国葬
一
呉侯は、呂蒙の死に、万斛の涙をそそいで、爵を贈り、棺槨をそなえ、その大葬を手厚くとり行った後、
「建業から呂覇を呼べ」と、いいつけた。
呂覇は呂蒙の子である。やがて張昭に連れられて荊州へ来た。孫権は可憐な遺子をながめて、
「父の職をそのまま襲ぐがよい」
と、なぐさめた。その折、張昭が訊ねた。
「関羽の葬いはその後いかがなさいましたか」
「斬に処したまま取り捨ててある。首は塩漬けにして保存してあるだろう」
「それは何とかしなければなりますまい」
「葬儀をか?」
「いや後日の備えをです。――彼と玄徳と張飛とは、生きるも死ぬもかならず倶にせんと桃園に誓いを結んできた仲です。その関羽が斬られたことを知れば、蜀は国をあげて、この仇を報いずにいないでしょう。孔明の智、張飛の勇、馬超、黄忠、趙雲などの精猛が命を惜しまず呉へ震いかかってきたら、呉はいかにしてそれを防ぎますか」
「…………」
孫権は色を失った。孫権とてそれを考えていないではないが、張昭が心の底から将来の禍いを恐れているのを見ると、彼も改めて深刻にその必然を思わずにいられなかった。
張昭はさらに云った。
「呉にとって、なお恐るべき問題は、もう一つあります。それは蜀が目的のためには一時の不利をかえりみず魏へ接近を計るに相違ないと思われることです。蜀が一部の地を割いて曹操に与え魏蜀提携して呉へ南下して来たら、呉は立ち所に、四分五裂の敗を喫し、ふたたび長江に覇を載せて遡ることはできないでしょう」
「……張昭。それを未然に防ぐにはどうしたらよいだろう」
「故にです。――死せりといえど関羽の処置はこれを重大に考えなければなりません。関羽の死は、もともと曹操のさしずであり、曹操の所業であると、この禍いの鍵を魏へ転嫁してしまうに限る。張昭はさように考えるのです。――で、関羽の首を使いに持たせて、それを曹操のほうへ送り届けるとしますか、曹操は、もとより先に呉へ書簡を送って、関羽を討てといってきたことですから、嘉賞してそれを受取るでしょう」
「なるほど」
「そして呉は盛んに、天下に向って、関羽を亡ぼしたものは魏であると、彼の功をたたえる如く吹聴する。――さすれば玄徳の怨みは当然、魏の曹操へ向けられて、呉は第三者の立場に立って、その先を処してゆかれます」
こういう国際的な対策に微妙な計を按ずるものは、さすがに張昭をおいてほかにはない。孫権はこの宿老の言を珍重してすぐ使者を選び、関羽の首を持たせて、魏へ派遣した。
そのとき曹操はすでに凱旋して洛陽にかえっていたが、呉の使いが、関羽の首を献じてきたと聞き、
「ついに彼は首級となり、我は生きて、ここに会見する日が来たか」
と、遠い以前の事どもを追想しかたがた、孫権の態度も神妙なりと嘉して、群臣と共に使者を引いて、関羽の首を実検した。
すると、その席で、
「大王大王。ご喜悦の余りに、呉が送ってきた大きな禍いまでを、共に受け取ってはなりませんぞ」
と、諸人の中から呶鳴った者がある。
人々の眼はその顔を求めた。曹操が、何故かと、それへ向って訊ねると、彼は、
「これは呉が禍いを転じて、蜀のうらみを魏へ向けさせんとする恐ろしい謀計です。関羽の首をもって魏蜀の相剋を作り、二国戦い疲れるを待つ呉の奸智たることに間違いはありません」
と、はばかりなく断言した。すなわち司馬懿、字は仲達であった。
二
呉の深謀も、ついに魏を欺けなかった。魏にも活眼の士はある。司馬仲達の言は、まさに完膚なきまで、呉の詐術を暴露したものであった。
曹操もおぞ毛を震って、仲達の言は、真に呉の意中を看破したものだとうなずいた。そして、関羽の首はそのまま呉へ返そうかとまで評議したが、
「いや、それでは、大王のご襟度が小さくなります。ひとまず収めて、何気なく使者をお帰しになった上でまたべつにお考えを施せばよろしいでしょう」
と、それも仲達の意見だった。
やがて呉使が引き揚げると、曹操は喪を発して、百日のあいだ洛陽の音楽を停止させた。そして沈香の木をもって関羽の骸を刻ませ、首とともにこれを洛陽南門外の一丘に葬らせた。その葬祭は王侯の礼をもって執行され、葬儀委員長には司馬懿仲達がみずから当った。大小の百官すべて見送りに立ち、儀杖数百騎、弔華放鳥、贄の羊、祀りの牛など、蜿蜒洛陽の街をつらぬいた。そしてなおこの盛大な国葬の式場へは、特に、魏王曹操から奏請した勅使が立って、地下の関羽へ、
「荊王の位を贈り給う」
と、贈位の沙汰まであった。
呉は、禍いを魏へうつし、魏は禍いを転じて、蜀へ恩を売った。
三国間の戦いは、ただその屍山血河の天地ばかりでなく、今は外交の駈引きや人心の把握にも、虚々実々の智が火華を散らし始めてきた。これを曹操や玄徳が、世に出始めた序戦時代に較べると、もう戦争そのものの遂行も性格も全然違ってきたことが分る。すなわちかつてのように部分的な戦捷や戦果を以ては、われ勝てりと、祝杯に酔ってはいられなくなったのである。いまや蜀も魏も呉もその総力をあげて乾坤を決せねばならぬ時代に入ると共に、この三国対立の形が、一対一で戦うか、変じてその二者が結んで他の一へ当るか、そういう国際的なうごきや外交戦の誘導などに、より重大な国運が賭けられてきたものといってよい。で、大戦展開の舞台裏にはなお戦争以上の戦争がつねに人智のあらゆるものを動員して戦っているものだという表裏の相を、この時代の戦争にもまた観ることができるのである。
時はすこしさかのぼるが――
成都にある玄徳は、これより以前に、劉瑁の未亡人で呉氏という同宗の寡婦を後宮にいれ、新たに王妃としていた。
呉氏は、貞賢で顔色も優れていた。玄徳が荊州にいた時代、呉国の孫権の妹を娶ったこともあるが、この呉妹と別れ去ってからは、久しく寂寞な家庭におかれていた彼も、その後、若い王妃呉氏とのあいだに、ふたりの男子をもうけていた。
兄は劉永、字は公寿。
弟は劉理、字は奉孝という。
その頃――
荊州方面から蜀へ来た者のはなしに、
「この頃、呉の孫権が関羽を抱きこもうとして、関羽のむすめを呉侯の嫡子へ迎えようと、使者をやったところ、関羽は、虎の子を犬の児の嫁にはやれんと、断ったそうですよ」
と、面白おかしく伝えた。
孔明の耳へ、噂が入ったのは、だいぶ後だったので、孔明が、荊州に変が起こることを直覚して、
「たれか代りをやって、関羽と交代させないと、荊州は危うくなりましょう」
と、玄徳へ注意した頃には、すでに荊州から戦況をもたらす早馬が日夜蜀へ入ってきた。けれど、それは皆、勝ち戦の報ばかりだったので、玄徳もむしろ歓んでいると、やがて秋十月の一夜、彼は机に倚ってうとうとと居眠っているところを、王妃の呉氏に呼び起され、今ふと見た夢に、慄然とあたりを見まわした。