不戦不和
一
どうも煮えきらない玄徳の命令である。争気満々たる張飛には、それがもの足らなかった。
「劉岱が虎牢関でよく戦ったことぐらいは、此方とても存じておる。さればとて、何程のことがあろう。即刻、馳せ向って、この張飛が、彼奴をひッ掴んでこれへ持ちきたってご覧に入れます」
「そちの勇は疑わぬが、そちのさわがしい性情をわしは危ぶむのだ。必ず心して参れよ」
玄徳の訓戒に、張飛は、むっと腹をたてて、
「さわがしさわがしと、まるで耳の中の虻か、懐中の蟹みたいに、この張飛をお叱りあるが、もし劉岱を殺して来たら、何とでもいうがいい。いくら兄貴でも主君でも、そう義弟をばかにするものじゃない」と、云いちらして、彼はぷんぷん怒りながら閣外へ出て行った。
そして、三千の兵を閲して、
「これから劉岱を生捕りに行くんだ。おれは関羽とちがって軍律は厳しいぞ」
と、兵卒にまで当りちらした。
張飛に引率されて行く兵は、敵よりも自分たちの大将に恐れをなした。――一方、寄手の劉岱も、張飛が攻めてきたと知って、ちぢみ上がったが、
「柵、塹壕、陣門をかたく守って、決して味方から打って出るな」と、戒めた。
短兵急に押しよせた張飛も、蓑虫のように出てこない敵には手の下しようもなく、毎日、防寨の下へ行っては、
「木偶の棒っ。――糞ひり虫。――糞ひることも忘れたのだろ」と、士卒をけしかけて、悪口雑言をいわせたが、何といわれても、敵は防禦の中から首も出さなかった。
張飛は、持ち前の短気から、業をにやしてきたとみえ、
「もうよそよそ。このうえは夜討ちだ。こよい二更の頃に、夜討ちをかけて、蛆虫どもを踏みつぶしてくれる。用意用意」と、声あららかに命じ、準備がととのうと、
「元気をつけておけ」と、昼のうちから士卒に酒を振舞い、彼自身も、したたか呑んだ。
「景気のいい大将」と、兵隊たちも、酒を呑んでいるうちは、張飛を礼讃していたが、そのうちに、何か気に喰わないことがあったのか、張飛は、咎もないひとりの士卒を、さんざんに打擲したあげく、
「晩の門出に、軍旗の血祭りにそなえてくれる。あれに見える大木の上にくくり上げておけ」
と、云いつけた。
士卒は、泣き叫んで、掌を合わせたがゆるさない。高手小手にいましめられて、大木のうえに、生き礫刑とされてしまった。
夕方になると、たくさんな鴉がその木に群れてきた。張飛に打ちたたかれて、肉もやぶれ皮も紫いろになっている士卒は、もう死骸に見えるのか、鴉はその顔にとまって、羽ばたきしたり、嘴で眼を突ッついたり、五体も見えないほど真黒にたかってさわいだ。
「ひィっ……畜生っ」
悲鳴をあげると、鴉はぱっと逃げた。ぐったり、首を垂れていると、また集まってくる。
「――助けてくれっ」
士卒はさけび続けていた。
すると、夕闇を這って、仲間のひとりが、木に登ってきた。何か、彼の耳もとにささやいてから、縄目を切ってくれた。
「畜生、この恨みをはらさずにおくものか」
半死半生の目に会った士卒も、その友を助けた士卒も、抱き合って、恨めしげに張飛の陣地を振向き、闇にまぎれて何処ともなく脱走してしまった。
二
陣営のうちで、張飛はまだ酒をのみつづけていた。
そこへ士卒の一伍長が、あわただしく馳けこんできて、
「見張りの者の怠りから大失態を演じました。申しわけもございません」
と、懲罰に処した樹上の士卒が、いつの間にか逃走した由を、平蜘蛛のようになって慄えながら告げた。
「知っとる知っとる。将として、それくらいなこと、知らんでどうする。……あはははは、それでいいのだ」
彼は、大杯をあげて、自ら祝すように飲み干し、幕営を出て、星を仰いだ。
「そろそろ二更の頃だな。――わが三千の兵は三分して各自の行動に移れ。――その一は、間道をしのび、その一は、山を越え、その一は、止まって敵の前面へ向う」
張飛の命令が伝わると、やがて夜靄のなかに、まず二千の兵が先に、どこかへうごいて行った。
それは、敵の防寨の背後へまわって忍ぶ潜兵らしかった。
「まだちと早い。もう一杯飲んでからでいい」
張飛は、残る三分の一の兵をそこに止めて、なお一刻ほど、酒壺を離さず、時おり、星の移行を測っていた。
その宵。
劉岱の防寨のほうでは、早くも、今夜敵の張飛が夜討ちをかけてくるということを知って、ひどく緊張していた。
「あわてるな。敵の脱走兵の訴えとて、めったに信じるとは危険だ。おれ自身、その兵を取調べてみよう。ここへ其奴を引ッ張ってこい」
劉岱は、部下の動揺を戒めて、その夕方、密告に馳けこんできたという二人の敵の脱走兵を、自分の前に呼びだした。
見ると、ひとりはただの士卒だが、もう一名のほうは、手足も傷だらけで、顔は甕のごとくはれあがっている。
「こら、敵の脱走兵。貴様たちは、張飛から策をうけて、今夜、夜討ちをしかけるなどとあらぬことを密告に来、わが陣地を攪乱せんとたくらんできたにちがいあるまい。そんな甘手にのる劉岱ではないぞ」
「めっそうもないことを。……手前どもは鬼となっても、張飛のやつを、全滅の憂き目に会わせてくれねばと……死を賭して、ご陣地へ逃げこんで来た者でございます」
「いったい、なんで張飛に対し、そのように根ぶかい恨みを抱くのか」
「くわしいことは、先にご家来方まで、申しあげた通りで、そのほかに、仔細はございません」
「なんの咎もないのに打擲されたあげく、大樹の梢にしばりあげられたというが」
「へい。あまりといえば、むごい仕方ですから、その返報にと思いまして」
「……これ。誰かあの脱走兵の訴人を裸体にしてみい」
劉岱は傍らの者に命じた。
言下に、訴人の兵は、真っ裸にされた。――見れば、顔や手足ばかりでなく、背にも臂にも、縄目のあとが痣になっていた。そして全身、鼈甲の斑みたいにはれている。
「……なるほど、詐りでもないらしいが」と、疑いぶかい劉岱も、半分以上、信じてきたが、まだ決しかねて、敵の夜討ちに備える手配も怠っていた。
すると、果たして。
二更もすこし過ぎた頃、防寨の丸木櫓にのぼっている不寝番が、
「夜襲らしいぞ」と、警板をたたいた。
夜霜のうちから潮のような鬨の声が聞えた。と思うと、陣門の前面に、敵が柴をつんで焼き立てる火光がぼっと空に映じた。矢うなりはもう劉岱の身辺にも落ちてきた。
「しまった! ……敵兵の密訴は嘘でもなかったのだ。それっ、一致して防戦にあたれ」
あわてふためいた劉岱は、自分も得物を取って、直ちに防ぎに走りだした。
三
諸所へ火を放ち、矢束を射込み、鼓を鳴らし、鬨の声をあげなどして、張飛の夜襲はまことに張飛らしく、派手に押しよせてきた。
劉岱は、それを見て、
「彼奴、勇なりといえども、もとより智謀はない男、何ほどのことやあらん」
とひと跳びの意気で、防戦にあたった。
劉岱の指揮の下に、全塁の将卒がこぞって駈け向ったので、たちまち、夜襲の敵は撃退され、いかに張飛が、
「退くなっ」と、声をからしても、総くずれのやむなきに立到り、張飛も柴煙濛々たるなかを、逃げる味方と火に捲かれて、逃げまどっていた。
「こよいこそ、張飛の首はわが手のもの。寄手の奴ばらは一人も生かして返すな」
劉岱は、最後の号令を発し、ついに、防寨の城戸をひらいて、どっと追いかけた。
張飛はそれと見て、
「しめた。思うつぼに来たぞ」
にわかに、馬を向け直し、まず劉岱を手捕りにせんと喚きかかった。
それまで、逃げ足立っていた敵が、案に相違して、張飛と共に、俄然攻勢に転じてきたので、要心深い劉岱は、
「これは怪訝しい」
とあわてて、味方の陣門へ引っ返そうとしたところ、時すでに遅かった。
その夜、正面に来た寄手は、張飛の兵の三分の一にすぎず、三分の二の主隊は、防寨のうしろや側面の山にまわっていたものなので、それが機をみるや一斉になだれこんで来たため、すでに彼の防塁は、彼のものでなくなっていた。
「計られたか」
と、うろたえている劉岱を見つけて、張飛は馬を駈け寄せてゆくなり引っ掴んで大地へほうりだし、
「さあ、持って帰れ」と、士卒にいいつけた。
すると、防寨の中から、
「その縄尻は、私たちに持たせて下さい」
と走り出てきた二名の兵卒がある。それは張飛の命に依ってわざと張飛の陣を脱走し、劉岱へこよいの夜襲を密告して、彼らの善処をいとまなくさせた殊勲の二人だった。
「ゆるす。引っ立てろ」
張飛は、その二人に縄尻を持たせて、意気揚々ひきあげた。
残余の敵兵も、あらかた降参したので、防寨は焼き払い、劉岱以下、多くの捕虜を徐州へ引きつれて帰った。
この戦況を聞いて、玄徳のよろこびかたは限りもない程だった。わが事のように、彼の巧者な手際を褒めて、
「張飛という男は、生来、ものさわがしいばかりであったが、こんどは智謀を用いて、戦の功果をあげた。これでこそ、彼も一方の将たる器量をそなえてきたものといえよう」
そういって彼自身、城外に出迎えた。張飛は大音をあげて、
「家兄、家兄。いつもあなたは、この張飛を、耳の中の虻か、懐中の蟹のごとく、ものさわがしき男よと口癖におっしゃるが、今日は如何?」
と、得意満面でいう。
玄徳が打ち笑って、
「きょうの御身は、まことに稀代の大将に見える」というと、そばから関羽が、
「しかしそれも先に、家兄がふかく貴様をたしなめなかったら、こんなきれいな勝ちぶりはしまい。この劉岱の首などは、とうに引きちぎッてたずさえて来たであろう」と、まぜかえした。
「いや、そうかも知れんて」
張飛が、爆笑すると、玄徳も笑った。関羽も哄笑した。
三人三笑のもとに、縄目のまま、引きすえられていた劉岱は、ひとりおかしくもない顔をしていた。
四
その劉岱のすがたへ、ふと眼をとめると、玄徳は何思ったか、劉岱の縛めを解いて、
「さあ、こちらへ」と、一閣の内へ、自身で案内して行った。
そこには、さきに捕虜とされた王忠が贅沢な衣服や酒食を与えられて、軟禁されていた。
玄徳は、敵の虜将たる二人を、美酒佳肴の前にならべて置いてこういった。
「敵の玄徳に、酒食を饗せられるは心外なりと思し召すやも知れませんが、どうかそんなご隔意はすてて充分おすごし下されたい」
杯をすすめ、礼言を重んじ、すこしも対手を敗軍の虜将と蔑むふうもなく、
「――まことに、この度のまちがいは、不肖玄徳にとっても、あなた方にとっても、不幸なる戦いでした。もともと、自分は丞相から大恩をうけていますし、まして丞相の命は、朝廷の御命です。何でそれに叛きましょうか。常に、折あらば報ぜんと思い、事ありては、かく誤解されている身の不徳を嘆いているのです。どうか、都へお立帰りの上は、この玄徳の衷情を、丞相へくれぐれも篤くお伝えしていただきたい」
劉岱と王忠は、彼の慇懃と、その真実をあらわしていう言葉に、ただ意外な面持であった。
で、二人も、誠意をもって答えずにいられなかった。
「いや、劉予州。御身の真実はよく分った。けれど、われわれは足下の擒人である。どうして都の丞相へ、そのことばをお取次ぎできようか」
「一時たりとも、縄目の恥をお与えして、申しわけないが、元より玄徳には、ご両所の生命を断たんなどという不逞な考えはありません。いつでも城外へお立ち出で下さい。それも玄徳が丞相の軍に対して、恭順を示し奉る実証のひとつとお分り下されば、有難いしあわせです」
果たして、翌日になると、玄徳はふたりを城外へ送りだしたのみか、捕虜の部下もすべて劉岱、王忠の手に返した。
「まったく、玄徳に敵意はない。しかも彼は、兵家の中にはめずらしい温情な人だ」
ふたりは感激して、匆々、兵をまとめ、許都へさして引揚げて行ったが、途中まで来ると、一叢の林の中から、突として、張飛の軍隊が襲ってきた。
張飛は二将の前に立ちふさがって、眼をいからしながら、
「せっかく生捕りにした汝らふたりを、むざむざ帰してたまるものか。兄貴の玄徳が放してもおれは放さん。通れるものなら通ってみろ」と、例の丈八の大矛をつきつけて云った。
劉岱と王忠も今は戦う気力もなく、ただ馬上で震えあがっていた。すると、後からただ一騎、かかることもあろうかと玄徳のさしずで追いかけてきた関羽が、
「やあ張飛! 張飛! またいらざる無法をするか。家兄の命にそむくか!」
と、大声で叱りつけた。
「やあ兄貴か、何で止める。今こやつらを放せば、ふたたび襲ってくる日があるぞ」
「重ねて参らば、重ねて手捕りにするまでのことだ」
「七面倒な! それよりは」
「ならんと申すに」
「だめか」
「強いて両将を討つなら、関羽から先に対手になってやる。さあ来い」
「ば、ばかをいえ」
張飛は横を向いて、舌打ちを鳴らした。
劉岱、王忠のふたりは、重ね重ねの恩を謝し、頭を抱えんばかりの態で許都へ逃げ帰った。
その後。
徐州は守備に不利なので、玄徳は小沛の城に拠ることとし、妻子一族は関羽の手にあずけて、もと呂布のいた下邳の城へ移した。