生死一川
一
曹操は、見つけて、
「おのれ、あれなるは、たしかに呂布」と、さえぎる雑兵を蹴ちらして、呂布の立っている高地へ近づこうとしたが、董卓直参の李傕が、横合いの沢から一群を率いてどっと馳けおり、
「曹操を生擒れ」
「曹操を逃がすな」
「曹操こそ、乱賊の主魁ぞ」
と、口々に呼ばわって、伏兵の大軍すべて、彼ひとりを目標に渦まいた。
八方の沢や崖から飛んでくる矢も、彼の前後をつつむ剣も戟も、みな彼一身に集まった。
しかも曹操の身は今や、まったく危地に墜ちていた。うまうまと敵の策中にその生殺を捉われてしまった。
――君は戦国の奸雄だ。
と、予言されて、むしろ本望なりとかつてみずから祝した驕慢児も、今は、絶体絶命とはなった。
奇才縦横、その熱舌と気魄をもって、白面の一空拳よく十八ヵ国の諸侯をうごかし、ついに、董卓をして洛陽を捨てるのやむなきにまで――その鬼謀は実現を見たが――彼の夢はやはり白面青年の夢でしかなく、はかない現実の末路を遂げてしまうのであろうか。
そう見えた。
彼もまた、そう覚悟した。
ところへ、一方の血路を斬りひらいて、彼の臣、夏侯淵は主を求めて馳けつけてきた。
そしてここの態を見るや否や、「主君を討たすな」と、一角から入りみだれて猛兵を突っこみ、李傕を追って、ようやく、曹操を救けだした。
「ぜひもありません。かくなる上は、お命こそ大事です。ひとまず麓の滎陽まで引退がった上となさい」
夏侯淵は、わずか二千の残兵を擁して踏みとどまり、曹操に五百騎ほど守護の兵をつけて、
「早く、早く」と促した。
顧みれば、一万の兵は、打ちひしがれて、三千を出なかった。
曹操は、麓へ走った。
しかし、道々幾たびも、伏兵また伏兵の奇襲に脅やかされた。従う兵もさんざんに打ち減らされ、彼のまわりにはもう十騎余りの兵しか見えなかった。
それも、馬は傷つき、身は深傷を負い、共に歩けぬ者さえ加えてである。
みじめなる落武者の境遇を、曹操は死線のうちに味わっていた。
人心地もなく、迷いあるいて、ただ麓へ麓へと、うつろに道を捜していたが、気がつくと、いつか陽も暮れて、寒鴉の群れ啼く疎林のあたりに、宵月の気はいが仄かにさしかけている。
「ああ、故郷の山に似ている」
ふと、曹操の胸には父母のすがたがうかんできた。大きな月のさしのぼるのを見ながら、
「親不孝ばかりした」
驕慢児の眼にも、真実の涙が光った。脆い一個の人間に返った彼は、急に五体のつかれを思い、喉の渇に責められた。
「清水が湧いている……」
馬を降りて、彼は清水へ顔を寄せた。そして、がぶとひと口飲み干したと思うと、またすぐ近くの森林から執念ぶかい敵の鬨の声が聞えた。
「……やっ?」
ぎょッとして、駒の背へ飛び移るまに、もう残るわずかな郎党も矢に斃れたり、逃げる力もなく、草むらに、こときれてしまっている。
追いかけて来たのは、滎陽城太守の徐栄の新手であった。徐栄は、逃げる一騎を曹操と見て、
「しめたッ」
ひきしぼった鉄弓の一矢を、ぶん! ――と放った。
矢は、曹操の肩に立った。
二
「――しまったッ」
曹操は叫びながら、駒のたてがみへうつ伏した。
またも、徐栄の放った二つの矢が、びゅんと耳のわきをかすめてゆく。
肩に突っ立った矢を抜いている遑もなかったのである。
その矢傷から流れ出る血しおに駒のたてがみも鞍も濡れひたった。駒は血を浴びてなお狂奔をつづけていた。
すると、一叢の木蔭に、ざわざわと人影がうごいた。
「あっ、曹操だっ」と、いう声がした。
それは徐栄の兵だった。徒歩立ちで隠れていたのである。一人がいきなり槍をもって、曹操の馬の太腹を突いた。
馬は高くいなないて、竿立ちに狂い、曹操は大地へはね落された。
徒歩兵四、五人が、わっと寄って、
「生擒れっ」とばかり折り重なった。
仰向けに仆れたまま、剣を抜き払って、曹操は二人を斬っただけで、力尽きてしまった。
落馬した刹那に、馬の蹄で肋骨をしたたかに踏まれていたからだった。
時に。
曹操の弟曹洪は、乱軍の中から落ちて一人この辺りをさまよっていたが、異なる馬の啼き声がしたので、
「や。……今のは兄の愛馬の声ではないか」と、馳けつけてきて、月明りにすかしてみると、今しも兄の曹操はわずかな雑兵輩の自由になって、高手小手に縛められようとしている様子である。
「くそッ」
跳ぶ如く馳け寄って、一人を後ろから斬り伏せ、一人を薙ぎつけた。驚いて、逃げるは追わず、すぐ兄の身を抱き上げて、
「兄上っ、兄上。しっかりして下さい。曹洪です」
「あ、おまえか」
「お気がつきましたか。――さっさっ、私の肩につかまってお起ちなさい。今逃げた兵が、徐栄の軍を呼んでくるに違いありません」
「だ、だめだ……曹洪」
「なんですと?」
「残念ながら、矢傷を負い、馬に踏まれた胸も苦しい。この身は打捨てて行け。おまえだけ、早く落ちて行ってくれ」
「心弱いことを仰っしゃいますな。矢傷ぐらい、大したことはありません。いま、天下の大乱、この曹洪などはなくとも、曹操はなくてはなりません。一日でも、生きてゆくのは、あなたの天から享けている使命です」
曹洪は、こう励まして、兄の着ている鎧甲を解いて身軽にさせ、小脇に抱いて、敵の捨てたらしい駒の背へしがみついた。
果して。
わあっ……と、徐栄の手勢が、後から追って来た。
曹洪は、心も空に、片手に兄を抱え、片手に手綱をとり、眼をふさいで、
「この身はともかく、兄曹操の一命こそ、大事の今。諸仏天加護ありたまえ」
と、祷りながら無我夢中に逃げつづけた。
逆落しに、山上から曠野まで馳せおりて来た心地がした。
「やれ、麓へ出たか」と、思ってふと見ると、満々たる大河が行く手に横たわっているではないか。それと見た曹操は、苦しげに、弟をかえりみて、
「ああ、わが命数も極まったとみえる。曹洪、降ろしてくれ、いさぎよくおれはここで自害する。――敵のやって来ないうちに」と、死を急いだ。
三
曹洪は、兄を抱いて、馬から降りたが、決して抱いている手をゆるめなかった。
「なんです、自害するなんて、平常のあなたのご気性にも似あわぬことを!」と、わざと叱咤して、
「前にはこの大河、うしろからは敵の追撃、今やわたし達の運命は、ここに終ったかの如く見えますが、物窮まれば通ず――という言葉もある。運を天にまかせて、この大河を越えましょう」
河岸に立つと、白浪のしぶきは岸砂を洗い、流れは急で、飛鴻も近づかぬ水の相であった。
身に着けている重い物は、すべて捨てて、曹洪は一剣を口にくわえ、傷負の兄をしっかと肩にかけると、ざんぶとばかり濁流の中へ泳ぎ出した。
江に接していた低い雨雲がひらくと、天の一角が鮮明に彩られてきた。いつか夜は白みかけていたのである。満々たる江水は虹に燃え立って、怪魚のように泳いでゆく二人の影を揉みに揉んでいた。
流れは烈しいし、深傷を負っているので、曹洪の四肢は自由に水を切れなかった。見る見るうちに、下流へ下流へと押流されてゆく。
しかし、ついに彼岸は、眼のまえに近づいた。
「もうひと息――」と、曹洪は、必死に泳いだ。
対岸の緑草は、ついそこに見えながら、それへ寄りつくまでが容易でなかった。激浪がぶつかっては、渦となって波流を渦巻いているからだった。
すると。
その河畔からやや離れた丘に徐栄の一部隊が小陣地を布いていた。河筋を監視するために、二名の歩哨が立って、暁光の美観に見とれていたが――
「やっ? なんだろ」
一人が指さした。
「怪魚か」
「いや、人間だっ」
あわてて部将のところへ報らせに馳けた。
部将もそれへ来て、
「曹操軍の落武者だ。射てしまえ」と、弩弓手へ号令した。
まさかそれが曹操兄弟とは気づかなかったので、緩慢にも弓組の列を布いて、射術を競わせたものだった。
びゅっん――
ぶうっん――
弦は鳴り矢はうなって、彼方の水ぎわへ、雨かとばかり飛沫を立てた。
曹洪は、すでに岸へ這いついていたが、前後に飛んでくる敵の矢に、しばらく、死んだまねをしていた。
その間に、「どう逃げようか」を、考えていた。
ところがかえって、遥か河上から、一手の軍勢が、河に沿って下って来るのが見えた。朝雲の晴れ渡った下にひるがえる旗幟を望めば、それはまぎれもなく滎陽城の太守徐栄の精鋭だった。
「あれに見つかっては」と、曹洪は、気も顛動せんばかりにあわてた。矢ばしりの中も今は恐れていられなかった。剣を舞わして、矢を縦横に薙ぎ払いながら馳け出した。
曹操も、矢を払った。二人か一人か、それは遠目には分らないほど、相擁しながら馳けたのである。
丘の上の隊も、河に沿って来た一群の軍勢も、曹操兄弟が矢風の中を凌いで馳け出した影を見ると、
「さては、名のある敵にちがいないぞ。逃がすな」
と、たちまち砂塵をあげて、東西から追いちぢめ、そのうち一小隊は、早くも先へ馳け抜けて、二人の前をも立ちふさいでしまった。
四
丘から射放つ矢は集まってくる。
止まるも死、進むも死だった。
一難、また一難。死はあくまで曹操をとらえなければ止まないかに見えた。
「この上は、敵の屍を山と積み、曹家の兄弟が最期として、人に笑われぬ死に方をして見せましょう。兄上も、お覚悟ください」
曹洪も、ついに決心した。
そして兄曹操と共に、剣をふりかざして、敵の中へ斬りこんだ。
敵は、さわいで、
「やあ、曹家といったぞ。さては曹操、曹洪の兄弟と見えたり」
「思いがけない大将首、あれを獲らずにあるべきや」
餓狼が餌を争うように二人を蔽いつつんだ。
すると。
彼方の野末から、一陣の黄風をあげて、これへ馳けて来る十騎ほどの武士があった。
ゆうべから主君曹操の行方をさがし歩いていた夏侯惇、夏侯淵の二将の旗下たちだった。
「おうっ、ご主君これにか」
十槍の穂先をそろえて、どっと横から突き崩して来た。
「いざ、疾く」
と曹兄弟に、駒をすすめ、夏侯惇はまっ先に、
「それっ、落ちろっ」と気を揃えて逃げだした。
矢は急霰のように追ったが、徐栄軍はついに追いきれなかった。曹操たちは、一叢の蒼林を見て、ほっと息をついた。見ると五百ばかりの兵馬がそこにいる。
「敵か、味方か?」
物見させてみると、僥倖にも、それは曹操の家臣、曹仁、李典、楽進たちであった。
「おお、君には、ご無事でおいで遊ばしたか」
と、楽進、曹仁らは、主君のすがたを迎えると、天地を拝して歓び合った。
戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな歓びをあげていたのだった。
曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
「アア我誤てり。――かりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう」と、痛感した。
「訓えられた。訓えられた」と彼は心で繰返した。
敗戦に訓えられたことは大きい。得がたい体験であったと思う。
「戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて覚り得るものがある」
負け惜しみでなくそう思った。
一万の兵、余すところ、わずか五百騎、しかし、再起の希望は、決して失われていない。
「ひとまず、河内郡に落ちのびて、後図を計るとしよう」
曹操はいった。
夏侯惇、曹仁たちも、
「それがよいでしょう」
兵馬に令してそこを発った。
一竿の列伍は淋しく河内へ落ちて行った。山河は蕭々と敗将の胸へ悲歌を送った。生れながら気随気ままに育って、長じてもなお、人を人とも思わなかった曹操も、こんどという今度はいたく骨身に徹えたものがあるらしかった。
途すがら、耿々の星を仰ぐたびに、彼はひとり呟いた。
「――君は乱世の奸雄だと、かつて予言者がおれにいった。おれは満足して起った。よろしい、天よ、百難をわれに与えよ、奸雄たらずとも、必ず天下の一雄になってみせる」