜか独り大いに笑った。
「丞相何でお笑いなさるのですか。敵が強力になったと聞かれて」
ひとりが問うと、
「まず、酒宴して、祝おうか」と、のみで、その夕べ、大いに慶賀して、共に盃を傾けた。
しかし、今度は、幕将たちのほうがくすくす笑った。
曹操は酔眼を向けて、
「卿らは、予が、馬超を討つ計がないのを笑うのであろう」
みな恐れて口をつぐんでしまった。曹操は追求して、
「ひとを笑うほどな計策のある者は、大いにここで蘊蓄を語れ。予も聞くであろう」と、いった。
三
みな顔を見あわせた。
ひとり徐晃は進んで、忌憚なく答えた。
「このまま、潼関の敵と睨みあいしていたら、一年たっても勝敗は決しますまい。それがしが考えるには、渭水の上流下流は、さしもの敵も手薄でしょうから、一手は西の蒲浦を渡り、また丞相は河の北から大挙して越えられれば、敵は前後を顧みるにいとまなく、陣を乱して潰滅を早めるにちがいないと思いますが……」
「徐晃の説は大いに良い」
曹操は賞めて、
「では今、汝に四千の兵を与えるから、朱霊を大将とし、それを扶けて、先に河の西を渡り、対岸の谷間にひそんで予の合図を待て。――予も直ちに、渭水の北を渡って、呼応の機を計るであろう」
と、即座に手筈をきめた。
それから間もなく、西涼の陣営馬超の手もとへ、すぐ早耳迅眼の者が、
「曹操のほうでは、船筏を作ってしきりと渡河の準備をしています」という情報をもたらした。
韓遂は手を打って、
「若将軍、敵は遂に、自ら絶好な機会を作ってきましたぞ。兵法にいう。――兵半バヲ渉ラバ撃ツベシ――と」
「ぬかるな、諸将」
八方に間者を放って、曹軍が河を渡る地点を監視していた。
とも知らず、曹操は、大軍を三分して、渭水のながれに添い、まず一手を上流の北から渡して、その成功を見とどけ、
「まず、首尾はよさそうだ」
と、水ぎわに床几をすえながら、刻々と報らせて来る戦況を聞いていた。
「上陸したお味方は、すでに対岸の要所要所、陣屋を組み、土塁を構築しにかかっています」
すると、第二第三とつづいてくる伝令が云った。
「今、南の方から、敵ともお味方とも分らぬ一隊が、馬煙をあげて、これへ来ます」
第五番目の伝令は、
「ご油断はなりません。ご用意あれっ」と呶鳴って、
「白銀の甲、白の戦袍を着た大将を先頭にし、約二千ばかりの敵が、どこを渡ってきたか、逆襲してきます。――いや、うしろのほうからです」と狼狽していう。
その時、大軍は河を渡りつくして、曹操のまわりには、たった百余人しかいなかった。
「馬超ではないか」
愕然と、人々は騒ぎ立ったが、剛復な曹操は、
「騒ぐな」と、のみで床几から起とうともしない。
ところへ、許褚が船を引返してきて、その態を見るやいな、
「丞相丞相。敵は早くも、味方の裏をかいて、背後に廻っていますっ。早くお船へお移り下さい」と、呼ばわった。
曹操はなお、
「馬超が来たとて、何ほどのことがあろう。一戦を決するまで」
と、自若としていたが、もうそのとき彼方の馬煙は辺り間近に、土砂を降らせて、馬超、龐徳をはじめ、西涼の八旗など、猛然、百歩のところまで迫っていた。
「すわ。一大事」と、許褚は躍り上がって、曹操のそばへ馳けつけ早く早くと促したが、事の急に、いきなり曹操の体を背中へ負ってしまった。
そして岸辺まで、一気に馳け出したが、船は漂い出して渚から一丈を離れていた。それを許褚は、曹操を背に負ったまま、
「おうっ」
と叫んで、一跳びに身を躍らせ、危うくも舟の中へ乗り移った。
百余人の近侍、旗本たちは、ざぶざぶと水につかって、溺れるもあり、泳ぎだすもあり、そこらの小舟や筏へすがりつき、或いは見境なく、曹操の舟へしがみついて来るのもある。
「たかるな。舟が傾く」
許褚は、それらの味方を、棹で払い退けながら、逃げ出したが、水勢は急で、見るまに下流へ押しながされて行く。
「のがすな」
「あれこそ、曹操」
西涼の兵は、弓を揃えて、雨の如く乱箭を送った。許褚は、片手に馬の鞍を持ち、片手に鎧の袖をかざして、曹操の身をかばっていた。
四
曹操ですら九死に一生を得たほどであるから、このほか、いたる所で、曹軍の損害はおびただしいものがあった。
渭水の流れがたちまち赤く変じたのでも分る。浮きつ沈みつ流れてくる人馬はほとんど魏の兵であった。
それでも、この損害は、まだ半分で済んでいたといってよい。なぜならば、曹軍の敗滅急なりと見て、ここに渭南の県令丁斐という者が、南山の上から牧場の牛馬を解放して、一散に山から追い出したのである。奔牛悍馬は、止まる所を知らず、西涼軍の中へ駈けこんで暴れまわった。
いや、暴れただけなら、何も戦闘力を失うほどでもなかったろうが、根が北狄の夷兵であるから、
「良い馬だ。もったいない」と、奪いあい、牛を見ては、なおさらのこと、
「あの肉はうまい」と、食慾をふるい起して、思いがけない利得に夢中になってしまったものだった。
そのために西涼軍は、せっかくの戦を半ばにして、角笛吹いて退いてしまった。
その頃、曹操は北岸へ上がって、一息ついているというので、魏の諸将もおいおい集まってきた。許褚は満身に矢を負うこと、簑を着たようであったが、人々の介抱を拒んで、
「丞相はおつつがないか」と、そればかり口走っていた。
「貴体には何のご異状もない」と、人々は慰めて、ようやく彼を陣屋の中に寝かしつけた。
曹操は、部下の見舞をうけながら、甚だしく快活に、終始きょうの危難を笑いばなしに語っていたが、
「そうそう、渭南の県令を呼んでくれ」と、丁斐を召し寄せ、
「今日、南山の牧を開いて、官の牛馬をみな追い出したのはおまえか」と、質した。
丁斐は、当然、罪をこうむるものと思って、
「私です。ご処罰を仰ぎます」
と、悪びれずにいった。
「処分してやる」
と、曹操は祐筆をかえりみて何かいった。祐筆はすぐ一通の文をしたためて来て、丁斐に授けた。
「丁斐、披見してみろ」
丁斐が畏る畏る開いてみると、今日ヨリ汝ヲ典軍校尉ニ命ズ、という辞令であった。
校尉丁斐は、感泣して、
「長くこの渭南に県令としておりましたので、いささか地理には精通しています。鈍智の一策をお用い賜わらば、光栄これに過ぎるものはありません」
と、恩に感じるのあまり、自分の考えている一計略を進言した。
一方、西涼の馬超は、
「きょうばかりは、残念だった」と、韓遂に向って、無念そうに語っていた。
「もう一歩で、曹操を、手捕りにできた所を、何という男か、曹操を背なかに負って、船へ跳び移ってしまった。今でも目に見える心地がするが、敵ながらあの男の働きは、凡夫の業でない」
韓遂は何度もうなずいて、
「それは道理です。あれは有名な魏の一将、許褚ですからね」
「許褚というか」
「お味方に、八旗の旗本ある如く、曹操もその旗本の精鋭中の精鋭を選び、これを虎衛軍と名づけて、常に親衛隊としていました。その大将に二名の壮将を置き、ひとりは陳国の人、典韋と申し、よく鉄の重さ八十斤もある戟を使って、勇猛四隣を震わせていましたが、この人はすでに戦歿して今はおりません。その残るひとりが譙国の人、すなわち許褚です。強いわけですよ」
「なるほど、それでは――」
「その力は、猛る牛の尾を引いてひきもどしたという程ですからな。――で世間のものは、彼を綽名して、虎痴といっています。また、虎侯ともいうそうです」
そしてまた、韓遂は、かたく馬超に忠告した。
「以後は、あの男を陣頭に見ても、一騎討ちはなさらないほうがよろしい」
斥候の報告によると、曹操の軍は、それから後しきりと河を越えて、西涼の背後を衝こうとする態勢にあるとあった。
五
韓遂は重ねて云った。
「味方にとって、ここに一つの悩みがあります。それはこの戦いが延引すると、曹操が今の陣地に塁壕を構築して、不落の堅城としてしまうことで、そうなると、容易に渭水を抜くことはできません」
馬超も同感だった。
「いかにも、攻めるなら今のうちだが」
「軽兵を率いて、この韓遂が、曹操の中軍へ突撃しましょう。あなたは、北岸を防いで、敵兵が河を越えてこないように、よくこの本陣を固めていてください」
「よし。防ぐには、自分一手で足りる。御身ひとりでは心もとない。龐徳をも連れて行かれるがよかろう」
韓遂と龐徳とは、直ちに、西涼の壮兵千余騎を選んで深夜から暁にかけて、曹操の陣を奇襲した。
けれど、この計画は、まんまと曹操の思うつぼに落ちたものであった。かねてこの事あるべしと、曹操は、渭南の県令から登用した校尉丁斐の策を用いて、河畔の堤の蔭に沿うて仮陣屋を築かせ、擬兵偽旗を植えならべて、実際の本陣は、すでにほかへ移していたのである。
のみならず、附近一帯に、塹をめぐらし、それへ棚をかけて、また上から土をかぶせ、陥し穽を作っておいたのを、西涼勢はそうとも知らず、
「わあっ」
と喊声をあげながら殺到したのだった。
当然、大地は一時に陥没し、人馬の落ちた上へ、また人馬が落ち重なった。
阿鼻、叫喚、救けを呼ぶ声、さながら桶の泥鰌を見るようだった。
「しまった」
龐徳は、手足にからむ味方を踏みつぶして、ようやく坑から這い出して、坑口から槍の雨を降らしている敵兵十人余りを一気に突き伏せ、
「韓遂っ。韓遂っ」
と、呼びながら、主将のすがたを捜していた。
そのうちに、敵の曹仁の一家曹永というものに出合った。
龐徳は、渡り合って、一刀のもとに、曹永を斬り伏せ、その馬を奪って、さらに、敵の中へ、猛走して行った。
韓遂も、坑に墜ちて、すでに危なかったが、龐徳が一時敵を追いちらしてくれたので、その間に、土中から躍り出し、これも拾い馬に跳び乗って、辛くも死地をのがれることができた。
何にしても、この奇襲は、大惨敗に終ってしまった。
敗軍を収めてから、馬超が損害を調べてみると、千余騎のうち三分の一を失っていた。
数としては、少なかったともいえるが、馬超の心をひどく挫いたものは、かの旗本八旗のうちの程銀と張横のふたりが敢ない死をとげたことだった。
しかし壮気さかんな馬超は、
「こうなれば、なおさら、曹操が野陣しているうちに撃破してしまわねば、永久に味方の勝ち目はない」
と、その日のうちに、第二次襲撃を企てて、今度は身みずから先手に進み、馬岱、龐徳をうしろに備えて、ふたたび魏の野陣を夜襲した。
ところが、さすがに曹操は、百錬の総帥だけあって、
「今夜、また来るぞ」と、それを予察していた。
馬超の性格と、初度の敵の損害の少なかった点から観て、早くも、そう覚っていたから、馬超の第二次強襲も、なんの意味もなさなかった。
六里の道を迂回して、西涼の夜襲隊が、曹操の中軍めがけて、不意に突喊してみたところ、そこは四方に立ち並ぶ旗や幟ばかりで、幕舎のうちには、一兵もいなかったのである。
「やや。空陣だ」
「さては」
と、空を搏ってうろたえた悍馬や猛兵が、むなしく退き戻ろうとするとき、一発の轟音を合図に、四面の伏勢がいちどに起って、
「馬超を生かして還すな」と、ひしめいた。
西涼軍の一将成宜はこのとき魏の夏侯淵に討たれ、そのほかの将士もおびただしく傷つけられた。馬超、龐徳、馬岱など、火花をちらして善戦したが、結局、敗退のほかなかった。
かくて、西涼軍と中央軍とは、渭水を挟んで一勝一敗を繰り返し、勝敗は容易につかなかった。