平和主義者

 江南江東八十一州は、今や、時代の人、孫策の治めるところとなった。兵は強く、地味は肥沃、文化は溌剌と清新を呈してきて、
 小覇王孫郎
 の位置は、確固たるものになった。
 諸将を分けて、各地の要害を守らせる一方、ひろく賢才をあつめて、善政を布いた。やがてまた、朝廷に表を捧げて、中央の曹操と親交をむすぶなど、外交的にも進出するかたわら、かつて身を寄せていた淮南袁術へ、
「爾来、ごぶさたをいたしていましたが」
 と、久しぶりに消息を送って、さて、その使者をもって、こういわせた。
「かねて、お手許へお預けしておいた伝国の玉璽ですが、あれは大切なる故人孫堅の遺物ですから、この際お返しねがいたいものです。――もちろん、当時拝借した兵馬に価する物は、十倍にもしてお返し申しますが」
      ×     ×     ×
 時に。
 その後の袁術の勢力はどうかというに、彼もまた淮南を中心に、江蘇安徽一帯にわたっていよいよ強大を加え、しかも内心不敵な野望を抱いていたから、軍備城塞にはことに力を注いでいた。
「今日、この議閣に諸君の参集を求めたのはほかでもないが、今となって孫策から、にわかに、伝国の玉璽を返せと云ってきた。――どう答えてやったものだろうか。それについて、各〻に意見あらば云ってもらいたい」
 その日。
 袁術は、三十余名の諸大将へ向って諮った。
 長史楊大将、都督長勲をはじめとして、紀霊、橋甤、雷薄、陳闌――といったような歴々がのこらず顔をそろえていた。
「真面目にご返辞などやるには当りますまい、黙殺しておけばよろしい」
 一人の大将がいう。
 すると、次席の将がまた、
孫策は、忘恩の徒だ。――ご当家で養われたばかりか、偽って、三千の兵と、五百頭の馬を拝借して去ったまま、今日まで何の沙汰もして来ない。――便りをしてきたと思えば、預けた品を返せとはなんたる無礼か」と、罵った。
「ウム、ウム」
 袁術の顔色は良かった。
 諸臣はみな彼の野望をうすうす知っていた。で、一斉に、
「よろしく江東に派兵して、忘恩の徒を懲らすべきである」と、衆口こぞって云った。
 しかし、楊大将は反対して、
江東を討つには、長江の嶮を渡らねばならん。しかも孫策は今、日の出の勢いで、士気はあがっている――如かず、ここは一歩自重してまず北方の憂いをのぞき、味方の富強を増大しておいてから悠々南へ攻め入っても遅くないでしょう」
「そうだ。……北隣の憂いといえば小沛劉備と、徐州呂布だが」
小沛劉備は小勢ですから、踏みやぶるに造作はありませんが、呂布がひかえています。――そこで謀計をもって、二者を裂かねばかかれません」
「いかにして、二者を反かせるか」
「それは易々とできましょう。ただし、先にご当家から呂布へ与えると約束した兵糧五万斛、金銀一万両、馬、緞子などの品々を、きれいにくれてやる必要がありますが」
「よし、やろう」
 袁術は、即座にその説を取り上げた。
「やがて、小沛徐州がおれの饗膳へ上るとすれば、安い代価だ」
 先に、劉備と戦った折、呂布へ与えると約束して与えなかった糧米、金銀、織布、名馬など、莫大なものが、ほどなく徐州へ向けて蜿蜒と輸送されて行った。
 呂布の歓心を求める為に。
 そして、劉備を孤立させ、その劉備を屠ってから、呂布を制する謀計であることはいうまでもない。

 呂布も、そう甘くはない。
「はてな、今となって、あの袁術が、莫大な財貨を贈ってきたのは、どういう肚なのだろう」
 もとより、意欲では歓んだが、同時に疑心も起した。
陳宮、そちはどう思う」
 腹心の陳宮に問うと、
「見えすいたことですよ」と陳宮は笑った。
「あなたを牽制しておいて、一方の劉備を討とうという袁術の考えでしょう」
「そうだろうな。おれもなんだかそんな気がした」
劉備小沛にいることは、あなたにとっては前衛にはなるがなんの害にもなりません。それに反して、もし袁術の手が伸びて、小沛が彼の勢力範囲になったら、北方の泰山諸豪とむすんでくるおそれもあるし、徐州は枕を高くしていることはできなくなる」
「その手には乗らんよ」
「そうです。乗ってはなりません。受ける物は遠慮なく受けて、冷観しておればよろしいのです」
 数日の後。
 果たせるかな情報が入った。
 淮南兵の怒濤が、小沛へ向って活動しだしたというのである。
 袁術の幕将の一人たる紀霊がその指揮にあたり、兵員十万、長駆して小沛の県城へ進軍中と聞えた。
 もちろん、袁術から、先に代償を払っているので、徐州呂布には懸念なく、軍を進めているらしい。
 一方、小沛にある劉玄徳は、到底、その大軍を受けては、勝ち目のないことも分っているし、第一兵器や糧秣さえ不足なので、
「不測の大難が湧きました。至急、ご救援をねがいたい」
 と、呂布へ向って早馬を立てた。
 呂布は、ひそかに動員して、小沛へ加勢をまわしたのみか、自身も両軍の間に出陣した。
 淮南軍は、意外な形勢に呂布の不信を鳴らした。大将の紀霊からは、激越な抗議を呂布の陣へ持込んできた。
 呂布は、双方の板ばさみになったわけだが、決して困ったような顔はしなかった。
 袁術からも、劉備からも、双方ともにおれを恨まぬように裁いてやろう。
 呂布のつぶやくのを聞いて、陳宮は、彼にそんな器用な捌きがつくかしらと疑いながら見ていた。
 呂布は、二通の手紙を書いた。
 そして紀霊劉備を同日に、自分の陣へ招待した。
 小沛の県城からすこし出て、玄徳も手勢五千たらずで対陣していたが、呂布の招待状が届いたので、「行かねばなるまい」と、起ちかけた。
 関羽は、断じて引止めた。
呂布に異心があったらどうしますか」
「自分としては、今日まで彼に対して節義と謙譲を守ってきた。彼をして疑わしめるような行為はなにもしていない。――だから彼が、予を害そうとするわけはない」
 玄徳は、そういって、もう歩を運びかけた。すると張飛が、前に立って、
「あなたは、そういっても、われわれには、呂布を信じきれない。――しばらくお出ましは待って下さい」
張飛ッ。どこへ行く気か」
呂布が城外へ出て、陣地にあるこそもっけの幸いです。ちょっと、兵を拝借して彼奴の中軍をふいに襲い、呂布の首をあげて、ついでに、紀霊の先鋒をも蹴ちらして帰ってきます。二刻とはかかりません」
 玄徳は、呂布の迎えよりも、彼の暴勇のほうをはるかに恐れて、
関羽ッ、孫乾ッ、はやく張飛を止めろ」
 と左右へいった。
 張飛はもう剣を払って馳けだしていたが、人々に抱き止められてようやく連れ戻されて来た。

 関羽張飛を諭した。
「貴様、それほどまで、呂布を疑って万一を案じるなら、なぜ、命がけでも、守護するの覚悟をもって、家兄のお供をして呂布の陣へ臨まないか」
 張飛は、唾するように、
「行くさ! 誰が行かずにいるものか」と、玄徳に従って、自分もあわてて馬に乗った。
 関羽が苦笑すると、
「何を笑う。自分だって、行くなと止めた一人じゃないか」
 と、まるで子どもの喧嘩腰である。
 呂布の陣へ来ると、なおさら張飛の顔はこわばったまま、ニコともしない。さながら魁偉な仮面だ。眼ばかり時々左右へ向ってギョロリとうごく。
 関羽も、油断せず玄徳のうしろに屹然と立っていた。
 やがて、呂布が席についた。
「よう来られた」
 この挨拶はいいが、その次に、「この度はご辺の危難をすくうためこの方もずいぶん苦労した。この恩を忘れないようにして貰いたいな」と、いった。
 張飛関羽の二つの顔がむらむらと燃えている。――が、玄徳は頭を低く下げて、
「ご高恩のほど、なにとて忘れましょう。かたじけのうぞんじます」
 そこへ、呂布の家臣が、
淮南の大将紀霊どのが見えました」
「オ。はや見えたか。これにご案内しろ」
 呂布は、軽く命じて、けろりと澄ましているが、玄徳は驚いた。
 紀霊は、敵の大将だ。しかも交戦中である。あわてて席を立ち、
「お客のようですから、私は失礼しておりましょう」
 と、避けてそこをはずそうとすると、呂布は押止めて、
「いや、今日はわざと、足下と紀霊とを、同席でお呼びしてあるのだ。まあ、相談もあるから、それへかけておいでなさい」
 そのうちに、もう紀霊が、つい外まで案内されて来た様子。
 呂布の臣となにか話しながらやってくるらしく、豪快な笑い声が近づいてくる。
「こちらです」
 案内の武士が、営門の帷をあげて、閣の庭を指すと、紀霊は何気なく入りかけたが、
「……あっ?」と、顔色を変えて、そこへ足を止めてしまった。
 玄徳、関羽張飛
 敵方の三人が、揃いも揃ってそこの席にいたのである。――紀霊にしても驚いたのはむりもない。
 呂布は、振返って、「さ。これへ来給え」と、空いている一席を指さした。
 しかし、紀霊は、疑わずにいられなかった。恐怖のあまり彼は身をひるがえして、外へ戻ってしまった。
「来給えというのに。なにを遠慮召さるか」
 呂布は立って行って、彼の臂をつかまえた。そして、小児の如く吊り下げて、中へ入れようとするので、紀霊は、
「呂公、呂公。何科あって、君はこの紀霊を、殺そうとし給うのか」と、悲鳴をあげた。
 呂布は、くすくす笑って、
「君を殺す理由はない」
「では、玄徳を殺す計で、あれに招いておるのか」
「いや、玄徳を殺す気もない」
「しからば……しからば一体どういうおつもりで?」
「双方のためにだ」
「分らぬ。まるで狐につままれたようだ。そう人を惑わせないで、本心を語って下さい」
「おれの本心は、平和主義だ。おれは元来、平和を愛する人間だからね。――そこで今日は、双方の顔をつき合わせて、和睦の仲裁をしてやろうと考えたわけだ。この呂布が仲裁では、君は役不足というのか」

 平和主義も顔負けしたろう。
 それも、余人がいうならともかく、呂布が自分の口で、(おれは平和主義だ)と、見得を切ったなどは、近ごろの珍事である。
 もとより紀霊も、こんな平和主義者を、信用するはずはない。おかしいよりも、彼は、なおさら疑惑に脅かされた。
「和睦といわれるが、いったい和睦とは、どういうわけで?」
「和睦とは、合戦をやめて、親睦をむすぶことさ。知らんのか君は」
 紀霊は、呆っ気にとられた。
 その顔つきを煙にまいて、呂布は、彼の臂を引っ張ッたまま席へつれてきた。
 変なものができあがった。
 座中の空気は白けてしまう。紀霊と玄徳とは、ここで、客同士だが、戦場では当面の敵と敵である。
「…………」
「…………」
 お互いにしり眼に見合って、毅然と構えながらももじもじしていた。
「こう並ぼう」
 呂布は、自分の右へ、玄徳を招じ、左のほうへ、紀霊の座をすすめた。
 酒宴になった。
 だが、酒のうまかろうはずがない。どっちも、黙々と、杯の端を舐めるようなことをしている。
 そのうちに呂布が、
「さあ、これでいい。――これで双方の親交も成立した。胸襟をひらいて、ひとつ乾杯しよう」
 と、ひとり飲みこんで杯を高くあげた。
 しかし、挙がった手は、彼の手だけだった。
 ここに至っては、紀霊も黙っていられない。席を蹴らんばかりな顔をして、
「冗談は止めたまえ」と、呂布へ正面を切った。
「なにが冗談だ」
「考えてもみられよ。それがしは君命をうけて、十万の兵を引率し、玄徳を生捕らずんば生還を期せずと、この戦場に来ておるのだ」
「分っておる」
「百姓町人の擲り合いかなんぞなら知らぬこと。そう簡単に、兵を引揚げられるものではない。それがしが戦をやめる日には玄徳を生捕るか、玄徳の首を戟につらぬいて、凱歌をあげる日でなければならん」
「…………」
 玄徳は、黙然と聞いていたが、その後ろに立っていた関羽張飛の双眼には、ありありと、烈火がたぎっていた。
 ――と思うまに、張飛は、玄徳のうしろから戛々と、大股に床踏み鳴らして、
「やい紀霊ッ。これへ出ろ。――黙っておれば、人もなげな広言。われわれ劉玄徳と誓う君臣は、兵力こそ少いが、汝ら如き蛆虫や、いなごとは実力がちがう。そのむかし、黄巾の蜂徒百万を、僅か数百人で蹴散らした俺たちを知らないか。――もういちどその舌の根をうごかしてみろ! ただは置かんぞッ」
 あわや剣を抜いて躍りかかろうとするかの血相に、関羽は驚いて、張飛を抱きとめ、
「そう貴様一人で威張るな。いつも貴様が先に威張ってしまうから、俺などの出る所はありはしない」
「ぐずぐず云っているのは、それがし大嫌いだ。やい紀霊、戦場に所は選ばんぞ。それほど、わが家兄の首が欲しくば取ってみろ」
「まあ、待てと申すに。――呂布にもなにか考えがあるらしい。呂布がどう処置をとるか、もうしばらく、家兄のように黙りこくって見ているがいい」
 すると、張飛は、
「いや、その呂布にも、文句がある。下手な真似をすると、呂布だろうが、誰だろうが、容赦はしていねえぞ」
 と、髪は、冠をとばし、髯は逆しまに分かれて、丹の如き口を歯の奥まで見せた。

 そう張飛に挑戦されては、紀霊もしりごみしてはいられない。
「この匹夫めが」
 剣を鳴らして起ちかけた。
 呂布は、双方を睨みつけて、
「やかましい。無用な騒ぎ立てするな」と、大喝して、
「誰か、来い」と、後ろへもどなった。
 そして馳け集まって来た家臣らに向い、
「おれの戟を持って来い。おれの画桿の大戟のほうだ」と、すさまじい語気でいいつけた。
 出来合いの平和主義も、意のままにならないので、立ち所に憤怒の本相をあらわす気とみえる。彼が立腹したら何をやりだすか分らない。紀霊も非常に恐れたし、玄徳も息をのんで、
「どうなることか」と、見まもっている。
 画桿の大戟は彼の手に渡された。それを引っ抱えながら一座を睨めまわして、呂布はこう云いだした。
「今日、おれが双方を呼んで、和睦しろというのは、おれがいうのじゃない。天が命じているのだ。それに対して、私の心をはさみ、四の五の並べ立てるのは天の命に反くものだぞ」
 果然、彼はまだ、厳かな平和主義者の仮面を脱がない。
 なに思ったか、呂布は、そういうや、否、ぱっと、閣から走りだして、彼方、轅門のそばまで一息に飛んでゆくと、そこの大地へ、戟を逆しまに突きさして帰って来た。
 そしてまた云うには、
「見給え、ここから轅門までのあいだ、ちょうど百五十歩の距離がある」
 一同は、彼の指さすところへ眼をやった。なんのために、あんな所へ戟を立てたのか、ただいぶかるばかりだった。
「――そこでだ。あの戟の枝鍔を狙って、ここからおれが一矢射て見せる。首尾よくあたったら、天の命を奉じて、和睦をむすんで帰り給え。あたらなかったら、もっと戦えよという天意かも知れない。おれは手を退いて干渉を止めよう。勝手に、合戦をやりつづけるがいい」
 奇抜なる提案だ。
 紀霊は、あたるはずはないと思ったから、同意した。
 玄徳も、
「おまかせする」と、いうしかなかった。
「では、もう一杯飲んで」と、席に着き直って、呂布はまた、一巡酒をすすめ、自分も彼方の戟を見ながら飲んでいたが、やがてぽっと酔いが顔にきざしてきた頃、
「弓をよこせ!」と、家臣へどなった。
 閣の前へ出て、呂布は正しく片膝を折った。
 弓は小さかった。
 弭――または李満弓ともいう半弓型のものである。けれど梓に薄板金を貼り、漆巻で緊めてあるので、弓勢の強いことは、強弓とよぶ物以上である。
「…………」
 ぶツん!
 弦はぴんと返った。切ってはなたれた矢は笛の如く風に鳴って、一線、鮮やかに微光を描いて行ったが、カチッと、彼方で音がしたと思うと、戟の枝鍔は、星のように飛び散り、矢は砕けて、三つに折れた。
「――あたった!」
 呂布は、弓を投げて、席へもどった。そして紀霊に向い、
「さあ約束だ。すぐ天の命を受け給え。何、主君に対して困ると。――いや袁術へは、こちらから書簡を送って、君の罪にならぬようにいっておくからいい」
 彼を、追いかえすと、呂布は玄徳へ、得意になって云った。
「どうだ君。もし俺が救わなかったら、いかに君の左右に良い両弟が控えていても、まず今度は、滅亡だったろうな」
 売りつける恩とは知りながらも、玄徳は、
「身の終るまで、今日のご恩は忘れません」
 と、拝謝して、ほどなく小沛へ帰って行った。

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