春園走獣

 まだ若い廃帝は、明け暮れ泣いてばかりいる母の何太后と共に、永安宮の幽居に深く閉じこめられたまま、春をむなしく、月にも花にも、ただ悲しみを誘わるるばかりだった。
 董卓は、そこの衛兵に、
「監視を怠るな」と厳命しておいた。
 見張りの衛兵は、春の日永を、あくびしていたが、ふと幽楼の上から、哀しげな詩の声が聞えてきたので、聞くともなく耳を澄ましていると、

春は来ぬ
けむる嫩草に
裊々たり
双燕は飛ぶ
ながむれば都の水
遠く一すじ青し
碧雲深きところ
これみなわが旧宮殿
堤上、義人はなきや
忠と義とによって
誰か、晴らさん
わが心中の怨みを――

 衛兵は、聞くと、その詩を覚え書にかいて、
「相国。廃帝の弘農王が、こんな詩を作って歌っていました」
 と、密告した。董卓は、それを見ると、
李儒はいないか」
 と呼び立てた。そして、その詩を李儒に示して、
「これを見ろ、幽宮におりながら、こんな悲歌を作っている。生かしておいては必ずや後の害になろう。何太后も廃帝も、おまえの処分にまかせる。殺して来い」と、いいつけた。
「承知しました」
 李儒はもとより暴獣の爪のような男だ。情けもあらばこそ、すぐ十人ばかりの屈強な兵を連れて、永安宮へ馳せつけた。
「どこにおるか、王は」
 彼はずかずか楼上へ登って行った。折ふし弘農王と何太后とは、楼の上で春の憂いに沈んでおられ、突然、李儒のすがたを見たのでぎょっとした容子だった。
 李儒は笑って、
「なにもびっくりなさる事はありません。この春日を慰め奉れ、と相国から酒をお贈り申しにきたのです。これは延寿酒といって、百歳の齢を延ぶる美酒です。さあ一盞おあがりなさい」
 携えてきた一壺の酒を取り出して杯を強いると、廃帝は、眉をひそめて、
「それは毒酒であろう」と、涙をたたえた。
 太后も顔を振って、
「相国がわたし達へ、延寿酒を贈られるわけはない。李儒、これが毒酒でないなら、そなたがまず先に飲んでお見せなさい」といった。
 李儒は、眼を怒らして、
「なに、飲まぬと。――それならば、この二品をお受けなさるか」
 と、練絹の縄と短刀とを、突きつけた。
「……おお。我に死ねとか」
「いずれでも好きなほうを選ぶがよい」
 李儒は冷然と毒づいた。
 弘農王は、涙の中に、

ああ、天道は易れり
人の道もあらじ
万乗の位をすてて
われ何ぞ安からん
臣に迫られて命はせまる
ただ潸々、涙あるのみ

 と、悲歌をうたってそれへ泣きもだえた。
 太后は、はったと李儒を睨めつけて、
「国賊! 匹夫! おまえ達の滅亡も、決して長い先ではありませぬぞ。――ああ兄の何進が愚かなため、こんな獣どもを都へ呼び入れてしまったのだ」
 罵り狂うのを、李儒はやかましいとばかり、その襟がみをつかみ寄せて、高楼の欄から投げ落してしまった。

「どうしたか」
 董卓は美酒を飲みながら、李儒の吉左右を待っていた。
 やがて李儒は、袍を血まみれに汚して戻ってきたが、いきなり提げていた二つの首を突きだして、
「相国、ご命令通り致してきました」と、いった。
 弘農王の首と、何太后の首であった。
 二つとも首は眼をふさいでいたが、その眼がかっと開いて、今にも飛びつきそうに、董卓には見えた。
 さすがに眉をひそめて、
「そんな物、見せんでもいい。城外へ埋めてしまえ」
 それから彼は、日夜、大酒をあおって、禁中の宮内官といい、後宮の女官といい、気に入らぬ者は立ちどころに殺し、夜は天子の床に横たわって春眠をむさぼった。
 或る日。
 彼は陽城を出て、四頭立ての驢車に美人を大勢のせ、酔うた彼は、馭者の真似をしながら、城外の梅林の花ざかりを逍遥していた。
 ところが、ちょうど村社の祭日だったので、なにも知らない農民の男女が晴れ着を飾って帰ってきた。
 董相国は、それを見かけ、
「農民のくせに、この晴日を、田へも出ずに、着飾って歩くなど、不届きな怠け者だ。天下の百姓の見せしめに召捕えろ」と、驢車の上で、急に怒りだした。
 突然、相国の従兵に追われて、若い男女は悲鳴をあげて逃げ散った。そのうち逃げ遅れた者を兵が拉して来ると、
「牛裂きにしろ」
 と、相国は威猛高に命じた。
 手脚に縄を縛りつけて、二頭の奔牛にしばりつけ、東西へ向けて鞭打つのである。手脚を裂かれた人間の血は、梅園の大地を紅に汚した。
「いや、花見よりも、よほど面白かった」
 驢車は黄昏に陽城へ向って帰還しかけた。
 するとある巷の角から、
「逆賊ッ」と、喚いて、不意に驢車へ飛びついて来た漢がある。
 美姫たちは、悲鳴をあげ、驢は狂い合って、端なくも、大混乱をよび起した。
「何するか、下司っ」
 肥大な体躯の持主である相国は、身うごきは敏速を欠くが、力はおそろしく強かった。
 精悍な刺客の男は、驢車へ足を踏みかけて、短剣を引抜き、相国の大きな腹を目がけて勢いよく突ッかけて行ったのであったが、董相国にその剣を叩き落され、しっかと、抱きすくめられてしまったので、どうすることもできなかった。
「曲者め。誰に頼まれた」
「残念だ」
「名を申せ」
「…………」
「誰か、叛逆を企む奴らの与党だろう。さあ、誰に頼まれたか」
 すると、苦しげに、刺客はさけんだ。
「叛逆とは、臣下が君にそむくことだ。おれは貴様などの臣下であった覚えはない。――おれは朝廷の臣、越騎校尉の伍俘だっ」
「斬れッ、こいつを」
 驢車から蹴落すとともに、董卓の武士たちは伍俘の全身に無数の刃と槍を加えて、塩辛のようにしてしまった。
      ×     ×     ×
 都を落ちて、遠く渤海郡(河北省)の太守に封じられた袁紹はその後、洛陽の情勢を聞くにつけ、鬱勃としていたが、遂に矢も楯もたまらなくなって、在京の同志で三公の重職にある司徒王允へ、ひそかに書を飛ばし、激越な辞句で奮起を促してきた。
 だが、王允は、その書簡を手にしてからも、日夜心で苦しむだけで、董相国を討つ計はなにも持たなかった。

 日々、朝廷に上がって、政務にたずさわっていても、王允はそんなわけで、少しも勤めに気がのらなかった。心中ひとり怏々と悶えを抱いていた。
 ところがある日、董相国の息のかかった高官は誰も見えず、皆、前朝廷の旧臣ばかりが一室にいあわせたので、(これぞ、天の与え)とひそかによろこんで、急に座中へ向って誘いかけた。
「実は、今日は、此方の誕生日なのじゃが、どうでしょう、竹裏館の別業のほうへ、諸卿お揃いで駕を枉げてくれませんか」
「ぜひ伺って、公の寿を祝しましょう」
 誰も、差支えをいわなかった。
 董卓系の人間をのぞいて、水入らずに話したい気持が、期せずして、誰にも鬱していたからであった。
 別業の竹裏館へ、王允は先へ帰ってひそかに宴席の支度をしていた。やがて宵から忍びやかに前朝廷の公卿たちが集まった。
 時を得ぬ不遇な人々の密会なので、初めからなんとなく、座中はしめっぽい。その上にまた、酒のすすみだした頃、王允は、冷たい杯を見入って、ほろりと涙をこぼした。
 見とがめた客の一人が、
「王公。せっかく、およろこびの誕生の宴だというのに、なんで落涙されるのですか」といった。
 王允は、長大息をして、
「されば、自分の福寿も、今日の有様では、祝う気持にもなれんのじゃ。――不肖、前朝以来、三公の一座を占め、政にあずかりなから、董卓の勢いはどうすることもできんのじゃ。耳に万民の怨嗟を聞き、眼に漢室の衰亡を見ながら、なんでわが寿筵に酔えようか」
 といって、指で瞼を拭った。
 聞くと一座の者も皆、
「ああ――」と、大息して、「こんな世に生れ合わせなければよかった。昔、漢の高祖三尺の剣をひっさげて白蛇を斬り、天下を鎮め給うてより王統ここに四百年、なんぞはからん、この末世に生れ合わせようとは」
「まったく、われわれの運も悪いものだ。こんな時勢に巡り合ったのは」
「――というて、少し大きな声でもして、董相国やその一類の誹謗をなせば、この首の無事は保てないし」
 などと各〻、涙やら愚痴やらこぼして燭もめいるばかりであったが、その時、末座のほうから突然、
「わはははは。あはッはははは」
 手を叩いて、誰か笑う者があった。公卿たちは、びっくりして、末席を振返った。見るとそこに若年の一朝臣が、独りで杯をあげ、白面に紅潮をみなぎらせて、人々が泣いたり愚痴るのを、さっきからおかしげに眺めていた。
 王允は、その無礼をとがめ、
「誰かと思えば、そちは校尉曹操ではないか。なんで笑うか」
 すると、曹操はなお笑って、
「いや、すみません。しかしこれが笑わずにおられましょうか。朝廷の諸大臣たる方々が、夜は泣いて暁に至り、昼は悲しんで暮れに及び、寄るとさわると泣いてばかりいらっしゃる。これでは天下万民もみな泣き暮しになるわけですな。おまけに、誕生祝いというのに、わさわさ集まって、また泣き上戸の泣き競べとは――。わはははは。失礼ですが、どうもおかしくって、笑いが止まりませんよ。あははは、あははは」
「やかましいっ。汝はそもそも、相国曹参が後胤で、四百年来、代々漢室の大恩をうけて来ながら、今の朝廷の有様が、悲しくないのか。われわれの憂いが、そんなにおかしいのか。返答によってはゆるさんぞ」

「これは意外なお怒りを――」と、曹操はやや真面目に改まって、
「それがしとて何も理のないことを笑ったわけではありません。時の大臣ともあろう方々が、女童の如く、日夜めそめそ悲嘆しておらるるのみで董卓を誅伏する計といったら何もありはしない。――そんな意気地なしなら、時勢を慨嘆したりなどせずに、美人の腰掛けになって胡弓でも聴きながら感涙を流していたらよかろうに――と思ったのでつい笑ってしまった次第です」
 と臆面もなくいった。
 曹操の皮肉に王允をはじめ公卿たちもむっと色をなして、座は白け渡ったが、
「しからば何か、そちはそのような広言を吐くからには、董卓を殺す計でもあるというのか。その自信があっての大言か」
 王允が再び急きこんでなじったので、人々は、彼の返答いかにと、固唾をのんで、曹操の白い面に眸をあつめた。
「なくてどうしましょう!」
 毅然として彼は眉をあげ、
「不才ながら小生におまかしあれば、董卓が首を斬って、洛陽の門に梟けてごらんに入れん」
 と明言した。
 王允は、彼の自信ありげな言葉に、かえって喜色をあらわし、
「曹校尉、もし今の言に偽りがないならば、まことに天が義人を地上にくだして、万民の苦しみを助け給うものだ。そも、君にいかなる計やある。願わくば聞かしてもらいたいが」
「されば、それがしが常に董相国に近づいて、表面、媚びへつらって仕えているのは、何を隠そう、隙もあれば彼をひと思いに刺し殺そうと内心誓っているからです」
「えっ。……では君には疾くよりそれまでの決心を持っていたのか」
「さもなくて、何の大笑大言を諸卿に呈しましょう」
「ああ、天下になおこの義人あったか」
 王允はことごとく感じて、人々もまたほっと喜色をみなぎらした。
 すると曹操は、「時に、王公に小生から、一つのご無心がありますが」といいだした。
「何か、遠慮なくいうてみい」
「ほかではありませんが、王家には昔より七宝をちりばめた稀代の名刀が伝来されておる由、常々、承っておりますが、董卓を刺すために、願わくばその名刀を、小生にお貸し下さいませんか」
「それは、目的さえ必ず仕遂げてくれるならば……」
「その儀は、きっとやりのけて見せます。董相国も近頃では、それがしを寵愛して、まったく腹心の者同様にみていますから、近づいて一断に斬殺することは、なんの造作もありません」
「うム。それさえ首尾よく参るものなら、天下の大幸というべきだ。なんで家宝の名刀一つをそのために惜しもうや」
 と、王允はすぐ家臣に命じて、秘蔵の七宝剣を取りだし、手ずからそれを曹操に授け、かつ云った。
「しかし、もし仕損じて、事顕れたら一大事だぞ、充分心して行えよ」
「乞う、安んじて下さい」
 曹操は剣を受け、その夜の酒宴も終ったので、颯爽として帰途についた。七宝の利剣は燦として夜光のの帯の如く、彼の腰間にかがやいていた。

前の章 桃園の巻 第22章 次の章
Last updated 1 day ago