秋風五丈原

 魏の兵が大勢して仔馬のごとく草原に寝ころんでいた。
 一年中で一番季節のよい涼秋八月の夜を楽しんでいるのだった。
 そのうちに一人の兵が不意に、あっといった。
「やっ。何だろう?」
 また、ひとりが指さし、そのほかの幾人かも、たしかに、目で見たと騒ぎ合った。
「ふしぎな流れ星だ」
「三つもだ。そして、二つは還った。一つは、蜀の軍営におちたきりだった」
「こんな奇異なことがあるものじゃない。黙っていると罰せられるぞ」
 兵はめいめい営内のどこかへ去って行った。上将へ告げたのだろう。間もなく、司馬懿の耳にも入っていた。
 折ふし司馬懿の手もとには、天文方から今夕観測された奇象を次のように記録して報じて来たところだった。

――長星アリ、赤クシテ茫。東西ヨリ飛ンデ、孔明ノ軍営ニ投ジ、三タビ投ジテ二タビ還ル。ソノ流レ来ルトキハ光芒大ニシテ、還ルトキハ小サク、其ウチ一星ハ終ニ隕チテ還ラズ。――占ニ曰ク、両軍相当ルトキ、大流星アリテ軍上ヲ走リ、軍中ニ隕ツルニ及ベバ、其軍、破敗ノ徴ナリ。

 兵が目撃したという所と、この報告書とは、符節を合したように一致していた。
夏侯覇にすぐ参れといえ」
 司馬懿の眼こそ、俄然、あやしきばかりな光芒をおびていた。
 夏侯覇は、何事かと、すぐ走ってきた。司馬懿は、陣外に出て、空を仰いでいたが、彼を見るや、早口に急命を下した。
「おそらく孔明は危篤に陥ちておるものと思われる。或いは、その死は今夜中かも知れぬ。天文を観るに、将星もすでに位を失っている。――汝、すぐ千余騎をひっさげて五丈原をうかがいみよ。もし蜀勢が奮然と討って出たら、孔明の病はまだ軽いと見なければならぬ。怪我なきうちに引っ返せ」
 はっと答えると、夏侯覇はすぐ手勢を糾合し、星降る野をまっしぐらに進軍して行った。
 この夜は、孔明が祷りに籠ってから六日目であった。あと一夜である。しかも本命の主燈は燈りつづいているので、孔明は、
(わが念願が天に通じたか)
 と、いよいよ精神をこらして、祷りの行に伏していた。
 帳外を守護している姜維もまた同様な気持であった。ただ惧れられるのは孔明が祷りのまま息絶えてしまうのではないかという心配だけである。――で折々彼は帳内の秘壇をそっと覗いていた。
 孔明は、髪をさばき、剣を取り、いわゆる罡を踏み斗を布くという祷りの座に坐ったままうしろ向きになっていた。
「……ああかくまでに」
 と、彼はうかがうたび熱涙を抑えた。孔明の姿は忠義の権化そのものに見えた。
 ――すると、何事ぞ、夜も更けているのに突然陣外におびただしい鬨の声がする。姜維は、ぎょっとして、
「見て来いっ」
 と、すぐ守護の武者を外へ走らせた。ところへ入れ違いに、どやどやと駈け入ってきた者がある。魏延だった。慌てふためいた魏延は、そこにいる姜維も突きのけて、帳中へ駈け込み、
「丞相ッ。丞相ッ。魏軍が襲せてきました。遂に、こっちの望みどおり、しびれをきらして、司馬懿のほうから戦端を開いて来ましたぞ」
 喚きながら、孔明の前へまわって、ひざまずこうとした弾みに、何かにつまずいたとみえ、ぐわらぐわらと壇の上の祭具やら供物やらが崩れ落ちた。
「やや。これはしくじった」
 狼狽した魏延は、その上にまた、足もとに落ちてきた主燈の一つを踏み消してしまった。それまで、化した如く祷りをつづけていた孔明は、あっと、剣を投げ捨て、
「――死生命あり! ああ、われ終に熄むのほかなきか」
 と、高くさけんだ。
 姜維もすぐ躍り込んできて、剣を抜くや否、
「おのれっ、何たることを!」
 と、無念を声にこめて、いきなり魏延へ斬ってかかった。

姜維。止さんかっ」――孔明は声をしぼって、彼を叱った。
 悲痛な気魄が姜維を凝然と佇立させた。
「――主燈の消えたのは、人為ではない。怒るを止めよ。天命である。なんの魏延の科であるものか。静まれ、冷静になれ」
 そういってから孔明は床に仆れ伏した。――がまた、陣外の鼓や鬨の声を聞くと、すぐがばと面を上げ、
「こよいの敵の奇襲は、仲達がはやわが病の危篤を察して、その虚実をさぐらせんため、急に一手を差し向けて来たに過ぎまい。――魏延、魏延。すぐに出て馳け散らせ」
 悄気ていた魏延は、こう命ぜられると、日頃の猛気を持ち返して、あっとばかり躍り直して出て行った。
 魏延が陣前に現われると、さすがに鼓の音も鬨の声もいちどにあらたまった。攻守たちまち逆転して、魏兵は馳け散らされ、大将夏侯覇は馬を打って逃げ出していた。
 孔明の病状はこの時から精神的にもふたたび恢復を望み得なくなっていた。翌日、彼はその重態にもかかわらず姜維を身近く招いていった。
「自分が今日まで学び得たところを書に著したものが、いつか二十四編になっている。わが言も、わが兵法も、またわが姿も、このうちにある。今、あまねく味方の大将を見るに、汝をおいてほかにこれを授けたいと思う者はいない」
 手ずから自著の書巻を積んでことごとく姜維に授け、かつなお、
「後事の多くは汝に託しておくぞよ。この世で汝に会うたのは、倖せの一つであった。蜀の国は、諸道とも天嶮、われ亡しとても、守るに憂いはない。ただ陰平の一道には弱点がある。仔細に備えて国の破れを招かぬように努めよ」
 姜維が涙にのみ暮れていると、
「楊儀を呼べ」
 と、孔明は静かにいいつけた。
 楊儀に対しては、
「魏延は、後にかならず、謀反するであろう。彼の猛勇は、珍重すべきだが、あの性格は困りものだ。始末せねば国の害をなそう。わが亡き後、彼が反くのは必定であるから、その時にはこれを開いてみれば自ら策が得られよう」
 と、一書を秘めた錦の嚢を彼に託した。
 その夕方からまた容態が悪化した。しかし昏絶しては甦ること数度で、幾日となく、同じ死生の彷徨状態が続いた。
 五丈原から漢中へ、漢中から成都へと、昼夜のわかちなく駅次ぎの早馬も飛んでいた。
 蜀は遠い、待つ身の人々には、いや遠いここちがする。
「勅使のお下りに間に合うかどうか」
 人々の願いも今はそれくらいに止まっていた。誰もみな或るものを観念した。
 成都からは即刻、尚書僕射李福が下っていた。帝劉禅のおどろきと優渥な勅を帯して夜を日に継いで急いでいるとは聞えていたが、――なおまだここ五丈原にその到着を見なかった。
 しかし幸いに、費褘がなお滞在している。孔明は、われ亡き後は彼に嘱するもの多きを思った。一日、その費褘を招いて懇ろにたのんだ。
「後主劉禅の君も、はやご成人にはなられたが、遺憾ながら先帝のごときご苦難を知っていられない。故に世をみそなわすこと浅く、民の心を汲むにもうとく在すのはぜひもない。故に、補佐の任たる方々が心を傾けて、君の徳を高うし、社稷を守り固め、以て先帝のご遺徳を常に鑑として政治せられておれば間違いないと思う。才気辣腕の臣をにわかに用いて、軽率に旧きを破り、新奇の政を布くは危うい因を作ろう。予が選び挙げておいた人々をよく用い、一短あり一部欠点はある人物とてみだりに廃てるようなことはせぬがいい。その中で馬岱忠義諸人に超え、国の兵馬を託すに足る者ゆえ、いよいよ重く扱うたがいい。諸政の部門は卿がこれを統轄総攬されよ。またわが兵法の機密はことごとく姜維に授けおいたから、戦陣国防の事は、まだ若しといえども、彼を信じて、その重責に当らすとも、決して憂うることはなかろう」
 以上の事々を、費褘に遺言し終ってから孔明の面にはどこやら肩の重荷がとれたような清々しさがあらわれていた。

 日々、そうした容態のくり返されている或る朝のこと。孔明は何思ったか、
「予を扶けて、車にのせよ」と、左右の者へ云い出した。
 人々はあやしんで何処へお渡り遊ばすかと、訊ねた。すると孔明は、
「陣中を巡見する」といって、すでに起って、自ら清衣にあらためた。
 命旦夕に迫りながら、なおそれまでに、軍務を気にかけておられるのかと、侍医も諸臣も涙に袖を濡らした。
 千軍万馬を往来した愛乗の四輪車は推されて来た。孔明は白い羽扇を持ってそれに乗り、味方の陣々を視て巡った。
 この朝、白露は轍にこぼれ、秋風は面を吹いて、冷気骨に徹るものがあった。
「ああ。旌旗なお生気あり。われなくとも、にわかに潰えることはない」
 孔明は諸陣をながめてさも安心したように見えた。そして帰途、瑠璃の如く澄んだ天を仰いでは、
「――悠久。あくまでも悠久」
 と、呟き、わが身をかえりみてはまた、
「人命何ぞ仮すことの短き。理想何ぞ余りにも多き」
 と独り託って、嘆息久しゅうしていたが、やがて病室に帰るやすぐまた打ち臥して、この日以来、とみに、ものいうことばも柔かになり、そして眉から鼻色には死の相があらわれていた。
 楊儀をよんで、ふたたび懇ろに何か告げ、また王平、廖化張翼、張嶷、呉懿なども一人一人枕頭に招いて、それぞれに後事を託するところがあった。
 姜維にいたっては、日夜、側を離れることなく、起居の世話までしていた。孔明は彼にむかって、
「几をそなえ、香を焚き、予の文房具を取り揃えよ」
 と命じ、やがて沐浴して、几前に坐った。それこそ、蜀の天子に捧ぐる遺表であった。
 認め終ると、一同に向って、
「自分が死んでも、かならず喪を発してはいけない。必然、司馬懿は好機逸すべからずと、総力を挙げてくるであろうから。――こんな場合のために、日頃から二人の工匠に命じて、自分は自分の木像を彫らせておいた。それは等身大の坐像だから車に乗せて、周りを青き紗をもっておおい、めったな者を近づけぬようにして、孔明なお在りと、味方の将士にも思わせておくがいい。――然る後、時を計って、魏勢の先鋒を追い、退路を開いてから後、初めて、わが喪を発すれば、おそらく大過なく全軍帰国することを得よう」
 と、訓え、しばらく呼吸をやすめていたが、やがてなおこう云い足した。
「――予の坐像を乗せた喪車には、座壇の前に一盞の燈明をとぼし、米七粒、水すこしを唇にふくませ、また柩は氈車の内に安置して汝ら、左右を護り、歩々粛々、通るならば、たとえ千里を還るも、軍中常の如く、少しも紊れることはあるまい」
 と云いのこした。
 さらに、退路と退陣の法を授け、語をむすぶにあたって、
「もう何も云いおくことはない。みなよく心を一つにして、国に報じ、職分をつくしてくれよ」
 人々は、流涕しながら、違背なきことを誓った。
 たそがれ頃、一時、息絶えたが、唇に、水をうけると、また醒めたかのごとく、眼をみひらいて、宵闇の病床から見える北斗星のひとつを指さして、
「あれ、あの煌々とみゆる将星が、予の宿星である。いま滅前の一燦をまたたいている。見よ、見よ、やがて落ちるであろう……」
 いうかと思うと、孔明その人の面は、たちまち白蝋の如く化して、閉じた睫毛のみが植え並べたように黒く見えた。
 黒風一陣、北斗は雲に滲んで、燦また滅、天ただ啾々の声のみだった。

 孔明の死する前後を描くにあたって、原書三国志の描写は実に精細を極めている。そしてその偉大なる「死」そのものの現実を、あらゆる意味において詩化している。
 この国にあるところの不死の観念と、やがて日本の詩や歌や「もののあわれ」に彩られた人々の生死観とでは、もちろん大きな相違があるが、とまれ諸葛孔明の死に対しては、当時にあってもその蜀人たると魏人たるを問わず、何らか偉大なる霊異に打たれたことは間違いなく、そして原三国志の著者までが、何としても彼を敢えなく死なすに忍びなかったようなものが、随所その筆ぶりにもうかがわれるのである。
 たとえば、孔明が最後に北斗を仰いで、自己の宿星を指さし、はやその命落ちんと云い終って息をひきとった後にも、なお、その後から成都の勅使李福が着いたことになっていて、勅使と聞くや、孔明はふたたび目をひらいて、次のようなことばを奉答しているというような条も、そうした筆者の愛惜の余りから出ているものと思われるのである。――が、ここではむしろ、その不合理などを問わず原書のままを訳しておくことにする。そのほうが千七百年前から今日まで、孔明の名とともにこの書を愛しこの書を伝え来った民族のこころを理解するにも良いと訳者にも考えられるからである。
 ――勅使と聞いて、ふたたび目をみひらいた孔明は、李福を見てこういったという。
「国家の大事を誤ったものは自分だ。慙愧するのほかお詫びすることばもない……」
 それからまた、こう訊ねたという。
「臣亮の亡き後は、誰を以て丞相の職に任ぜんと……陛下には、それをば第一に、勅使を以て、ご下問になられたことであろう。われ亡き後は、蒋琬こそ、丞相たるの人である」
 李福が、かさねて、
「もし蒋琬がどうしてもお受けしない時は誰が適任でしょう」
「費褘がよい」
 と答え、李福がさらに、次のことを訊ねると、もう返辞がなかった。
 諸人が近づいてみると、息絶えて、まったく薨じていたというのである。
 時は蜀の建興十二年秋八月二十三日。寿五十四歳。
 これのみは、多くの史書も演義の類書もみな一致している。人寿五十とすれば、短命とはいえないかも知れないが、孔明の場合にあっては実に夭折であったようなここちがする。
 彼の死は、蜀軍をして、空しく故山に帰らしめ、また以後の蜀の国策も、一転機するのほかなきに至ったが、個人的にも、ずいぶん彼の死の影響は大きかったらしい。
 蜀の長水校尉をしていた廖立という者は、前から自己の才名を恃んで、
孔明がおれをよく用いないなんていうのは、人を使う眼のないものだ)
 などと同僚にも放言していたくらいな男だが、その覇気と自負が過ぎるので、孔明は一時彼の官職を取り上げ、汶山という僻地へ追って謹慎を命じておいた。
 この廖立は、孔明の死を聞くと自己の前途を見失ったように嘆いて、
 ――吾終ニ袵ヲ左ニセン
 といったということである。
 またさきに梓潼郡に流されていた前軍需相の李厳も、
孔明が生きてあらん程には、いつか自分も召し還されることがあろうと楽しんでいたが、あの人が亡くなられては、自分が余命を保っている意味もない」
 といって、その後ほどなく、病を得て死んだといわれている。
 とにかく、彼の死後は、しばらくの間、天地も寥々の感があった。ことに、蜀軍の上には、天愁い地悲しみ、日の色も光がなかった。
 姜維、楊儀たちは、遺命に従ってふかく喪を秘し、やがて一営一営静かに退軍の支度をしていた。

前の章 五丈原の巻 第31章 次の章
Last updated 1 day ago