毒泉

 孟獲は自陣に帰った。だが数日はぼんやり考えこんでばかりいる。弟の孟優が、
「兄貴、とても孔明にはかなわないから、いっそ降参したらどうかね」
 と意見すると、彼は俄然、魂が入ったようにくわっと眼をむいた。
「ばかをぬかせ。貴様までそんなことをいうか。二度とぬかすと承知しねえぞ」
「だって兄貴は、この頃ぼんやり鬱ぎこんでいるよ」
「俺が四度も生擒られたのは、計略に負けたのだ。だから今度は、俺のほうから孔明を計略にかけてやろうと思って、ぐっと智慧をしぼっているところだ」
「南蛮国での智慧者ならばあの朶思王だがなあ」
「そうだ。なぜ俺は朶思王を思い出さなかったろう。弟、朶思王のところへ使いに行ってくれ」
 急に孟優に旨をふくめて、禿龍洞の朶思王へ遣った。
 孟獲からの頼みを聞くと、朶思王は一議に及ばず、洞兵を集合して、蛮王孟獲を自領に迎えた。そして孟獲から度重なる敗戦の状と、孔明の智謀に長じていることを聞くと、朶思王は噴笑して、
「心配ない心配ない。孟王、お心安く思わるるがよい。わが洞界は不落の嶮要、ここに兵をお集めあれば、おそらく孔明といえど、蜀軍の将士たりと、生きて還ることはできない」
 といった。そして、彼が語るには、
「孟王が今これへ来られた一道の通路は平常だから開いてあるが、いざという時になれば、あの途中の絶壁と絶壁の倚り合った隘路は巨木大石をもって塞ぎ、たちまち洞界の入口を遮断してしまうことができるようになっている。また西北の一方は岩聳え、密林しげり、毒蛇や悪蝎の類多く、鳥すら翔けぬ嶮しさで――ただ一日中の未、申、酉の時刻だけしか往来できぬ」
 とのことであった。
「それはどういうわけで?」
 と、孟獲が聞くと、朶思王はなおつぶさに語っていう。
「どういうわけか自分らにも分らないが、未、申、酉の時刻以外は、濛々と瘴烟が起り、地鳴りして岩間岩間から沸え立った硫黄が噴くので、人馬は恐れて近づけない。ために、そこらはすべて草木も枯れ、見る限り荒涼な焼け地獄みたいな所だが、一山越えて密林の谷間へ入るとまた、四ヵ所に毒の泉があって、その一つを唖泉とよび、飲めば一夜のうちに口も爛れ腸も引きちぎられ、五日を出ず死んでしまう」
「ほう。ほかの泉は」
「二の泉を滅泉といい、これはその色あくまで青く、泉流は温かでまるで湯のようだ。またもしこれに浸って沐浴すれば、皮肉はたちまち崩れて死んでしまい、後に底をのぞけば白骨があるだけのものだ」
「三は」
「黒泉という。水きよく美しいが、手足をつければ、手足はみな黒くなって、激痛がなかなかやまない」
「四は」
「四の柔泉は、氷の如く冷やかで、炎暑を越えてきた旅人はみな飛びついて飲むが、これを飲んで助かった人間はむかしから一人もなかった」
「じゃあ通れない。いくら孔明だってそこは越えきれまい」
「ただ後漢の時代に、伏波将軍馬援という者だけは、ここへ来たことがあるそうだが、以来、いかなる英雄の軍でもこの洞界を通りきった者はないのだ」
「いや有難い。この洞界に陣取れば、蜀軍はもう立ち往生のほかはあるまい」
 孟獲は額をたたいて喜ぶこと限りなく、
「いざ、来て見ろ孔明。来られるものならやって来い」
 と、北の天へ向って罵った。
 その頃、孔明はすでに、西洱河地方を宣撫し終って、炎気焦くが如き南国の地を、さらに南へ南へ行軍し続けていた。
「この先、数百里の間、まったく蛮軍なく、一兵の旗も見えません。土人を捕えて糺すと、孟獲孟優はもっと奥の禿龍洞と呼ぶ山岳地方にみな兵を集めてしまったそうです」
 偵察隊の報告に、孔明は絵図を取りだしてみたが、例の指掌図にそんな洞界は書いてなかった。

「――呂凱」と、傍らの呂凱にその地図を示して訊ねた。
「禿龍洞などという地方は、これにも見当らないが、そちの知識でも何も知らないか」
「指掌図にもないような地方では、よほど不便な蛮界でしょう。てまえも何も知りません」
 すると、後ろから地図をのぞいていた幕僚の蒋琬が、思わず嘆息して諫めた。
「もう充分に蜀の武威をお示しになり、また原住民を宣撫して、遍く王風をお布きになったのですから、このへんで帰還せられては如何です。あまり奥地に入りすぎて、遂に三軍空しく蛮地の鬼となろうやも知れません」
 孔明はひょいと、その顔を振り仰いで云った。
「それは孟獲も大いに希望しているだろうな」
 蒋琬は赤面して口をつぐんだ。孔明はまず王平の手勢に先行を命じ、西北の山地へ分け入らせたが、数日経つも戻ってこないので、さらに関索に一千騎を与えて連絡をとらせた。
 関索はやがて引き返してきて前途の大変を告げた。王平の兵はほとんど九分どおり四泉の毒水にあたって病み苦しみ或いは死んでいる。すでに自分の隊の人馬も行路の炎暑に渇して戒めるいとまもなく泉に近づき、たちまち数十名の犠牲を出し、その苦悶と死状は酸鼻見るにたえないものであると告げた。
 孔明は驚いた。彼の該博なる知識をもっても解決はつかない。で、遂に意を決し、三軍に出発を令した。そして身は四輪車に押され、兵馬は相扶けつつ、おうおう、えいえいの喘ぎ物すさまじく、あえて未曾有の難所へかかった。
 一木一草なき岸々たる焼け山や焼け河原を越え、ようやく峰また峰をめぐって、密林地帯に入ると、王平が迎えにきて、直ちに、孔明の車を四泉の畔へ案内した。
 見れば水気凛々として、彼すらすぐ飛びついて口づけたい誘惑を泉はたたえていた。仰げば、四山は屏風のごとく屹立し、一鳥啼かず、一獣駈けず、まことに妖気肌を刺すものがある。
「や……あの岩頭に見ゆる一廟は何であろうか」
 彼はふと一峰の中腹に、人工の色ある廂屋を見たので、徒歩絶壁を攀じ藤葛にすがって登って行った。
 岩盤をくりぬいた窟がある。それを廟として一人の将軍の像が祀られてあった。傍らに建ててある碑銘を読んで見ると、これなん漢の伏波将軍の像であって、遠き昔、将軍南蛮を征してこの地にいたり、土人その徳を慕ってこれを祀る――と刻んである。
 孔明像の前にひれ伏し、祈念久しゅうして、生ける人にいうが如く烈々訴えた。
「不肖、先帝より孤を託すの遺命をうけ、後主の詔を奉じていまここに来り、はからずも祖業の跡を踏み、将軍の偉魂に会す。思うに天の巡り会わせ給うところと信じる。将軍霊あらば、孔明の不才を扶け、漢朝の末流たるわが三軍の困兵に擁護の力を副え給え」
 すると一人のあやしげな老翁が杖にすがって彼方の岩に腰をすえ、丞相これへ来給えと呼んでいる。
「あなたは誰か?」
 孔明が問うと、老翁は、
「土地の者です」とのみ答えて――「これから二、三十里ほど谷の奥へ奥へ分け入ると、さらに五峰のふところに万安渓というやや広い谷間がある。そこに人呼んで万安隠者という隠士がおりまする。この人、谷を出でぬこと数十年、庵の裡に一水を持ち、これを安養泉と称えて、四毒にあたれる旅人や土地の人々を救うてきたこと今日まで何千人か分りません。――今、丞相の軍も定めしお困りでしょう。丞相の徳によって、わしどももいささか王化の何たるかを解し、今日生れたかいがあるように思っております。ま、とにかく万安渓へ行ってご覧なさいまし」
 いうかと思うと飄として名も告げず、立ち去ってしまった。
「神廟のお告げに相違ない」
 孔明は信じた。次の日、彼は扈従の人々と、教えられた五峰奥谷を尋ねてみた。

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