孔明・三擒三放の事
一
孟獲は山城に帰ると、諸洞の蛮将を呼び集めて、
「きょうも孔明に会って来た。あいつは俺が縛られて行っても、俺を殺すことができないのだ。なぜかといえば、俺は不死身だからな。奴らの刃を咬み折り、奴らの陣所を蹴破って帰るぐらいな芸当は朝飯前のことだ」
と、例によって、怪気焔を吐きちらし、無智な蛮将連を煙に巻いて、
「――だが、もし俺でなかったら、今日なんざ、とても生きては還れるどころではなかった。太え奴は董荼奴と阿会喃のふたりだ。すぐ手分けして、奴らの首を持ってこい」と、命じた。
翌晩。――寨門を出ていった蛮将は、幾手にも分れて、待ち伏せていた。昼間のうちに、孔明の偽使者をつかって、董荼奴と阿会喃へ呼びだしをかけていたのである。
二人は、計に乗せられて、自分たちの洞中から、山越えで瀘水の道へ向ってきた。たちまち、合図の角笛が鳴ると、四方に隠れていた土蛮が、董荼奴を殺し、阿会喃を取りかこみ、二つの首を取ると、死骸は谷間へ蹴落して、わあと、狼群のように本陣へ帰ってきた。
「よくも俺に煮え湯をのませやがったな。ざまを見たか」
孟獲は、首へ向って罵った。そして終夜、鬱憤ばらしの酒宴をつづけていた。
一睡して醒めると、
「腕が鳴ってたまらない。さあこれからだ。蜀軍を蹴ちらし、孔明の肉を啖い血をすすってくれなけりゃあならん。この孟獲にも劣るまいと思うものはみんな俺について来い」
と、突如、銅鈴を振り、鉄笛をふかせ、鼓盤を打ち叩いて、出陣を触れると、寨中の蛮将はみな血ぶるいして、
「それ行け」
と各〻、一隊をひきいて、孟獲のあとから駈けて行った。
孟獲は夾山へ向った。そしてまずここに屯している敵の馬岱を殲滅しようと考えて来たのであったが、何ぞ計らん、すでに蜀兵の影は一箇も見えなかった。
「どこへ動いて行ったか?」と、土地の者に訊ねると、一昨日の夜、急に河を渡って、北岸へ退いてしまったということだった。
「いけねえ。こいつは一足遅かった」
拍子抜けして、孟獲はひとまず本陣へ引っかえしたが、帰って見ると、弟の孟優という者が、兄孟獲の苦戦を聞いてはるか南方の銀坑山から新手二万をひきつれて、留守のうちに加勢に来ていた。
蛮族間でも兄弟の情はあるらしい。いや中国人よりもその密なることは露骨で、よく来た、よく来てくれたと、抱擁したり頬ずりしたりしていた。そして夜半まで酒酌み交わしていたが、その間に、充分な秘策を練り合ったとみえて、翌日、孟優は部下百人に、鳥の毛や南蛮染の衣を飾らせ、瀘水を越えて対岸の敵地へ渡った。
船から上がる時、その一人一人の兵を見ると、足はみな裸足だが獣骨の足環をはめ、半身の赤銅のような皮膚を剥き出しているが、腕くびに魚眼や貝殻の腕環をなし、紅毛碧眼の頭には、白孔雀や極楽鳥の羽根を飾って、怪美なこと、眼を疑わすほどだった。
加うるにその百余人の蛮卒は手に手に金銀珠玉或いは麝香だの織物だの、持ちきれぬほどな財宝を持って、孟優の統率の下に、孔明の陣へ静々歩いてきた。
やがて、その列が、陣門に近づくと、たちまち、見張りの櫓からひょうひょうと鼓角が鳴り、たちまち、鼓に答えて、一彪の軍馬が前をさえぎった。
「待て、どこへ行く」
馬上の人を見れば、これなんきのう孟獲がすでにその姿なしと、地だんだを踏んでいた蜀の馬岱である。
孟優は地に拝伏し、わざと恐れおののいて云った。
「兄に代って、正式に降参の申入れに来ました。私は弟の孟優です」
「ひかえていろ」
馬岱は、陣門の内へその由を伝えた。
ときに孔明は、諸将と何か議していたが、この報らせを聞くと、そばにいた馬謖をかえりみて、
「……わかるか?」
と、微笑して訊ねた。
二
馬謖は「はい」と頷いたが、あたりの人をはばかってまた、
「口では申されません」
と、紙筆を持ち、何か書いて、孔明にそっと見せた。
孔明は、一読、ニコと笑って、膝をうちながら、
「然り。君の思うところ、孔明の意中にもよくあたっている。孟獲を三たび擒人にするの計、それ一策である」
と、次に趙雲をそば近くさしまねいて、何か計をさずけ、また魏延、王平、馬忠、関索などにも、一人一人に行動の方針を授けて、
「いざ、疾く」
と、そこからすぐ諸方へ立たせた。
そうした後、孟優を呼び入れて、何故に、にわかに降伏して来たかと、わざと怪しみいぶかって見せた。
孟優は地にひれ伏して、
「兄孟獲は、南国随一といわれている強情者です。ために、二度まで捕われて、丞相の恩情によって命を保ちながら、なお反抗せんと、私どもへ軍兵を催促して来ましたが、本国の一族や、諸洞の長老は、みな大反対で、兄の頑迷をさとし、長く蜀帝に服し奉れと、懇々、意見しましたところ、遂に、兄もとうてい、丞相の武威と温情に敵し難いことを悟って、自分がゆくのは間が悪いからまず私に代って、降伏をお容れ賜わるように、丞相へおすがりしてくれという言葉でございます」
孟優は蛮界に珍しい能弁の男だった。涙を流さぬばかりに告げて、連れてきた蛮卒百余人の手でそれへ貢ぎものを山と積ませた。
そしてなお、いうには、
「兄孟獲も、いちど銀坑山の宮殿へ帰り、多くの財宝を牛馬に積み、天子へのご献上を仰ぐため、やがて日を経てこれへ降参にまいる予定でございます」
――始終を聞き取ってから孔明ははじめて彼に親しみを見せた。そして心からその恭順を歓迎し、また贈り物を眺めては、あらゆる随喜と満足を表明した。かつ席をあらためて、酒宴をひらき、成都の美酒、四川の佳肴、下へもおかずもてなした。
昼からである。暮れれば楽人楽を奏し蜀兵は舞って興を添えた。南国の夜、ようやく更けるも、風は暖かに星みな大きく、歓喜尽きるのを忘れしめる。
その宵。いやその頃すでに――瀘水の上流をこえ、山谷森林をくぐり、蜀陣の明りを目じるしに、蛮夷の猛兵万余の影が、狡猾なる獣のごとくかさこそと、蜀陣のうしろへ忍び寄っていた。
彼らは手に手に硫黄、焔硝、獣油、枯れ柴など、物騒な物のみ持ち込んでいた。頃はよしと、孟獲は躍り上がって、
「あれが孔明の中営だ。今夜こそ遁すな」
と、合図の手を振った。
猛獣軍の影はまっしぐらに駈け出した。孟獲も飛びこんだ。――が、こはいかに、そこには燈火の光が白日の如く晃々と耀いてはいたが、人はみな酔い伏しているだけで、一人として起って振り向く者もいない。
しかも仆れている人間は、ことごとく孟優の手下である。いやその孟優も、座の中央に打ち仆れて、苦しげに、のた打ちまわりながら、味方の蛮兵を見て、自分の口を指さしていた。
「弟っ。どうしたっ?」
孟獲は、抱き起してみたが、返事もできない孟優であった。計らんとして計られたのである。いうまでもなく、一人のこらず毒酒の毒にまわされていたのだった。
「――しまった――」
とも知らず、味方の蛮兵は、諸方から焔硝や油壺を投げて、ここを必死で火攻めにかけている。孟獲は孟優の体を抱えて、飛び出した。
「待て待て。外から火をかけると、中の味方が焼け死んでしまう。おれは孟獲だ。おれを通せ」
すると火炎の下から、蜀の大将魏延が、
「通れるものなら通れ」
と、鼓を鳴らし、槍ぶすまを向けてきた。あわてて反対なほうへ逃げてゆくと趙雲の軍が待ちかまえていて、
「孟獲。天命尽きたぞ」
と、追ってくる。
弟の体もいつか投げ捨てて、孟獲はただひとり瀘水の上流へ逃げ奔っていた。
三
岸に一艘の蛮船が見えた。二、三十人の蛮卒も乗っている。息をきって逃げてきた孟獲は、
「おういっ、俺をのせて、すぐ河を渡れ」
と、命じるや否、宙を駈けてきた勢いでそれに飛び乗った。同時に、舟中の人数はこぞり起って、
「得たり!」とばかり艫や舳へ立ち別れ、前後から孟獲の上へまたわッと圧し重なった。
「あっ。うろたえるな。俺だ。孟獲だっ」
喚きもがくのを、遮二無二、がんじがらみに縛って、
「浅慮者め、われわれは馬岱軍の一手だ。いざ丞相の陣所へ来い」
と、陸上へ担ぎ上げた。
孔明の本陣は、その夜も、捕虜で充満していた。彼は兇悪なる者を十人斬って、そのほかは皆、酒を飲ませ、或いはこらしめに尻を打ち叩き、或いは、物など恵んで、ことごとく追い放してしまった。
「孟獲はどうしましょう」
幕僚たちが、最後に訊いた。孔明はやおら、彼の前に、床几を取って、
「また来たか。孟獲」
と、揶揄した。
孟獲は、二回の体験で、いくらかこつを心得てきたらしい。憤然と答えて、
「こよいの敗れは、愚かな弟の奴めが、がつがつと酒食をむさぼりおったので、この孟獲の計を味方から壊してしまったためだ。だから戦に負けたとは思わない」と、嘯いた。
「しかし孟獲。剣には負けなくても、策には負けたろう。汝が舟中のざまはどうだ」
「あれは失策った……」と、孟獲もここは正直に肯定して、「――だが、人間だから、暗い所では石にもつまずくよ」と、まだ負けおしみをいった。
孔明はすこし厳を示して、
「すでに今、三度まで、予は汝を生擒った。この上は約束を履んで、汝の首を斬って放たん。孟獲何か云い置くことはないか」
「待て待て」と、前の二回とは大いに容子が変ってきて、彼はひどく生命を惜しんで慌てた。
「もう一度放してくれ」
「仏の面も三度という。わが仁義にも程度がある」
「もう一遍でいい」
「その一遍で何をしたいか」
「快く一戦したい」
「重ねて生擒られたら」
「こんどは打ち首になっても悔いない」
「は、は、は、は」
孔明は大笑した。とたんに、自身剣を抜いて、彼の縛めを切り放した。
「孟獲、次の折には、よく軍書を考えて、二度と悔いを残さぬように、よく陣容を立て直して参れよ。――時に、汝の弟は、どうしたか」
「えっ、弟?」
「骨肉を忘れるとは、如何したものだ。それでも蛮界の王として、土民を服してゆけるのか」
「火中から助け出したが、途中より別れて生死も分らぬ」
「誰か。――孟優をこれへ連れてこい」と、左右にいいつけると、幕将たちは、帳の内へ入って、どやどやと一人の蛮将を取り囲んで連れてきた。
「ば、ばか野郎っ。いくら日頃から酒好きだって、敵の毒酒まで飲む馬鹿があるかっ」
孔明は笑って、二人の仲を押しへだてた。
「味方破れに懲りながら、またすぐここで兄弟喧嘩をするなどは、すでに軍書の教えに反いているではないか。さあ仲よく帰れ。そして兄弟ひとつになって攻めて来い」
ふたりは拝謝して立ち去った。
舟を乞うと、瀘水を渡り、自分たちの山城へ帰ろうと登ってゆくと、山寨の上から蜀の大将馬岱が旗を負い、剣を杖とし、
「孟獲、孟優、何を望む。矢か槍か剣か石砲か」
と、呶鳴りつけた。
仰天して、一方の峰へ逃げてゆくと、そこにも蜀旗林立して、翩翻たる旗風の波をうしろに、蜀の趙雲が姿を現わして云った。
「汝ら。丞相の大恩を忘るるなよ」
また逃げた。しかし行く谷間、行く山々、蜀の旗の見えない所はないので、遂に彼らは遠く蛮地の南へ奔ってしまった。