絶纓の会
一
その後、日を経て、董卓の病もすっかりよくなった。
彼はまた、その肥大強健な体に驕るかのように、日夜貂蝉と遊楽して、帳裡の痴夢に飽くことを知らなかった。
呂布も、その後は、以前よりはやや無口にはなったが、日々精勤して、相府の出仕は欠かさなかった。
董卓が朝廷へ上がる時は、呂布が赤兎馬にまたがって、必ずその衛軍の先頭に立ち、董卓が殿上にある時は、また必ず呂布が戟を持って、その階下に立っていた。
或る折。
天子に政事を奏するため、董卓が昇殿したので、呂布はいつものように戟を執って、内門に立っていた。
壮者の旺な血ほど、気懶い睡気を覚えるような日である。呂布は、そこここを飛びかう蝶にも、睡魔に襲われ、眼をあげて、夏近い太陽に耀く木々の新翠や真紅の花を見ては、「――貂蝉は何をしているか」と、煩悩にとらわれていた。
ふと、彼は、
「きょうは必ず董卓の退出は遅くなろう。……そうだ、この間に」と考えた。
むらむらと、思慕の炎に駆られだすと、彼は矢も楯もなかった。
にわかに、どこかへ、駆けだして行ったのである。
董卓の留守の間に――と、呂布はひとり相府へ戻って来たのだった。そして勝手を知った後堂へ忍んで行ったと思うと、戟を片手に、
「貂蝉。――貂蝉」と、声をひそめながら、寵姫の室へ入って、帳をのぞいた。
「誰?」
貂蝉は、窓に倚って、独り後園の昼を見入っていたが、振向いて、呂布のすがたを見ると、
「オオ」
と、馳け寄って、彼の胸にすがりついた。
「まだ太師も朝廷からお退がりにならないのに、どうしてあなただけ帰って来たのですか」
「貂蝉。わしは苦しい」
呂布は、呻くように云った。
「この苦しい気もちが、そなたには分らないのだろうか。実は、きょうこそ太師の退出が遅いらしいので、せめて束の間でもと、わし一人そっとここへ走り戻って来たのだ」
「では……そんなにまで、この貂蝉を想っていて下さいましたか。……うれしい」
貂蝉は、彼の火のような眸を見て、はっと、脅えたように、
「ここでは、人目にかかっていけません。後から直ぐに参りますから、園のずっと奥の鳳儀亭で待っていてください」
「きっと来るだろうな」
「なんで嘘をいいましょう」
「よし、では鳳儀亭に行って待っているぞ」
呂布はひらりと庭へ身を移していた。そして、木の間を走るかと思うと、後園の奥まった所にある一閣へ来て、貂蝉を待っていた。
貂蝉は彼が去ると、いそいそと化粧をこらし、ただ一人で忍びやかに、鳳儀亭の方へ忍んで行った。
柳は緑に、花は紅に、人なき秘園は、熟れた春の香いにむれていた。
貂蝉は、柳の糸のあいだから、そっと鳳儀亭のあたりを見まわした。
呂布は、戟を立てて、そこの曲欄にたたずんでいた。
二
曲欄の下は、蓮池だった。
鳳儀亭へ渡る朱の橋に、貂蝉の姿が近づいて来た。花を分け柳を払って現れた月宮の仙女かと怪しまれるほど、その粧いは麗わしかった。
「呂布さま」
「おう……」
ふたりは亭の壁の陰へ倚った。そして長いあいだ無言のままでいた。呂布は、体じゅうの血が燃えるかと思った。うつつの身か、夢の身かを疑っていた。
「……おや、貂蝉、どうしたのだね」
「…………」
「ええ、貂蝉」
呂布は、彼女の肩をゆすぶった。――彼の胸に顔をあてていた貂蝉が、そのうちにさめざめと泣き出したからであった。
「わしとこうして会ったのを、そなたはうれしいと思わないのか。いったい、何をそんなに泣くのか」
「いいえ、貂蝉は、うれしさのあまり、胸がこみあげてしまったのです。――お聞きください。呂布さま。わたくしは王允様の真の子ではありません。さびしい孤児でした。けれど、わたしを真の子のように可愛がって下された王允様は、行く末は必ず、凜々しい英傑の士を選んで嫁けてやるぞ――といつも仰っしゃって下さいました。それかあらぬか、将軍をお招きした夜、それとなく私とあなたとを会わせて賜わりましたから、私は、ひとたび、あなたにお目にかかると、これで平生の願いもかなうかと、その夜から、夢にも見るほど、楽しんでおりました」
「ウむ。……ムム」
「ところが、その後、董太師のために、心に秘めていた想いの花は、ふみにじられてしまいました。太師の権力に、泣く泣く心にそまぬ夜々を明かしました。もうこの身は、以前のきれいな身ではありません。……いかに心は前と変らず持っていても、汚された身をもって、将軍の妻室にかしずくことはできませんから、それを思うと、恐ろしくて、口惜しくて……」
貂蝉は、あたりへ聞えるばかり嗚咽して、彼の胸に、とめどなく悶えて泣いていたが、突然、
「呂布さま。どうか貂蝉の心根だけは、不愍なものと、忘れないでいてください」
と、叫びざま、曲欄へ走り寄って、蓮の池へ身を投げようとした。
呂布は、びっくりして、
「何をする」と、抱き止めた。
その手を、怖ろしい力で、貂蝉は振りのけようと争いながら、
「いえ、いえ、死なせて下さい。生きていても、あなたとこの世のご縁はないし、ただ心は日ごと苦しみ、身は不仁な太師の贄になって、夜々、虐まれるばかりです。せめて、後世の契りを楽しみに、冥世へ行って待っております」
「愚かなことを。来世を願うよりも今生に楽しもう。貂蝉、今にきっと、そなたの心に添うようにするから、死ぬなどと、短気なことは考えぬがいい」
「えっ……ほんとですか。今のおことばは、将軍の真実ですか」
「想う女を、今生において、妻ともなし得ないで、豈、世の英雄と呼ばれる資格があろうか」
「もし、呂布さま。それがほんとなら、どうか貂蝉の今の身を救うて下さいませ。一日も一年ほど長い気がいたします」
「時節を待て。それも長いこととはいわぬ――また、今日は老賊に従って、参殿の供につき、わずかな隙をうかがってここへ来たのだから、もし老賊が退出してくるとたちまち露顕してしまう。そのうちに、またよい首尾をして会おう」
「もう、お帰りですか」
貂蝉は、彼の袖をとらえて、離さなかった。
「将軍は、世に並ぶ者なき英雄と聞いていましたのに、どうしてあんな老人をそんなに、怖れて、董卓の下風に従いているのですか」
「そういうわけではないが」
「私は、太師の跫音を聞いても、ぞっと身がふるえてきます。……ああいつまでも、こうしていたい」
なお、寄りすがって、紅涙雨の如き姿態であった。――ところへ、董卓は朝から帰って来るなり、ただならぬ血相をたたえて彼方から歩いて来た。
三
「はて。貂蝉も見えないし、呂布もどこへ行きおったか?」
董卓の眸は、猜疑に燃えていた。
今し方、彼は朝廷から退出した。呂布の赤兎馬は、いつもの所につないであるのに、呂布のすがたは見えなかった。怪しみながら、車に乗って相府へ帰ってみると、貂蝉の衣は、衣桁に懸っているが、貂蝉のすがたは見当らないのである。
「さては」
と、彼は、侍女を糺して、男女の姿を見つけに、自身、後園の奥へ捜しに来たのであった。
二人は鳳儀亭の曲欄にかがみこんで、泣きぬれていた。貂蝉は、ふと、董卓の姿が彼方に見えたので、
「あっ……来ました」と、あわてて呂布の胸から飛び離れた。
呂布も、驚いて、
「しまった。……どうしよう」
うろたえている間に、董卓はもう走り寄って来て、
「匹夫っ。白日も懼れず、そんな所で、何しているかっ」
と、怒鳴った。
呂布は、物もいわず、鳳儀亭の朱橋を躍って、岸へ走った。――すれ交いに、董卓は、
「おのれ、どこへ行く」と、彼の戟を引ったくった。
呂布が、その肘を打ったので、董卓は、奪った戟を取り落してしまった。彼は、肥満しているので、身をかがめて拾い取るのも、遅鈍であった。――その間に、呂布はもう五十歩も先へ逃げていた。
「不埓者っ」
董卓は、その巨きな体を前へのめらせながら、喚いて云った。
「待てっ。こらっ。待たぬかっ、匹夫め」
すると、彼方から馳けて来た李儒が、過って出会いがしらに、董卓の胸を突きとばした。
董卓は、樽の如く、地へ転げながら、いよいよ怒って、
「李儒っ、そちまでが、予をささえて、不届きな匹夫を援けるかっ。――不義者をなぜ捕えん」
と、呶号した。
李儒は、急いで、彼の身を扶け起しながら、
「不義者とは、誰のことですか。――今、てまえが後園に人声がするので、何事かと出てみると、呂布が、太師狂乱して、罪もなきそれがしを、お手討になさると追いかけて参るゆえ、何とぞ、助け賜われとのこと、驚いて、馳けつけて来たわけですが」
「何を、ばかな。――董卓は狂乱などいたしてはおらん。予の目を偸んで、白昼、貂蝉に戯れているところを、予に見つけられたので、狼狽のあまり、そんなことを叫んで逃げ失せたのだろう」
「道理で、いつになく、顔色も失って、ひどく狼狽の態でしたが」
「すぐ、引っ捕えて来い。呂布の首を刎ねてくれる」
「ま。そうお怒りにならないで、太師にも少し落着いて下さい」
李儒は、彼の沓を拾って、彼の足もとへ揃えた。
そして、閣の書院へ伴い、座下に降って、再拝しながら、
「ただ今は、過ちとはいえ、太師のお体を突き倒し、罪、死に値します」
と、詫び入った。
董卓はなお、怒気の冷めぬ顔を、横に振って、
「そんなことはどうでもよい。速やかに、呂布を召捕って来て、予に、呂布の首を見せい」
といった。
李儒は、あくまで冷静であった。董卓が、怒るのを、あたかも痴児の囈言のように、苦笑のうちに聞き流して、
「恐れながら、それはよろしくありません。呂布の首を刎ねなさるのは、ご自身の頸へご自身で刃を当てるにも等しいことです」と、諫めた。
四
「なぜ悪いかっ。なぜ、不義者の成敗をするのが、よろしくないか」
董卓は、そう云いつのって、どうしても、呂布を斬れと命じたが、李儒は、
「不策です。いけません」
頑として、彼らしい理性を、変えなかった。
「太師のお怒りは、自己のお怒りに過ぎませんが、てまえがお諫め申すのは、社稷のためです。――昔、こういう話があります」
と、李儒は、例をひいて、語りだした。
それは、楚国の荘王のことであるが、或る折、荘王が楚城のうちに、盛宴をひらいて、武功の諸将をねぎらった。
すると――宴半ばにして、にわかに涼風が渡って、満座の燈火がみな消えた。
荘王、
(はや、燭をともせ)と、近習へうながし、座中の諸将は、かえって、
(これも涼しい)と、興ありげにさわいでいた。
――と、その中へ、特に、諸将をもてなすために、酌にはべらせておいた荘王の寵姫へ、誰か、武将のひとりが戯れてその唇を盗んだ。
寵姫は、叫ぼうとしたが、じっとこらえて、その武将の冠の纓をいきなりむしりとって、荘王の側へ逃げて行った。
そして、荘王の膝へ、泣き声をふるわせて、
「この中で今、誰やら、暗闇になったのを幸いに、妾へみだらに戯れたご家来があります。はやく燭をともして、その武将を縛めてください。冠の纓の切れている者が下手人です」
と、自分の貞操をも誇るような誇張を加えて訴えた。
すると荘王は、どう思ったか、
「待て待て」と、今しも燭を点じようとする侍臣を、あわてて止め、
「今、わが寵姫が、つまらぬことを予に訴えたが、こよいはもとより心から諸将の武功をねぎらうつもりで、諸公の愉快は予の愉快とするところである。酒興の中では今のようなことはありがちだ。むしろ諸公がくつろいで、今宵の宴をそれほどまで楽しんでくれたのが予も共にうれしい」
と、いって、さてまた、
「これからは、さらに、無礼講として飲み明かそう。みんな冠の纓を取れ」と、命じた。
そしてすべての人が、冠の纓を取ってから、燭を新たに灯させたので、寵姫の機智もむなしく、誰が、女の唇を盗んだ下手人か知れなかった。
その後、荘王は、秦との大戦に、秦の大軍に囲まれ、すでに重囲のうちに討死と見えた時、ひとりの勇士が、乱軍を衝いて、王の側に馳けより、さながら降天の守護神のごとく、必死の働きをして敵を防ぎ、満身朱になりながらも、荘王の身を負って、ついに一方の血路をひらいて、王の一命を完うした。
王は、彼の傷手のはなはだしいのを見て、
「安んぜよ、もうわが一命は無事なるを得た。だが一体、そちは何者だ。そして如何なるわけでかくまで身に代えて、予を守護してくれたか」と、訊ねた。
すると、傷負の勇士は、
「――されば、それがしは先年、楚城の夜宴で、王の寵姫に冠の纓をもぎ取られた痴者です」
と、にこと笑って答えながら死んだという。
――李儒は、そう話して、
「いうまでもなく、彼は、荘王の大恩に報じたものです。世にはこの佳話を、絶纓の会と伝えています。……太師におかれても、どうか、荘王の大度を味わってください」
董卓は、首を垂れて聞いていたが、やがて、
「いや、思い直した。呂布の命は助けておこう。もう怒らん」
翻然と、諫めを容れて去った。
五
李儒はかねて、呂布が何を不平として、近ごろ董卓に含んでいるか、およそ察していたので、
――困ったものだ。
と、内心、貂蝉に溺れている董卓にも、それに瞋恚を燃やしている呂布にも、胸を傷めていた折であった。
それゆえ、「絶纓の会」の故事をひいて、諄々と、諫めたところ、さすが、董卓も暗愚ではないので、
「忘れおこう、呂布はゆるせ」と、釈然と悟った容子なので、これ、太師の賢明によるところ、覇業万歳の基であると、直ちに、呂布へもその由を告げて、大いに安心していた。
董卓は、李儒を退けると、すぐ後堂へ入って行ったが、見ると、帳にすがって、貂蝉はまだ独りしくしく泣いていた。
「何を泣くか。女にも隙があるから、男が戯れかかるのだ。そなたにも半分の罪があるぞ」
董卓が、いつになく叱ると、貂蝉はいよいよ悲しんで、
「でも、太師は常に、呂布はわが子も同様だと仰っしゃっていらっしゃいましょう。――ですから私も、太師のご養子と思って、敬まっていたんです。それを今日は、恐い血相で、戟を持って私を脅し、むりやりに鳳儀亭に連れて行ってあんなことをなさるんですもの……」
「いや、深く考えてみると、悪いのは、そなたでも呂布でもなかった。この董卓が愚かだった。――貂蝉、わしが媒ちして、そなたを呂布の妻にやろう。あれほど忘れ難なく恋している呂布だ。そなたも彼を愛してやれ」
眼をとじて、董卓がいうと、貂蝉は、身を投げて、その膝にとりすがった。
「なにをおっしゃいます。太師に捨てられて、あんな乱暴な奴僕の妻になれというのですか。嫌なことです。死んだって、そんな辱めは受けません」
いきなり董卓の剣を抜きとって、咽に突き立てようとしたので、董卓は仰天して、彼女の手から剣を奪りあげた。
貂蝉は、慟哭して、床に伏しまろびながら、
「……わ、わかりました。これはきっと、李儒が呂布に頼まれて、太師へそんな進言をしたにちがいありません。あの人と呂布とは、いつも太師のいらっしゃらない時というと、ひそひそ話していますから。……そうです。太師はもう、私よりも、李儒や呂布のほうがお可愛いんでしょう。わたしなどはもう……」
董卓は、やにわに、彼女を膝に抱きあげて、泣き濡れているその頬やその唇へ自分の顔をすり寄せて云った。
「泣くな、泣くな、貂蝉、今のことばは、冗戯じゃよ。なんでそなたを、呂布になど与えるものか。――明日、郿塢の城へ帰ろう。郿塢には、三十年の兵糧と、数百万の兵が蓄えてある。事成れば、そなたを貴妃とし、事成らぬ時は、富貴の家の妻として、生涯を長く楽しもう。……嫌か、ウム、嫌ではあるまい」
次の日――
李儒は改まって、董卓の前に伺候した。ゆうべ、呂布の私邸を訪い、恩命を伝えたところ、呂布も、深く罪を悔いておりました――と報告してから、
「きょうは幸いに、吉日ですから、貂蝉を呂布の家にお送りあってはいかがでしょう。――彼は単純な感激家です。きっと、感涙をながして、太師のためには、死をも誓うにちがいありません」
と、いった。
すると董卓は、色を変じて、
「たわけたことを申せ。――李儒っ、そちは自分の妻を呂布にやるかっ」
李儒は、案に相違して、唖然としてしまった。
董卓は早くも車駕を命じ、珠簾の宝台に貂蝉を抱き乗せ、扈従の兵馬一万に前後を守らせ、郿塢の仙境をさして、揺々と発してしまった。