火か人か
一
董承に対面を強いて、客堂で出会うとすぐに曹操は彼にただした。
「国舅のお手もとへは、予から出した招待の信箋が届かなかったであろうか」
「いや、ご書箋はいただいたが、折返して不参のおもむきを、書面でお断り申しあげてある」
「昨夜の会に、百官みな宴に揃いながら、国舅ひとりお顔が見えん。いかなるわけでご不参だったか」
「されば、昨年からの痼疾の病のため、心ならずも」
「はははは。卿の痼疾の病は、吉平に毒を盛らせたら癒えるものであろう」
「げッ。……な、なんのお戯れをば」
董承は、震い恐れた。
語尾はかすれて、歯の根もあわない。曹操はその態を白眼に見て、
「近ごろも、太医吉平と、お会いあるか」
「い、いえ、久しく会いませぬが……」
従えてきた武士へ向って、あの者をここへ連れてこいと命じた。言下に、三十余名の獄吏と兵は、客堂の階下へ、物々しく吉平をひきすえた。
蹌踉とよろめいてきた吉平は、幽鬼のごとく、ぺたとそれへ坐ったが、しかも烈しい眼光と呼吸をもって、
「天をあざむく逆子、いつか天罰をうけずに済もうか。これ以上、わしを拷問して何を得るところがある」と、彼のほうから叫んだ。
曹操は、耳にもかけず、
「王子服、呉子蘭、呉碩、种輯の四人はすでに捕えて獄に下したが、そのほかにまだもう一名、不逞の首魁が、この都のうちにおるらしい。……国舅、あなたにもお心当りはないかな?」
「…………」
董承は生ける心地もなく、ただあわてて顔を横に振った。
「吉平。汝は知らんか」
「知らぬ」
「汝に智恵をさずけて、予に毒をのませんと計った首謀者は何者か」
「三歳の童子ですら、みずから為すことはみずから知る。朝廷破壊の逆臣、天に代って、生命をとらんと誓ったのは、かくいう吉平自身である。何でひとの智恵を借ろうか」
「舌長な曲者め。しからば、汝の手の指のひとつ足らぬは如何なるわけか」
「すなわち、この指を咬み切って悪逆曹操をかならず討たんと、天地に誓いをたてたのじゃ」
「ええ、いわしておけば」
と、曹操は、獅子のごとく忿怒して、残る九本の指をみな斬り落せと獄吏に命じた。
吉平は、ひるむ気色もなく、九本の指を斬られてもまだ、
「われ口あり、賊を呑むべし。われ舌あり賊を斬るべし」とさけんだ。
「その舌を引き抜いてしまえ」
曹操の大喝に、獄卒たちが彼を仰向けに押したおすと、吉平は初めて絶叫をあげ、
「待て。待ってくれ。舌を抜かれてはたまらん。乞う。しばしわしの縄を解いてくれい。この上はわしの手で、首謀者を丞相の前へ突きだして見せるから」と、いった。
「望みにまかせて解いてやれ。狂いだそうと、何ほどのこともなし得まい」
曹操のことばに、彼は縄を解かれた。
吉平は大地に坐り直し禁門のほうに向って両手をつかえた。そして流涕滂沱、再拝して後いった。
「――臣、不幸にしてここに終る。実に、極まりもございませんが、天運なんぞ悪逆に敗れん。鬼となっても禁門を守護しておりますれば、時いたる日を御心ひろくお待ちあそばすように」
曹操は雷火のように立ち上がって、
「斬れッ!」
と、どなったが、兵の跳びかかる剣風も遅しとばかり吉平はわれと吾が頭を、階の角にたたきつけて死んでしまった。
二
凄愴の気はあたりをつつむ。
その凄気を圧して、
「次に、慶童をひき出せっ」と、曹操の叱咤はいよいよ烈しい。一片の情、一滴の涙も知らぬような面は、閻王を偲ばしめるものがあった。
呼びだした慶童を突きあわせて、董承の吟味にかかる段となると、彼の姿は、火か人か、猛言辛辣、彼の部下すら、正視していられないほどだった。
董承も初めのうちは、
「知らぬ、存ぜぬ。いっこう覚えもないことじゃ。何とてわしを、さように嫌疑したもうか」と、あくまで彼の厳問を拒否していたが、なにしろ召使いの慶童が、傍からいろいろな事実をあげて、曹操の調べにうごかぬ証拠を提供するので、にわかに、云いぬけることばを失って、がばと床にうっ伏してしまった。
「恐れ入ったかっ」
勝ちほこるが如く曹操が雷声を浴びせると、とたんに董承は身を走らせて、
「ここな人非人めが」と、慶童の襟がみをつかんで引き仆し、手ずから成敗しようとした。
「国舅に縄を与えい!」
曹操の部下は、その峻命にこたえて、一斉におどりかかり、たちまち、董承に縛をかけて、欄階にくくりつけてしまった。
そして客堂をはじめ、書院、主人の居室、家族の後房、祖堂、宝庫、傭人たちの住む邸内の各舎まで、千余の兵でことごとく家探しをさせ、ついに、血詔の御衣玉帯と共に、一味の名を書きつらねた血判の義状をも発見して、ひとまず相府へひきあげた。
もちろん董一家の男女は一名もあまさず捕われ、府内の獄に押しこめられたので、哀号悲泣の声は憐れというもおろかであった。
時に、荀彧は、府門を通って、思わず耳をおおい進んで曹操の座側へのぼると、さっそく彼に向って質した。
「遂に、激発なされましたな。これからの処置をどうなさるおつもりですか」
「荀彧か。いくら予が堪忍づよくても、これに対して平気ではおられん」と、帝の血詔と、義盟の連判とを、荀彧の眼のまえに示し、なお冷めやらぬ朱の眦を吊って云った。
「――見よこれを。献帝の今日あるは、ひとえにこの曹操が功ではないか。平安燼滅のあと、新都の建業、王威の恢復など、どれほど粉骨砕身してきたか知れん。しかるに、いまとなってこの曹操をのぞかんとするは何事であるか、暴に対しては暴をもって酬うが予の性格である、逆子乱臣と呼ばば呼べ、予は決意した。いまの天子をのぞいて、他の徳のある天子を立てようと」
「お待ちなさい」
荀彧はあわてて、彼の激語をさえぎりながら、
「いかにも、許都の中興は、一にあなたの勲にちがいありません。――けれどその勲功も帰するところ、天子を奉戴したからこそできたことでしょう。もしあなたの旗のうえに、朝威がなかったら。あなたの今日もありませんでした」
「うむむ。それには違いないが……」
「それを今、あなた自身が、朝廷の破壊者となったら、その日からあなたの府軍には、もう大義の名はありませんぞ。同時に、天下があなたを視る眼は一変します」
「分った。もういうな」
曹操は、自分の胸の火を、自分で消しまわるに苦しんでいるようだった。
人いちばい明晰な理念と、人いちばい烈しい感情とが、ここ数日、いかに彼を懊悩させたかは、他人の想像も及ばなかった。しかも彼の充血した眼は容易に冷静に返り得ないのである。その結果として、董承の一家一門、そのほか王子服、呉子蘭などの一党とその家族ら、あわせて七百余人は、都のちまたを引き廻されて、一日のうちにみな斬殺されてしまった。
三
董貴妃は深窓にあるうちから美人の誉れがあった。召されて、宮中に入り、帝の寵幸をたまわってから、やがて身は懐妊のよろこびを抱いていた。
彼女は董承の娘であった。
虫のしらせか、その日貴妃は、なんとなく落ち着かない。絶えず胸さわぎのようなものを覚えていた。
秘園の春は浅く、帳裡の瓶花はまだ紅唇もかたい。
「貴妃、すぐれない顔色だが、どこか悪いのではないか」
帝は、伏皇后を伴うて、共に彼女の後宮を見舞われた。
貴妃は、雲鬢重たげに、
「いいえ……」と、かすかに花顔を横に振っていう。
「なんですか、ふた晩つづいて、父の夢を見たものですから」
そう聞くと、帝も皇后も、ふと眉をくもらせた。董承のことはかねがねべつな意味で、案じられているところである。
折ふし、宮中に騒然たる物音がわきはじめた。何事かと疑っているうちに、後宮の碧門を排し、突忽として姿を現した曹操と武士たちが、玉廊を渡ってこれへ馳けてきた。
曹操は、突っ立ったまま、
「ああ。何たる悠長さだ。陛下。董承の謀叛もご存じないのか」と、声を励ましていった。
帝は、冷静に、
「董卓は、もう亡んでいる」と、機智をもって答えられた。
「董卓などのことではありません! 車騎将軍董承のことである」
「えっ……董承がどうしたというのか。朕は何事もわきまえぬが」
「御みずから指をかみやぶり、玉帯に血詔を書いて降し給うたことはもうお忘れか」
愕然、帝は魂を天外へ飛ばし、龍顔は蒼白となって、わななく唇からもう御声も出なかった。
「一人謀叛すれば九族滅すという。知れきった天下の大法である。――それッ武士ども、董承のむすめ貴妃を、門外にひき出して斬ってしまえ」
曹操の下知に、帝も皇后も、のけ反るばかり愕かれて、臣下たる彼へむかって、万斛の涙をながして憐愍を乞うたが、曹操は、頑としてきかない。彼の満面、彼の全身、さながら憤情の炎であった。
貴妃もまた曹操の足もとへ伏し転んで、
「自分のいのちは惜しみませんが、胎内のお子を産みおとすまで、どうかお情けに、生きることをゆるして下さい」と、慟哭して訴えた。
曹操の感情も、極端に紛乱していたが、われとわが半面の弱気を、強いて猛罵するかのように、
「いかん! いかん! かなわぬ願いだっ。逆賊の胤を世にのこしおけば、やがて予に対して祖父の讐の母の仇のと、後日のたたりをなすは必定である。――これまでの運命と思いあきらめ、せめて屍を全うしたがいい」
と、一すじの練帛をとり寄せて、貴妃の眼のまえにつきつけた。斬られるのがいやなら自決せよという酷薄無残な宣告なのである。
貴妃は哭いて、練帛を手にうけた。悲嘆に狂乱された帝は、
「妃よ、妃よ、朕をうらむな。かならず九泉の下にて待て」
と、さけばれた。
「あははは。女童みたいな世まい言を」
曹操は、強いて豪笑しながら、しかもさすがに、そこの悲鳴号泣には、耳をふさぎ眼をそらして、大股に立ち去ってしまった。
哀雲後宮をつつみ、春雷殿楼をゆるがして、その日なお董承と日ごろ親しい宮官何十人が、みな逆党の与類と号されて、あなたこなたで殺刃をこうむった。
曹操は血を抱いて、やがて禁門を出ずると、直ちに、自身直属の兵三千を、御林の軍と称して諸門に立てさせ、曹洪をその大将に任命した。