一掴三城

 一方、孫乾は油江口にある味方の陣に帰ると、すぐ玄徳に、帰りを告げて、
「いずれ周瑜が自身で答礼に参るといっておりました」と、話した。
 玄徳は、孔明と顔見合わせて、
「これほどな儀礼に、周瑜が自身で答礼に来るというのはおかしい。何のために来るのであろう」
「もちろん、南郡の城が気にかかるので、こちらの動静を見に来るのでしょう」
「もし兵を率いて来たらどうしようか」
「ご心配はありません。まずこんどは探りだけのことでしょう。ご対談のときには、かようにお答え遊ばされい」
 孔明は、何事かささやいた。
 先触れのあった日、油江口の岸には、兵船をならべ、軍馬兵旗を整々と立てて、周瑜の着くのを待っていた。
 周瑜は、随員と守護の兵三千騎を連れて、船から上陸した。――見るに、陸上にも江辺にも、兵馬や大船が整然と旗幟をそろえているので、
「案外、馬鹿にはならぬ兵力を持っておるな」
 といわんばかりな流し目をくばりながら、趙雲の一隊に迎えられて、陣の轅門へ入って行った。
 もちろん、玄徳、孔明、そのほかの部将は、篤く出迎え、大賓の礼をとって、会宴の上座へすすめた。
 酒、数巡。
 玄徳は杯をあげて、しきりに、赤壁の大勝を激賞しながら、
「ときに、引続いて、江北へご進撃と承り、いささか戦いのお手助けを申さんと、急遽、この油江口まで陣を進めて来ましたが、もし周都督のほうで、南郡をお取りになるご意志がなければ、玄徳の手をもって、攻め取りますが」と、軽くいった。
 すると、周瑜も、気軽に笑って、戯れた。
「どう致しまして――。とんでもない。呉が荊州を併呑せんと望んでいたことは実に久しいものです。いま、南郡はすでに、呉の掌にあるものを、決して、ご心配下さるに及ばん」
「けれど、世の諺にも、掌中ノモノ必ズシモ掌中ノ物ナラズ――ということもあります。曹操が残して行った曹仁は北国の万夫不当。おそらく周都督のお手にはやすやすと落ちないのではないかと案じられますが」
 周瑜は、眉のあいだに、憤然と憤炎をあらわしたが、すぐ皮肉な嘲笑にそれを代えて、
「もし、それがしの手に奪れなかったら、あなたの手で奪ったらよかろう」
「ほ。そうですか。それはかたじけない。――ここには、魯粛孔明という生き証人もいること、都督の今のおことばをよく聞いておいてもらいたい」
「大丈夫の一言、何の、証人などが要ろう」
「あとでご後悔はありますまいな」
「ばかな」
 周瑜は、一杯を干して、また一笑した。
 そのそばから孔明はこういって、旺に、周瑜の言を賞めあげた。
「さすがに、周都督の一言は、呉の大国たる貫禄を示すに余りある公論というものです。荊州の地は、当然まず呉軍からお攻めあるのがほんとです。そして万が一にも、呉の手にあまったときは、劉皇叔が試みにそれを攻め取ってみられるがよいでしょう」
 周瑜らが帰った後である。
 玄徳は、嘆かわしい顔して、孔明を責めた。
「――周瑜と対談の時は、ああ云え、こう答えよと、先生がこの玄徳に教えたので、予はその通りに応対していた。それなのに、先生自身、周瑜に向って、南郡を取れといわんばかり励まして帰したのは一体どういうつもりか」
「その以前、私が荊州をお取りなさいと、あんなにおすすめ申したのに、君にはさらに耳へお入れがなかった」
「わが一族、わが味方、拠るに地もなく、ほとんど今は孤窮の境界。むかしを問うてくれるな。事情も変っている」
「ご心配には及びません。べつに孔明に一計があります。近いうちに必ず君を南郡城に入れてご覧にいれまする」

 周瑜は、自軍の陣へ帰ると、すぐに南郡城へ向って、猛烈な行動を起すべく、指令を出していた。
 魯粛がその間に云った。
「玄徳とお会いなされた折、なぜ彼に対してもし呉軍の手にあまるときは、そっちで南郡を攻め取るも随意だ――などといわれたのですか」
「それは君、ことばの上だけのものさ。人情の余韻を残すというものだ。すでに赤壁においてすらあの大捷を博した我軍のまえに、南郡の城のごときは鎧袖一触、あんなものを取るのは手を反すよりやさしいことじゃないか」
 先手五千の兵には、蒋欽が大将として進み、副将丁奉、徐盛それにつづき、周瑜の中軍も前進して、堂々城へ迫った。
 このときまで、城中の曹仁は、曹操の残して行った誡めを鉄則として、
「出るな。守れ」
 の一方でただ要害をきびしくするに汲々としていたが、部下の牛金はしきりに勧めた。
「要害の守りというものは或る期間だけのものです。古来、陥ちない城というものはない。いますでに呉軍が城下に迫っているのに、城を出てこれを撃つという変もなければ、城中の士気は、消極的になるばかりで、所詮、長く持てるものではありません」
「それも一理ある」
 曹仁は、牛金の乞いを容れて、兵五百をさずけ、機を計って奇襲を命じた。
 牛金は、城門から突出して、敵の先鋒、丁奉の軍を蹴散らした。丁奉は、牛金を目がけて、一騎打ちを挑んだが、たちまち後ろを見せて逃げ出した。
 牛金の五百騎は、逃げる丁奉を追いまくって、つい深入りした。にわかに、さっとかえした丁奉軍は、鼓を鳴らして、味方を糾合し、追い疲れた牛金軍五百を袋の中の鼠としてしまった。
「戦況いかに?」と、城中の櫓から眺めていた曹仁は、牛金の危急を見て、自身手勢を率いて、救いに出ようとした。
 すると、長史陳矯が、
「丞相がこの城を託して都へ帰らるる時、何と宣われましたか」
 と、口を極めて、軽率な戦いを諫めた。
 だが、曹仁は、
「牛金は大事な大将だし、部下五百は、城中で重きをなす精鋭ばかりだ。それを見殺しにするは、この城の自殺にひとしい」とばかり、耳もかさず、馬に打乗り、屈強な兵千余を率いて、城外へ渦まき出たので、陳矯もやむなく櫓へ駈けのぼり、太鼓を打って勢いを添えた。
 かくて、曹仁は、呉軍の真只中へ馳け入って、まず徐盛の一角を蹴破り、牛金と合流して、首尾よく彼を救い出した。
 けれどまだ、あと五、六十騎の者が、重囲の中に残されているのを知ると、
「よしっ、もう一度行って来る」
 と、ふたたび馳け入り、あとの者をも一人もあまさず救出して帰ってきた。
 すると、呉の先鋒の大将蒋欽が、道をさえぎって、曹仁を討ち止めようと試みた。けれど曹仁の勇は、それらの阻害を物ともせず、四角八面に奮戦し、また牛金もそれを助け、城中からも曹仁の弟の曹純が加勢に出て、むらがる敵へ当ったので、ついに、その日は首尾よく、目的を達して、
曹仁ここにあり」
 の重きを敵へ知らしめた。
 で、城中では、その夜、
「まず、合戦の幸先はいいぞ」
 と、大いに勝ち戦を賀して、杯をあげていたが、それに反して、序戦に敗れた呉軍の営内では、
「敵に数倍する勢を擁しながら、しかも城中から出てきた兵に不意を衝かれるとは何たる醜態だ」
 と、蒋欽、徐盛のともがらは、都督周瑜の面前で、その責めを問われ、さんざん痛罵されていた。

「この上は、自身、南郡の城を一もみに踏みつぶしてみせる」
 周瑜は、怒った後で、こう豪語した。
 ここ連戦連勝の勢いに誇っていたところなので、蒋欽の些細な一敗も、彼にはひどくケチがついたような気がしたものとみえる。
「ご自身、軽々しい戦いはまずなさらぬほうがよいでしょう」
 諫めたのは、甘寧である。
 甘寧は、説いた。
南郡と掎角の形勢を作って、一方、夷陵の城も戦備をかためています。そしてそこには、曹仁と呼応して、曹洪がたて籠っていますから、うかつに南郡だけを目がけていると、いつ如何なる変を起して、側面を衝いてくるかもしれません」
「――では、どうしたがいいか」
「それがしが三千騎を拝借して、夷陵の城を攻め破りましょう」
「よし。そのまに、南郡の城は、わが手に片づける」
 手配はなった。
 甘寧は、江を渡って、夷陵城へ攻めかかった。
 南郡の城の櫓から、それを眺めた曹仁は驚いた。
「これはいかん。寄手の一部が夷陵へ迫った。夷陵曹洪は困るだろう。何しろまだ防備が完全でないから」
 と、陳矯に、急場の処置を諮ったところ、
「ご舎弟の曹純どのに、牛金を副将とし、直ちに急援をおつかわしになったらよいでしょう。夷陵の城が陥ちたら、この南郡城も瀕死になります」と、彼もあわてだした。
 そこで曹純と牛金は、にわかに夷陵の救いに馳せつけた。曹純は外部から城内の曹洪と聯絡をとって、
「力によらず、謀略を主として、敵を欺こうではないか」と、一計を約束した。
 甘寧は、それとも知らず、前進また前進をつづけ、敗走する城兵を追い込んで、
「意外にもろいぞ」
 と、一挙、占領にかかった。
 曹洪も出て奮戦したが、実は、策なので、たちまち支え難しと見せかけて、城を捨てて逃げた。
 日暮れに迫って、甘寧の軍勢は、残らず城内へなだれ入り、凱歌をあげて、誇っていたが、なんぞ測らん、曹純、牛金の後詰が、諸門を包囲し、また曹洪も引っ返してきて、勝手を知った間道から糧道まで、すべて外部から遮断してしまったので、寄手の甘寧と曹純はまったく位置をかえて、孤城の中に封じこまれてしまった。
 この報らせが、呉軍に聞えたので、周瑜は重ね重ね眉をしかめ、
程普。何か策はないか」と、評議に集まった面々を見まわした。
 程普はいう。
甘寧は、呉の忠臣、見殺しはできません。然りといえど、今、兵力を分けて、夷陵へかかれば、敵は南郡の城を出て、わが軍を挟撃して来ましょう」
 呂蒙がそれにつづいて、こう意見を吐いた。
「ここの抑えは、凌統に命じて行けば、充分に頑張りましょう。やはり甘寧を救うのが焦眉の急です。てまえに先鋒をお命じあって、都督がお続きくださるなら、必ず十日以内に、目的は達せられるかと思われるが……」
 周瑜はうなずいて、さらに、
凌統。大丈夫か」と、念を押した。
 凌統は、ひきうけたが、
「――ただし、十日間がせいぜいです。十日は必ず頑張ってご覧に入れますが、それ以上日数がかかると、それがしはここで討死のほかなきに至るかもしれません」と、いった。
「そんなに日のかかるほどな敵でもあるまい」
 と、周瑜は、兵一万に凌統をあとに残して、そのほかの主力をことごとく夷陵方面へうごかした。

 途中で、呂蒙が献策した。
「これから攻めに参る夷陵の南には、狭くけわしい道があります。附近の谷へ五百ほどの兵を伏せ、柴薪を積んで道をさえぎり置けば、きっと後でものをいうと思いますが」
 周瑜は、容れて、
「その計もよからん」と、手筈をいいつけ、さらに、前進して夷陵へ近づいた。
 夷陵の城は桶の如く敵勢に囲まれている。誰かその鉄桶の中へ入って、城中の甘寧と聯絡をとる勇士はないか――と周瑜がいうと、
「それがしが参らん」と、周泰がすすんでこの難役を買って出た。
 彼は、陣中第一の駿足を選んでそれにまたがり、一鞭を加えて、敵の包囲圏へ駈けこんで行った。
 ただ一騎、弾丸のように駈けてきた人間を、曹洪、曹純の部下はまさか敵とも思えなかった。ただ近づくや否、
「何者だっ」
「待てっ待てっ」と、さえぎった。
 周泰は、刀を抜いて剣舞するようにこれを馬上でまわしながら、
「遠く都から来た急使だ。曹丞相の命を帯ぶる早馬なり、貴様たちの知ったことじゃないっ。近づいて蹴殺されるな」と、喚き喚き、疾走して行った。
 その勢いで、二段三段と敵陣を駈け抜けてしまい、遂に、夷陵の城下へ来て、
甘寧、城門を開けてくれ」と、どなった。
 櫓からそれを見た甘寧は、どうして来たかと、驚いて迎え入れた。周泰は云った。
「もう大丈夫。安心しろ。周都督がご自身で救いに来られた。そして作戦はこう……」
 と、一切をしめし合い、ここに完全な聯絡をとった。
 きのう、おかしな男が、ただ一騎、城中へ入ったというし、それから俄然城兵の士気があがっているのを眺めて、寄手の曹洪、曹純は、
「これはいかん」と、顔見あわせた。
周瑜の援軍が近づいた証拠だ。ぐずぐずしておれば挟撃を喰う。どうしよう?」
「どうしようといっても急には城も陥ちまい。甘寧をわざと城へ誘いこんで袋叩きにするという策は、名案に似て、実は下の下策だったな、こうなってみると」
「今さらそんな繰言をいってみても仕方はない。南郡へも使いが出してあるから、兄の曹仁から加勢に来るのを待つとするか」
「ともかくも一両日、頑張ってみよう」
 何ぞ無策なると心ある者なら歯がゆく思ったにちがいない。すぐ次の日にはもう周瑜の大軍がここへ殺到した。曹洪、曹純、牛金などあわてふためいて戦ったものの、もとより敵ではなかった。陣を崩してたちまち敗走の醜態を見せてしまう。
 のみならず、周瑜の急追をよけて、山越えに出たはいいが、途中のけわしい細道までかかると、道に積んである柴や薪に足をとられ、馬から谷へ落ちる者や、自ら馬をすてて逃げ出すところを討たれるやらで、さんざんな態になってしまった。
 呉の軍勢は、勝ちに乗って、途中、敵の馬を鹵獲すること三百余頭、さらに進撃をつづけて、遂に南郡城外十里まで迫って来た。
 南郡の城に入った曹洪、曹純などは、兄の曹仁を囲んで、暗澹たる顔つきを揃えていた。今にして、この一族が悔いおうていることは、
「やはり丞相のおことばを守って、絶対に城を出ずに、最初からただ城門を閉じて守備第一にしておればよかった」という及ばぬ愚痴だった。
「そうだ! 忘れていた」
 曹仁は、その愚痴からふと思い出したように、膝を打った。それは曹操が都へ帰る時、いよいよの危急となったら封を開いてみよ、といってのこして行った一巻の中である。その中にどんな秘策がしたためてあるかの希望であった。

 ここ、周瑜の得意は思うべしであった。まさに常勝将軍の概がある。夷陵を占領し、無事に甘寧を救い出し、さらに、勢いを数倍して、南郡の城を取り囲んだ。
「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」
 城外に高い井楼を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こうつぶやきながらなお、眉に手をかざしていた。
 見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉外門に出て、その本丸や主要の墻の陰には、すこぶる士気のない紙旗や幟ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。
「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。さもあらばただ一撃に」と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普に命じて、城中へ突撃した。
 すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、
「来れるは周瑜か。湖北の驍勇曹洪とは我なり。いざ、出で会え」と、名乗りかけて来た。
 周瑜は、一笑を与えたのみで、
夷陵を落ちのびた逃げ上手の曹洪よな。さる恥知らずの敗将と矛を交えるが如き周瑜ではない。誰か、あの野良犬を撲殺せい」と、鞭をもって部下をさしまねいた。
「心得て候う」と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当であった。
 人交ぜもせず、二人は戦った。交戟三十余合曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。
 するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、
「気怯れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」と、呼ばわった。
 呉の周泰がそれに向って、またまた曹仁を追い退けてしまった。ここに至って、城兵は全面的に崩れ立ち、呉軍は勢いに乗って、滔々と殺到した。
 喊鼓、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、
「今なるぞ。この期をはずすな」
 と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。
 息もつかせぬ呉兵の急追に、度を失ったか曹仁曹洪をはじめ、城門へも逃げ込み損ねた守兵は、みな城外の西北へ向って雪崩れ打って行った。
 すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。――いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。
「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。
 すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史陳矯が、
「ああ、まさにわが計略は図にあたった。――曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙筒へ火を落すと、轟音一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。
 とたんに、あたりの墻壁の上から弩弓、鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、駒を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、足下の大地が一丈も陥没した。
 陥し穽であったのだ。上を下へとうごめく将士は、坑から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一閃の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。
 どうっと馬から転げ落ちる。そこを敵中の一将牛金が、首を掻こうと駈けてくるのを、呉の丁奉、徐盛らが、馬の諸膝を薙ぎ払って牛金を防ぎ落し、周瑜の体をひっかついで呉の陣中へ逃げ帰った。

 壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
「退鉦っ。退鉦をっ」と、程普はあわてて、総退却を命じていた。
 そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
「何よりは、都督のお生命こそ……」
 と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡を手当させた。
「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
 医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
「鑿と木槌をよこせ」と、いった。
 程普が驚いて、
「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口を指さして、
「ごらんなさい。素人が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
「ううむ、そうか」
 と、ぜひなく唾をのんで見ていると、医者は鑿と槌をもって、かんかんと骨を鑿りはじめた。
「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
 周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、
「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」
 と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
 荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒え、周瑜はたちまち病床から出たがった。
「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
 医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」と、厳戒した。
 城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、
「どうした呉の輩。この陣中に人はないのか。中軍は空家か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
 けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
「静かに。静かに……」と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。
 牛金の来訪は依然やまない。来ては辱めること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡が完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。
 かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて襲せてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜もさすがに武人、がばと病床に身を起き直して、
「あの喊の声はなんだ」と、訊ねた。
 程普が、答えて、
「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
「鎧を出せ。剣をよこせ」と、罵った。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍を馬の革につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」
 と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。

 まだ癒えきらない後ろ傷の身に鎧甲を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。
 それを見た曹仁の兵は、
「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。
 曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、
「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」と、軍卒どもへ命令した。
 そこで、曹仁自身も先に立ち、
周瑜孺子。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛は持てるや」
 などと嘲弄した。
 彼の将士も、その尾について、さんざん悪口を吐きちらすと、たちまち、怒面を朱泥のようにして、周瑜は、
「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」
 と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。
潘璋これにあり。いでそれがしが」
 と、周瑜のうしろに控えていた一将が、駈け出そうとする途端に、周瑜は、くわっと口を開き、血でも吐いたか、矛を捨てて、両手で口をふさぎながら、どうと、馬の背から転げ落ちた。
 それと見て、敵の曹仁は、
「ざまを見よ。彼奴、血を吐いて死したり」と、一斉に斬り入ってきた。
 呉軍は色を失って、総くずれとなり、周瑜の身を拾って、陣門へ逃げこんだ。この日の敗北もまた惨たるものであった。
 憂色深き中に周瑜は取巻かれていた。だが、彼は案外、元気な容子で、医者のすすめる薬湯など飲みながら、味方の諸将へ話しかけて、
「きょう馬から落ちたのは、わざとしたので、金瘡が破れたのではない。曹仁が漫罵の計を逆用して、急に血を吐いた真似をして見せたのだ。さっそく陣々に喪旗を立て、弔歌を奏でて、周瑜死せりと噂するがいい」と、いった。
 次の日の夕方ごろ、曹仁の部下が城外で、呉兵の一将隊を捕虜にして来た。訊問してみると彼らは、
「昨夜ついに、呉の大都督周瑜は、金瘡の再発から大熱を起して陣歿されました。で、呉軍は急に本国へ引揚げることに内々きまったようですから、所詮、呉に勝ち目はありません。勝ち目のない軍について帰っても、雑兵は、いつまで雑兵で終るしかありませんから、一同談合して降参に来たわけです。もしわれわれをお用い下さるなら、今夜、呉陣へ案内いたします。喪に服して意気銷沈している所へ押襲せれば、残る呉軍を殲滅し得ることは疑いもありませぬ」
 曹仁曹洪、曹純、陳嬉、牛金などは、鳩首して密議にかかった。その結果、深更に及んで、呉の陣へ、大襲を決行した。
 ところが、陣中は、旗ばかり立っていて、人影もなかった。寥々として、捨て篝が所々に燃え残っている。
「さては早、ここを払って、引揚げたか?」
 と疑っていると、たちまち、東門から韓当、蒋欽、西門から周泰潘璋。南の門からは徐盛、丁奉。北の柵門からも陳武、呂蒙などという呉将の名だたる手勢手勢が、喊を作り、銅鑼をたたき、一度に取籠めて猛撃して来たため、空陣の袋に入っていた曹仁以下の兵は、度を失い、さわぎ立って、蜂の巣のごとく叩かれたあげく、士卒の大半を討たれて、八方へ潰乱した。
 曹仁、曹純、曹洪など、みな自分らの南郡へ向って逃げたが、途中、呉の甘寧が道をさえぎっていたので、城内へ入ることもできず、遂に、襄陽方面へ遁走するのほかなかった。
 死せる周瑜は生きていた。この夜、周瑜は十分に勝ちぬいて、意気すこぶる旺に、程普をつれて、乱軍の中を縦横し、いでこの上は南郡の城に、呉の征旗を高々と掲げんものと、壕の辺まで進んでくると、こは抑いかに、城壁の上には、見馴れない旗や幟が、夜明けの空に、翩翻と立ちならんでいる。
 そしてそこの高櫓の上には、ひとりの武将が突っ立って、厳に城下を見下していた。

 怪しんで、周瑜が、
「城頭に立つは、何者か」と、壕ぎわから大音にいうと、先も大音に、
常山趙雲子龍孔明の下知をうけて、すでにこの城を占領せり。――遅かりし周瑜都督、お気の毒ではあるが、引っ返し給え」と、城の上から答えた。
 周瑜は仰天して、空しく駒を返したが、すぐ甘寧をよんで荊州の城へ馳せ向け、また凌統をよんで、
「即刻、襄陽を奪い取れ」と、命じた。
 ――われ、孔明に出しぬかれたり!
 周瑜の心中は、すこぶる穏やかでなかったのである。この上は、時を移さず、荊州、襄陽の二城を取って、その後に南郡の城を取り返そうと肚をきめたものだった。
 ところが、たちまち、早馬が来て、
荊州の城にもすでに張飛の手勢が入っている」と、告げた。
「げッ、何として?」と疑っているところへ、またまた、襄陽からも早馬が飛んで来て、
「時すでに遅しです。襄陽城中には、関羽の軍がいっぱいに入って、城頭高く、玄徳の旗をひるがえしている」と、報らせてきた。
 周瑜が、その仔細を聞くと、こうであった。孔明南郡の城を取るや否や、すぐ曹仁の兵符(印章)を持たせて人を荊州に派し、(南郡あやうし、すぐ救え)と云い送った。
 荊州城の守将は、兵符を信じて、すぐ救援に駈け出した。留守を測っていた孔明は、すぐ張飛を向けてそこを占領し、同時にまた、同様な手段で、襄陽へも人をやった。
(われ今あやうし。呉の兵を外より破れ)と、いう檄である。
 襄陽を守っていた夏侯惇も、曹仁の兵符を見ては、疑っているいとまもなく、直ちに城を出で、荊州へ走った。
 かねて孔明の命をうけていた関羽は、すぐ後を乗っ取ってしまった。かくて南郡、襄陽、荊州の三城は、血もみずに、孔明の一握に帰してしまったものである。
 周瑜の驚きかたは、ひと通りや二通りではない。失神せんばかり面色を変えて、
「いったい、どうして、曹仁の兵符が、孔明の手になんかあったのか」と、叫んだ。
 程普が、首を垂れていった。
孔明、すでに荊州を取る。荊州の城にいた魏の長史陳矯は、城に旗の揚がるよりも先に、孔明に生擒られてしまったにちがいありません。兵符は常に、陳矯が帯びていたものです」
 聞くや否、周瑜は、
「――あっ」と床に仆れた。
 怒気を発したため、金瘡の口が破れたのだった。こんどは計ではない。ほんとに再発したものである。
 だが、人々の看護によって、ようやく蘇生の色をとりもどすと、周瑜はなお牙を噛んで、
「だから、だからおれは疾くから、孔明を危険視していたのだ。もし孔明を殺さずんば、いつの日かこの心は安んずべき。見よ、今に!」と、罵った。
 そしてひたすら南郡の奪回を策していると、一日、魯粛が来て、
「いかがです。ご気分は」と、見舞った。
 周瑜はもう寝てなどいなかった。意気軒昂を示して、
「近々のうち、玄徳、孔明と一戦を決し、かの南郡を手に入れた上はいちど呉へ帰って少し養生しようと思う」と、語った。すると、魯粛は、
「無用です、無用無用」と、首を振った。

 魯粛はいう。
「いま、曹操と戦って赤壁に大捷を得たといっても、まだ曹操そのものは仆しておりません。成敗の分れ目はこれからです。一面に、呉君孫権には、先頃からまた、合淝方面を攻めておらるる由。――そんな態勢をもって、ここでまたも、玄徳と戦端を開いたら、これは曹操にとって、もっとも乗ずべき機会となりましょう」
 周瑜にも、その不利は、当然分っていたが、彼のやみ難い感情が、頑として、いうのであった。
「わが大軍が、赤壁に魏を打破るためには、いかに莫大なる兵力と軍費の犠牲を払ったか知れない。然るに、その戦果たる荊州地方を何もせぬ玄徳に横奪りされて黙止しておられるか」
「ごもっともです。それがしが玄徳に対面して、篤と、道理を説いてみましょう」
 魯粛はすぐ南郡城へ使いした。その姿を見るや、城頭のいただきから、守将趙雲が声をかけた。
「呉の粛公。何しに見えられたか」
「備公にお目にかからんがために」
「劉皇叔には、荊州の城においで遊ばされる。荊州へ行き給え」
 ぜひなく、彼はその足で、荊州へ急いだ。
 荊州の城を訪うてみると、旌旗も軍隊も街の声も、今はすべて玄徳色にいろどられている。――ああと、魯粛は嘆ぜさるを得なかった。
「やあ、お久しゅうございました」
 迎えたのは、孔明である。礼儀はきわめて篤い。賓主の座をわかつやすぐ、魯粛は彼を責めた。
「曹軍百万の南征で、第一に擒人となるものは、おそらくあなたのご主君備公であったろうと思う。それをわが呉の国が莫大な銭粮を費やし、兵馬大船を動員して、必死に当ったればこそ、彼を撃破し、お互いに難なきを得ました。その戦果として、荊州は当然、呉に属していいものと考えられるが、ご辺はどう思われるか」
 孔明は、笑って、
「これは異なおことば。荊州荊州の主権のもので、曹操のものでもなし、呉に属さねばならぬ理由もない国です」
「とは、なぜか」
荊州の主、劉表は死なれた。しかし遺孤の劉琦――すなわちその嫡子はなおわが劉皇叔のもとに養われている。皇叔劉琦とは、もとこれ同宗の家系、叔父甥のあいだがら、それを扶けて、この国を復興するに、何の不道理がありましょうや」
 魯粛は、ぎくとした。
 ここまでの深謀が孔明にあったとは、さすがの彼も気づかなかったからである。
「いや。……その劉琦は、たしか江夏の城にいると聞いておる。よも、この荊州の主としてはおられまい」
 孔明は、左右の従者に向って、
「――賓客には、お疑いとみえる。琦君をこれへ」と、小声で命じた。
 やがて後ろの屏風が開くと、弱々しい貴公子が、左右の手を侍臣に取られて、数歩前に歩いて客に立礼した。見ると、まぎれなき劉琦である。
「ご病中なれば、失礼遊ばされよ」
 孔明のことばに、琦君は、すぐ屏をふさいで奥へかくれた。魯粛は、黙然と首をたれてしまう。孔明はなおいった。
「琦君、一日あれば、一日荊州の主です。あのご病弱ゆえ、もし夭折されるようなご不幸があれば、また別ですが」
「では、もし劉琦が世を辞し給う日となったら、この荊州は、呉へ還し給え」
「公論、明論。それなら誰も異論を立てるものはありますまい」
 それから大いに馳走を出して歓待したが、魯粛は心もそぞろに、帰りを急ぎ、すぐ周癒に会って仔細を話した。
「――長いことはありません。劉琦の血色をみるに、近々、危篤におちいりましょう。ここしばらく」
 と、なだめているところへ、折も折、呉主孫権から早馬が来て、総軍みな荊州を捨てて柴桑まで引揚げろ、という軍令であった。

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