次男曹彰
一
横道から米倉山の一端へ出て、魏の損害をさらに大にしたものは、蜀の劉封と孟達であった。
これらの別働隊は、もちろん孔明のさしずによって、遠く迂回し、敵も味方も不測な地点から、黄忠と趙雲たちを扶けたものである。
それにしても、二人の功は大きい。わけて趙雲のこんどの働きには、平常よく彼を知る玄徳も、
「満身これ胆の人か」
と、今さらのように嘆称した。
その後、敵状を探るに、さしもの曹操も、予想外な損害に、すぐ立ち直ることもできず、遠く南鄭の辺りまで退陣して、
(この敗辱をそそがでやあるべき)と、ひたすら軍の増強を急ぎつつあるという。
ここに巴西宕渠の人で、王平字を子均という者がある。この辺の地理にくわしいところから曹操に挙げられて、牙門将軍として用いられ、いま徐晃の副将として、共に漢水の岸に立って、次の決戦を計っていたが、徐晃が、
「河を渡って陣を取らん」というのに、王平は反対して、
「水を背にするは不利だ」と、互いに、意見を異にしていた。
けれど徐晃は、
「韓信にも背水の陣があったことを知らぬか。孫子もいっている。死地ニ生アリ――と。ご辺は、歩兵をひきいて岸に拒げ。おれは馬武者をひきいて、敵を蹴破るから」
と、ついに浮橋を渡して、漢水を越えてしまった。
一歩対岸を踏んだらば、必ず蜀の勢が鼓を鳴らして来るだろうと予測していたところ、一本の矢すら飛んで来ないので、徐晃は拍子抜けしながらも、敵の柵を破壊し、壕を埋め、さんざんに振舞って、やがて日没に近づくと、蜀の陣地へ対して、ある限りの矢を射た。
玄徳のそばにいて、この日、敵のなすままにさせていた黄忠や趙雲は、
「ははあ、夜に入る前に、徐晃の手勢も退く気とみえます。あのようにむだ矢を射捨てている様子では」と、呟いて、その退路をおびやかすのは今だが、と身をむずむずさせていた。
玄徳も、その機微を察したか、急に令を下して、二人を急き立てた。勇躍した黄忠と趙雲は、やがて薄暮の野に兵をうごかし始めた。
「臆病者めが、ようやく今頃になって、居たたまれずに出てきたな」
徐晃は、蜀兵を見ると、終日の血の飢えを一気に満たさんとする餓虎のように喚きでた。
「まさしく黄忠。老いぼれ、またしても逃げるか」
敵の旗じるしを見て、彼は奮迅した。黄忠の部下は、一時、鼓を鳴らし、喊声をあげ、甚だ旺んに見えたが、もろくも潰えて、蜘蛛の子のように夕闇へ逃げなだれた。
「逃げ上手め、魏の徐晃が、それほど怖ろしいか」
徐晃はわざと敵を辱めながら、どうかして黄忠を捕捉しようと試みたが、そのうちに、いつか背後のほうで、敵のどよめく気配がする。
はっと、驚いて、振り向くと、漢水の浮橋が、炎々と燃えているのだった。不覚不覚、退路を敵に断たれている。徐晃は急に引っ返し、全軍へ向って、
「渡渉退却!」と喚いたが、そのとき河原の草や木は、ことごとく蜀の兵と化し、まっ先に、趙雲子龍。うしろからは黄忠。ひとしく包囲して来て、
「ひとりも生かして帰すな」と、叫びに叫ぶ。
徐晃はようやく危地を切り抜け、ほとんど身一つで、漢水の向うまで逃げてきた。その敗戦の罪を、あたかも副将の罪でもあるかのごとく当りちらして、味方の王平へ罵った。
「なんだって足下は、おれの後詰もせず、浮橋を焼かれるのを見ていたのだ。この報告は、つぶさに魏王へ申しあげるぞ」
王平は黙然と、彼の罵言にこらえていた。けれど彼は、その意見を異にした時から、すでに徐晃の無能を蔑み、魏軍に見限りをつけていたものとみえて、その夜深更自分の陣地に火を放つや、ひそかに脱して漢水を越え、部下と共に、蜀へ投降してしまった。
「招かずして、王平が降ってきたのは、われ漢水を取る前表である」
と、玄徳は彼を容れて、偏将軍に封じ、もっぱら軍路の案内者として重用した。
二
徐晃のしたまずい戦は、すべて王平の罪に嫁された。曹操は、忿懣に忿懣を重ね、再度、漢水を前面に、重厚な陣を布いた。
一水をへだてて、玄徳は孔明と共に、冷静にそのうごきを眺めていた。
孔明がいう。
「この上流に、七丘をめぐらして、一山をなしている山地があります。蓮華の如く、七丘の内は盆地で、よく多数の兵を匿すことができる。銅鑼鼓を持たせ、あれへ兵六、七百を埋伏させておけば、必ず後に奇功を奏しましょう」
「誰をやればよいか」
「万一、敵に見つかると、一兵のこらず、殲滅の憂き目にあうおそれもあれば、やはり趙雲をやるしかありますまい」
次の日、孔明はまた、べつな一峰へ登って、魏の陣勢をながめていた。この日、魏の一部隊は、渡渉してきて、しきりに、矢を放ち、鉦をたたき、罵詈を浴びせたが、蜀は一兵も出さなかった。
魏兵も、より以上、軽々しく進出はしなかった。夜に入るとことごとく陣に収まり、篝火もかすかに、自重していた。
すると突然真夜半の静寂を破って、一発の石砲がとどろいた。銅鑼、鼓、喊呼などを一つにして、わあっッという声が一瞬天地を翔け去った。
「すわっ、夜襲だぞ」
「いや、敵は見えぬ」
「近くもなし、遠くもない?」
上を下への騒動である。曹操は安からぬ思いを抱いて、四方の闇を見まわしていたが、彼にも何の発見もなかった。
「いたずらに騒ぐをやめよ。立ち騒ぐ兵どもを眠らせろ」
曹操も枕についたが、またまた、爆音がする。鬨の声がする、それが一体、どこでするものか、見当がつかなかった。
三日のあいだ、毎晩である。曹操は士卒がみな寝不足になった容子を昼の彼らの顔に見て、
「これはいかん」
急に、三十里ほど退いて、曠野のただ中に、陣を営み直した。
孔明は笑って、
「曹操も怪にとり憑かれた」といった。夜ごとの砲声や銅鑼は、もちろん上流の盆地にひそんだ趙雲軍の仕業であったこというまでもない。
四日目の夜が明けてみると、蜀の軍は、その先鋒から中軍もみな河を渡り、漢水をうしろに取って陣容を展開していた。
「なに、背水の陣をとったと」
曹操は、疑いもし、かつ敵の決意のただならぬものあるを覚って、今は、乾坤一擲、蜀魏の雌雄をここに決せんものと、
「明日、五界山の前にて会わん」と、玄徳へ戦書を送った。
戦書、すなわち決戦状である。玄徳もこころよく承知した。次の日、総軍の威風をあらゆる軍楽と旌旗に誇示しながら、蜀は前進した。
たちまち、真紅金繍の燃ゆるごとき魏の王旗を中心に、龍鳳の旗を立て列ね、一鼓六足、堂々とあなたから迫ってくるもの――いうまでもなく魏の大軍だった。
「玄徳。あるや」
鞭をあげて、曹操が馬上からさしまねいている。蜀の陣から玄徳は、劉封、孟達の二人を左右に従えて、騎をすすめた。
「久しや曹操。君はむなしく、今日を以て、死なんとするのか」
曹操は怒って云い返した。
「だまれ。予は汝の忘恩を責め、逆罪をただしに来たのだ」
「この玄徳は、大漢の宗親。笑うべし、汝何者ぞ。みだりに天子の儀を僭す曲者。きょうこそ大逆を懲らしめん」
戦線数里にわたる大野戦はここに展開された。午の刻過ぎるまで、魏の大捷をもって終始した。蜀の兵は、馬ものの具を捨てわれがちに潰走しだした。
「追うな、退き鉦打て」
曹操は急に、軍を収めた。なぜかと、魏の諸将は疑ったが、曹操は、蜀兵の潰走が、ほんとでないとみたので、大事をとったものだった。
ところが、魏が軍を退くと、果然、蜀は攻勢に転じてきた。どうも事ごとに、曹操は、自分の智慧と戦ってその智に敗れているかたちだった。
三
智者はかえって智に溺れるとかいう。――孔明が曹操に対しての作戦は、すべて、曹操自身の智をもって、曹操の智と闘わせ、その惑いの虚を突くにあった。
かくて、曹操が自負していた智謀も、かえって曹操の黒星を増すばかりとなって、ここ甚だしく生彩を欠いた魏軍は、南鄭から褒州の地も連続的に敵の手へ委して、一挙、陽平関にまで追われてしまった。
蜀の大軍は、すでに南鄭、閬中、褒州の地方にまで浸透して来て、宣撫や治安にまで取りかかり、遺漏のない完勝ぶりを示していた。
時に、陽平関の魏軍へ、またしても、味方の兵粮貯蔵地の危急がきこえた。曹操は、許褚を呼んで、
「この際、彼処の兵粮まで、蜀兵に奪われたら一大事である、汝よく兵粮奉行の手勢と力を協せて、危地にある兵粮全部を、後方の安全な地点へ移してこい」といいつけた。
千余騎は、許褚に引かれて、陽平関を出て行った。目的地につくと、兵粮奉行は歓喜して彼を迎え、
「このご来援がなかったら、おそらくあと二日か三日の間には、ここにある兵粮軍需品、すべて蜀の手へ奪られていたに違いありません」と、いった。
嬉しさのあまりか、奉行はすこし許褚を歓迎しすぎた。許褚は宴に臨んで大酔してしまったのである。だが、気概は反対に凜々たるものがあり、奉行が、褒州の境にある敵について注意すると、
「安心しろ。万夫不当の許褚がついて行くのだ。今夜は月もよいから山道を歩くにいい。早々、馬匹車輛を押し出せ」と、促した。
宵に出て、夜半頃、この蜿蜒たる輜重の行軍は、褒州の難所へかかった。すると谷間から、一軍の蜀兵が、突貫して来た。
「敵は下の渓にいる。岩石を落してみなごろしにしろ」
地の利をとって戦う気でいるといずくんぞ知らん、自分たちの頭の上から先に岩や石ころが落ちてきた。
伏兵は、山の上下にいる。寸断された百足虫のように、輜重車は、なだれくだって、谷間のふところへ出た。ここにも待っていた一隊の敵があった。許褚の影を見かけるや否、その敵将は、迅雷一電、
「許褚っ。さあ来いっ」
大矛をさしのべて、許褚の肩先を突いた。
不覚にも許褚は、戦わないうちに、痛手をうけたのみか、どうと馬からころげ落ちた。
張飛の二の矛が、飛龍のごとくそれへ向って、止めを刺そうとした時、張飛の鞍の腰へも、大きな石が一つあたった。馬ははねる。とたんに許褚の部下たちが、切っ先をそろえて立ちふさがる。
危うい中を、許褚は、手下の部将たちに助けられ、辛くも一命は拾い得たが、ために輜重の大部分は、張飛の手勢に奪われて、ほうほうの態で陽平関へ逃げもどって来た。
時すでに陽平関は炎につつまれていた。敗れては退き、敗れては退き、各前線からなだれ来る味方は、関の内外に充満し、魏王曹操の所在も、味方にすら不明だった。
「すでに、北の門を出、斜谷をさして、退却しておられる」
と味方の一将に聞いて、許褚は事態の急に愕きながら、ひたすら主君を追い慕った。
曹操は、その扈従や旗本に守られて、陽平関を捨ててきたが、斜谷に近づくと、彼方の嶮は、天をおおうばかりな馬煙をあげている。
彼は馬上にそれを見、
「やや、あれも孔明の伏兵か。もしそうであったら、我も生きる道はない」と、色を失った。
ところがそれは、彼の次男曹彰が、五万の味方をひきつれて、これへ駈けつけて来たものだった。曹彰は父とはべつに代州烏丸(山西省・代県)の夷の叛乱を治めに行っていたのであるが、漢水方面の大戦、刻々味方に不利と聞き、あえて父の命もまたず、夜を日についで加勢に向ってきたのだった。
「なに、北国の乱も平げた上、さらに、父の加勢にきたというか。ういやつ、ういやつ。勇気はそれだけでも百倍する。もう玄徳に負けるものか」
よほどうれしかったとみえ、曹操は馬上から手をさしのべてわが子の手を握り、しばらくその手を離さなかった。