心縛
一
「――そんな筈はないが?」
と孟獲は疑ったが、夜になると土人が、忙牙長の首を拾って届けてきた。
彼は、日夜離したことのない杯をほうり捨てた。
「やい。誰か行って、この仇を取ってこい。忙牙長に代って、馬岱の首を討ってくる奴はいないか」
「行きましょう、てまえが」
「董荼奴か。よかろう。さきの辱を雪いでこいよ」
励まして、さらに、猛卒二千を加え、五千の勢で、夾山へ向わしめた。
そして、一方、阿会喃には、
「孔明の本軍が、河を渡ってくると大ごとだ。てめえは河流一帯を守っていろ」
と、べつに大軍をあずけた。
蜀軍が疲れるまで、じっと守って不戦主義をとっていた孟獲も、糧道の急所を衝かれては、あわて出さずにいられなかった。
夾山の馬岱は、董荼奴が新手をひっさげて、陣地を奪回に来たと聞くと、自身、蛮軍の前へ出て、
「董荼奴董荼奴。王化を知らぬ蛮族といえ、よも禽獣ではあるまい。耳あらば聞け。汝はさきにわが丞相に捕われて、すでに命のない所を放された者ではないか。蛮土の人種も恩を知るというに、その将たる者が、恩をわきまえぬか。それともなお、戦うとあらば、これへ出よ、汝もさきの忙牙長の如く首にして帰してやらん」
と、大声で諭した。
孔明に放されて以来、もとより戦意を失っていた董荼奴は、それを聞くと、大いに恥じて、旗を巻いて逃げ帰った。
「どうした?」
孟獲は目をむいて彼を糺した。
そして董荼奴が、馬岱は聞きしにまさる英雄で、とうてい、自分たちには、歯がたちませんと云い訳するのを聞くと、孟獲の青面赤髪はみな毛根毛穴から血をふき出しそうな形相になった。
「この裏切者。孔明に恩を売られているので、二心を抱いていやがるな。よろしい。見せしめにかけてやる」
蛮刀を引き抜いて、即座に彼の首を刎ねようとした。まわりにいた諸洞の蛮将たちは、何か口々に騒いで、孟獲を抱きとめ、董荼奴のために、哀を乞うことしきりであった。だが、
「いまいましい奴だが、命だけは免してやる。洞将たち、百杖の罰はゆるされないぞ」
土兵に命じて、大勢の中で、董荼奴を裸にし、その背へ棍をもって百杖の刑打を加えた。五体血まみれになった上、面目を失って、董荼奴は自分の屯へ帰って行ったが、無念でたまらないらしい。遂に、腹心の部下をあつめて、仔細を語り、
「おれたちは生れながら蛮国にいるが、ついぞ理由なく中国の軍が侵略してきたためしはない。それを孟獲のやつが、なまじ智慧の利くところから、魏と申し合わせたり、自力を恃んで強がったりして、蜀の境に好んで乱を起したからこそこんなことになったのだ。――おれの見るところ孔明は実に立派な人だ。しかも自身の智謀や力に誇らず、よく蜀の帝王を敬って、王者の仁を施すに口先だけの人でない」
こういう心中を打ち明けて、
「いっそのこと、孟獲を殺して、孔明に降伏し、蛮土の民を、一様に幸福にしてくれるように頼もうと思うが……お前たちの考えはどうか」
と、一同の真意を糺した。
部下の大半以上は、いちどはみな孔明に息をかけられた者どもなので、
「洞長。それこそわしらも考えていたところだ」
と、みな同音に賛成し、直ちに決行しようとなった。ちょうど孟獲は本陣の帳中に昼寝をしていたところだった。そこへ百余人の董荼奴の部下が入ってきて、不意に枕を蹴とばし、
「起きろ」
と、いうや否、高手小手に縛ってしまったので、さすがの孟獲も、うぬッと、一声吠えたのみで、どうすることもできなかった。
二
「や、や。何だ」
「何事が起ったのか?」
蜂の巣を突いたような騒動である。ほかの蛮将や土人の衛兵なども、事の不意に、ただ呆ッ気にとられていた。
「瀘水へ。瀘水へ」
董荼奴は、その隙に、部下百余人の先頭に立ち、孟獲を引ッ担がせて、蛮軍の中営から首尾よく駈け出していた。
そして瀘水の岸まで来ると、かねて待たせておいた刳貫舟の内へ、まず孟獲をほうりこみ、部下も共々、数艘の舟へ飛び乗って、対岸へ逃げ渡ってしまった。
蜀軍の哨兵が、すぐ孔明の中軍へ、変を知らせてきた。孔明は、待っていたように、
「来たか」と、云った。そして轅門から営内にわたるまで、兵列を整えさせ、槍旗凛々たる所へ、董荼奴以下を呼び入れた。
孔明はまず董荼奴から仔細を聞き取って、大いにその功を賞し、部下一同にも、充分な恩賞をとらせた。
「ひとまず洞中へ帰っておれ」と、引き揚げさせた。
次に、
「孟獲をこれへ」と引き出させ、高手小手に縛められて来た彼のすがたを見るや、一笑して、
「蛮王。また来たか」
と、呼びかけた。
孟獲は憤怒の眼を血走らせて、
「来たとはいえ、汝の手に生擒られて来たのじゃない。偉そうな面をするな」
とやり返す気か、満身で喚き立てた。
孔明は、逆らいもせず、
「そうか、そうか。しかし誰の手にかかろうと、全軍の総帥たるものが、縄目にかけられて、敵の陣中へ送られたりなどしては、はや汝の威厳も墜ち、その命令もよく行われまい。むしろこの時においていさぎよく降伏いたしてはどうだ」
「糞ウくらえ!」唾をしてその首を獅子のごとく左右に振り猛った。
「きょうの不覚は、まったく俺の油断から飼犬に手を咬まれただけで、俺の恥でもなければ、俺の戦法が悪くて負けたわけでもない。従って俺の部下は、なおのこと、この復讐を誓っても、この孟獲を見捨てるようなことは断じてないのだ」
「なるほど、汝はよい手下を持っている。しかし、次々に諸洞の配下が、みな董荼奴や阿会喃のようになって行ったらどうするか」
「俺ひとりでも戦ってみせる」
「ははは。何をいうぞ孟獲。その汝は、すでに擒人となって、わが面前に、指も動かせぬ身となっているではないか」
「…………」
「いま孔明が、首を刎ねろと、一言放てば、汝の首は、たちどころに、胴を離れる。――わが蜀軍は、王道の兵である。心から服する者を、なんでほしいままに虐誅しよう。いわんや汝は蛮界に王を称える者だけあって、中国の文明も多少は知り、文字も読み、また夷蛮に似あわずよく用兵にも通じておる。――殺すは惜しい。孔明は惜しむ。心から汝を惜しんでやまないのだ」
「丞相、もう一度、俺を放してくれないか」
「放したらどうする心か」
「寨にかえって、檄をとばし、諸洞の猛者をあつめて、正しく戦法を練り、ふたたび蜀軍と一合戦する」
「ふうむ。そして」
「きっと、俺が勝つ。だが間違って、こんどもまた、蜀軍に敗れたら、洞族一統をひきつれて、いさぎよく降参する」
孔明は笑った。そして、兵に命じて、すぐ彼の縄を解かせ、
「次には、心ゆくまで、戦ってみせい。だが、重ねてわが前に醜い姿を見せぬようにしたがいいぞ」
と、酒を呑ませ、また、馬を与えて、これを瀘水の岸まで送って放した。
孟獲は、舟の中から、二度ほど振り向いたが、対岸に着くや否や、豹のように、山寨へ駈け登って行った。