王風羽扇

 蛮界幾千里、広さの果ても知れない。孔明の大軍は瀘水もうしろにして、さらに、前進をつづけていたが、幾十日も敵影を見なかった。
 孟獲は、深く懲りたとみえる。蛮国の中心へ遠く退いて、入念に再起を計っていた。
 蛮邦八境九十三甸の各洞長へ向って、彼は檄を飛ばし、使いを馳せ、かつ金銀や栄位を贈って、こう触れ廻した。
孔明の大軍が攻めてきた。全南界を征伐して、この国に蜀都を建て俺たち土着の人間を殺しつくすと称えている。奴らは詐術に富み、文明の武器を持ち、相当手ごわいが幾千里を来て、気候や風土にも馴れないため、大半はへたばッている。恐れるには足らない。諸洞の軍勢が力を協せて叩きつぶせば、蜀帝も懲々して、二度と俺たちの国へ指もさすまい」
 この飛檄は成功した。諸洞の蛮王の中には、芳醇な酒にも飽き、熟れたる果実や獣肉にも飽き、余りに事なき生活に体をもて余している連中もある。これらが蛮国王孟獲の打ち揚げた狼煙によって、久しぶりに大きな刺戟を得、諸邦から軍勢をひきつれて、続々と糾合に応じ、たちまち雲霞のごとき大軍団を成したのであった。
「ようし、これだけ集まれば――」
 と、孟獲はすっかり喜悦して、
「ときに孔明は今、どこに陣しているか」と、偵察させた。
「西洱河に、竹の浮橋を架け、南の岸にも、北の岸にも布陣している按配です。北岸には、河を濠として、城壁まで築いているんで……」という手下の報告だ。
「ははあ。俺が瀘水でやった布陣をそのまま真似していやがるな」
 野性は驕るに早い。そして従前の敗北はすぐ忘れている。それに新しく連邦九十三甸の加勢を得ているので、闘志満々だった。
「どれ。ひと泡吹かせてくれようか」
 軍を進めて、すなわち孔明の築陣していた西洱河の南をうかがった。
 赤毛の南蛮牛の背に、緬甸金襴を布いて花梨鞍をすえ、それにまたがった孟獲は、身に犀の革の甲を着、左に楯をもち、右手には長剣を握っていた。正に威風凛々である。
 たまたま、南岸にある蜀兵の各隊を、四輪車に乗って巡閲していた孔明は、
孟獲が大軍をひきいて近づきつつあります」
 と、部下から聞くと、
「すわ疾風雲だ。濡れないうちに早く逃げろ」
 と、急に道をかえして、本陣へ急ぎ帰った。
 嗅ぎつけた孟獲は、
「しめた。追いつけるぞ」と、間道を通って、突如間ぢかへ、追撃して来た。
 ――が、危うい一歩で、孔明の軍は陣門の内へ奔り込み、あとは厳しく閉めて、敢えて戦わなかった。
「弱いぞ、敵は」
 蛮軍は見くびって来た。前々から蜀軍の大半はすでに疲れていると聞かされているのでなおさらである。日が重なると、赤裸になって陣門の近くに群れ、尻振り踊りをしたり、瞼をむいてあかんべえをしたりして、蜀兵を憤らせた。
 蜀の諸将は、歯がみして、孔明に迫り、
「猿どもが、人を小馬鹿にすること、一通りでありません。いちど陣門を開いて、蹴散らしに出てはいけませんか」
 と、願ったが、孔明は、
「王化に服した後は、あの踊りも、むしろ愛すべきものになろう。まあしばらく虫を抑えていよ」
 と、依然ゆるしてくれない。
 猿の驕慢はいよいよ募ってゆく、もとより軍律のない仲間なのでその狂態はあきれるばかりである。孔明は一日、高所から見物して、
「もうよいな」と、帷幕の人々へ云った。
 腹中の計はできていた。趙雲、魏延、王平、馬忠などへ何事かささやいて秘を授け、また馬岱張翼もこれへ呼んで、
「怠るな、各〻」
 と云い残して去った。すなわち彼は四輪車に乗り、関索をひきつれて、にわかに竹の浮橋を渡って、西洱河の北へ移ってしまったのであった。

 角笛を吹き、大鉦を鳴らし、時には蛮鼓を打ち鳴らしなどして、南蛮勢は以後毎日のように、陣門の外まで寄せてきた。
 が、蜀軍の内はひそとしていた。旗風ばかり翻って、武者声もしなければ、矢一筋射てこない。
 孟獲は戒めた。
孔明は計の多い奴だから、うかと中へ陥るなよ」
 しかし、余りに変化がないし、朝夕の炊煙すら立ち昇らない態なので、遂に一朝、思い切って一門を突破し、どっと中へ駈け込んでみると、数百輛の車に兵糧を積んだまま捨ててあるし、武具や馬具なども取り散らし、寝た跡、べた跡も狼藉に放ったらかしてあるだけで、広い陣中のどこを眺めても、馬一匹人一人見あたらなかった。
「やっ? 引き揚げている、いつの間に退却したのだろう?」
 孟優が怪しんでいうと、孟獲はあざ笑って、
「この様子ではよほど慌てて去ったようだ。これほど堅固な陣屋を捨て、あの孔明が一夜に退いた所を見ると、これは何か本国に急変が起ったに違いあるまい。察するに蜀の本国へ呉が攻め入ったか、魏が攻め込んだか、この二つのうちの一つだろう。――そうだ、追いかけて一騎も余さず討ち取ってしまえ」
 水牛の鞍上から味方へ号令して、にわかに全軍をして、西洱河の南の岸まで追いかけさせた。
 ところがここへ来て北の岸を見ると、あたかも長城の如き城壁ができている。矢倉の数だけでも数十ヵ所、ことごとく旗を並べ、鎗戟を耀かせ、近寄ることもできなかった。
「驚くには当らない。あれも孔明の擬勢だ。ああして置いては北へ北へと退却してゆく計略と思われる。見ておれ弟、二、三日するとまた、あそこも旗だけ残して、蜀の奴はひとりもいなくなるから」
 孟獲孟優にそう語って、手下の勢に、竹を伐って竹筏を作らせておけといいつけた。
 数千の蛮兵は、大竹を伐って、筏を組みだした。その間、朝夕対岸を注意していると、果たして蜀軍の数が目に見えて減ってゆく。四日目頃には、一兵もいなくなった。
「どうだ、俺の活眼は」
 彼は、左右の洞将たちにも誇って、河を渡ろうとしたが、その日は、狂風吹きつのって、を飛ばすばかりだったので、しばし天候を見ようと、人馬を岸からさげていた。
「風は止まないし、あの高波では仕方がないでしょう。先頃、蜀軍が捨てて行ったあの空陣屋へ入って夜明けを待ったほうが悧巧じゃありませんか」
「そうしよう。弟、全軍に退がれと号令しろ」
 孟獲は云い残して、真っ先に後退を開始し、例の陣営へ入って休んだ。
 宵になると、狂風はいよいよ勢いを加え、夜空に砂が舞っていた。馬も兵もみな眼をふさぎ、四方の陣門から入って、さしも広い営内も真っ黒に埋まるほどだった。やがて眠ろうとする頃である。風音ならぬ金鼓の音が四方に響いた。すわと人馬が、中で騒ぎだした時は四面ともに焔の壁、焔の屋根となっていた。
 踏み殺され、焼き殺され、阿鼻叫喚が現出した。
「しまった」
 孟獲は一族の少数の者に囲まれて、危うくも一方の口から猛火をのがれた。しかし外へ出るや否、
「蜀の大将趙雲」と、呼ばわる者に追いかけられた。
 西洱河に残してある諸洞の軍勢の中へ逃げ込もうとすると、その味方もほとんど蹴ちらされて、後には蜀の馬岱軍が入れ代っている。胆をつぶして、中途から引き返そうとすると、すでに退路も蜀兵の影に占められている。
 山へ逃げ、谷へかくれ、一晩中逃げまわった。しかも道のある所かならず蜀軍の金鼓が響き、鎗戟が殺出した。
 わずか十数人の部下と共に、孟獲はへとへとになって、西方の山の腰へ降りてきた。夜が明けている。見ると彼方に一叢の椰子林があった。一隊の兵と数旒の旗が、一輛の四輪車を押し出してくる。孟獲は悪夢の中でうなされたようにあッと叫んで引っ返しかけた。

 四輪車の上の孔明は、綸巾をいただき鶴氅を着て、服装も常と変らず、手に白羽扇をうごかしていたが、孟獲が仰天して逃げかけるや、大いに笑って、
「なぜ逃げる孟獲。汝はいつも捕わるるごとにいうではないか。武勇なれば負けはしないと。いま後ろを見せるほどでは、尋常に戦っても、この孔明に勝てる自信はないと見えるな」
 羽扇をあげて呼びかけた。
 ――と、孟獲は、憤然と、踵をかえし、
「だまれ。俺がいつ後ろを見せたか」と味方を振り向いて、「やい、諸洞の部下ども、あれにいるのが孔明だ、この人間の計におうて、俺は三度まで辱をかさねた。彼奴に出会ったのは幸い、俺と共にみんなも力を尽して、人も車も微塵になせ。彼奴の首一つ取ったら南蛮国中で祭典ができるぞ」
 と、獣王のように猛吼した。
 十数人の部下はみな諸洞の中でも指折りの猛者ばかりだし、弟の孟優も重なる怨みに燃えているので、「おうっ」「わあっ」と、喚き合って、どっと、四輪車へ向ってきた。
 蜀兵はたちまち四輪車を押して逃げ出した。追うも迅し逃げるも迅かったがその距離がつまる間もあらばこそ、孟獲孟優そのほかの一団は、天地も崩れるような土煙と共に、いちどに陥し穽へ落ちてしまった。
 するとその音響を合図として、魏延の手勢数百騎が木の間木の間から駈け現われ、坑の下から一人一人引きだして、手ぎわよく数つなぎにしてしまった。四輪車はもう涼しげに蜀の本陣へ向っていた。孔明は帰ると直ちにまず孟優を引きすえて、
「お前の兄は一体どうかしているのじゃあないか。生擒られてはこれへ来ることすでに今日で四度になる。未開の蛮国といえ、人間ならば恥ということもあるだろう。お前からよく意見するがいい」
 と、物柔らかに諭して、酒をのませた上、先に縄を解いて部下一同とともに放してやった。
 次に孟獲を面前に引かせ、これに向っては、かつてなかった大喝をもって、
「匹夫、何の面目あって、再び孔明の前にのめのめ縄にかかって来たかっ」
 と、叱りつけ、なおも、
「中国では、恩を知らぬものを人非人といい、廉恥のない者を恥知らずとも犬畜生ともいって、鳥獣より蔑しむが、汝はまさに、その鳥獣にも劣るものだ。それでも南蛮の王者か。はてさて珍しい動物である」と、極度に罵った。
 孟獲もこの日に限って何も吼え猛らず、さすがに恥を知るか、瞑目したまま、ただ白い牙をだして唇を咬んでいた。
「もはや免さん。今日は斬るぞ」
 と、孔明が云っても、その眼が開かないのである。孔明はやにわに羽扇をあげて武士たちに下知した。
「陣後へひきだして、この獣王の首を打てっ」
 武士たちは大勢して、孟獲の縄尻を取り、立てと促すと、孟獲は無言のまま突っ立った。そして歩みだすときはじめて炬眼をひらいて、孔明の顔を睨みつけた。
 そしてなかなか泰然自若と刑の莚へ坐ったが、武士を顧みて、もう一度孔明をこれへ呼んでくれといい、武士たちが承知する気色もないと見るや、突然大声で吼えた。
孔明孔明。もしもう一度、俺の縄を解いてくれれば、俺はきっと、五度目に四度の恥を雪いでみせる。死んでもいいが恥知らずといわれては死にきれない。やいっ、やいっ孔明、もう一遍戦えっ」
 孔明は起ってきて、
「死にたくなければなぜ降伏せぬか」といった。
 やにわにかぶりを振った孟獲は、哭かんばかりな眼をしながらも口に火を吐く如く罵った。
「降参はしないっ。死んでも降伏などするか。俺は詐りに負けたのだ。やいっ、詐術師、尋常にもう一度俺と戦え」
「よろしい。それ程にいうならば。――武士たち、縄を解いて帰してやれ」
 孔明はにこと笑って、房中へ姿をかくした。

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