風を呼ぶ杖
一
このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる昂らなかった。
うまうまと孔明の計に乗って、十数万のむだ矢を射、大いに敵をして快哉を叫ばせているという甚だ不愉快な事実が、後になって知れ渡って来たからである。
「呉には今、孔明があり、周瑜もかくれなき名将。ことに大江をへだてて、彼の内情を知る便りもありません。ひとつお味方のうちから人を選んで、呉軍の中へ、埋伏の毒を嚥ませてはいかがでしょう」
謀将の荀攸は、苦念の末、こういう一策を、曹操へすすめた。
埋伏の毒を嚥ます――という意味は、要するに、甘いものに包んだ劇毒を嚥み下させて、敵の体内から敵を亡ぼそうという案である。
「さあ。それは最上の計だが、しかし兵法では最も難しい謀略といわれておるもの。――まず第一にその人選だが、誰か、よい適任者がおるだろうか」
曹操のことばに、荀攸は、考えを打ち明けた。
「先頃、丞相がご成敗になった蔡瑁の甥に、蔡和、蔡仲という者がいます。叔父蔡瑁がお手討ちになったため、いま謹慎中の身でありますが」
「おお。さだめし予を恨んでおるだろうな」
「そこです。当然誰もがひとしく、そう考えるであろうところこそ、この策謀の狙いどころであり、また重要な役割を果たしましょう」
「では、蔡和、蔡仲のふたりを用いて、呉へ入れるというのか」
「さればで。――まず丞相が二人を召されて、よく彼らの心をなだめ、また利と栄達をもって励まし、江南へ放って、呉軍へ騙って降伏させます。――敵はかならず信じます。なぜなら、丞相に殺された蔡瑁の甥ですから」
「しかし、かえって、それをよい機に、ほんとに呉へ降って、味方の不利を計りはしまいか。予を、叔父の讐と恨んで」
「大丈夫です。荊州には、蔡和、蔡仲の妻子が残っています。なんで、丞相に弓が引けましょう」
「あ。なるほど」
曹操はうなずいて、荀攸の心にまかせた。翌る日、荀攸は、謹慎中の二人を訪うて、まず赦免の命を伝えて恩を売り、やがて伴って曹操の前へ出た。
曹操は二人に酒をすすめ、将来を励まして、
「どうだ、叔父の汚名をそそぐ気で、ひとつ大功を立ててみぬか」と、計画を話してみた。
「やりましょう」
「進んで御命を拝します」
二人とも非常な意気込みを示した。曹操は満足して、このことが成功したあかつきには、恩賞はもちろん末長く功臣として重用するであろうと約した。
「お心を安んじて下さい。かならず周瑜、孔明の首を土産に帰ってきます」
大言をのこして、蔡兄弟は、次の日出発した。もちろん脱陣の偽装をつくってゆく必要がある。船数艘に、部下の兵五百ばかり乗せ、取る物も取りあえず、命がけで脱走してきたという風を様々な形でそれに満載した。
帆は風をはらみ、水はこの数艘を送って、呉の北岸へ送った。――折ふし呉の大都督周瑜は、軍中を巡察中だったが、いま敵の陣から、二人の将が、兵五百をつれて、投降してきたと聞くと、明らかに喜色をあらわして、
「すぐ召しつれて来い」と、営中に待ちかまえていた。
やがて蔡和、蔡仲はきびしく護衛されながら引かれて来た。周瑜はまず二人へたずねた。
「足下たちは、なぜ、曹操のもとを脱して、わが呉へ降って来たか。武門の人間にも似合わん不徳な行為ではないか」
二
悄然と、二人は頭を垂れて、落涙をよそおいながら答えた。
「われわれ両名は、曹操のために殺された魏の水軍司令、蔡瑁の甥にございます。――叔父の瑁は、罪もなく討たれたものの、故主の成敗を、悪しざまにいい呪えば、これも反覆常なしと、人は眉をひそめましょう。家父とも頼む叔父に死なれ、主と仰ぐ人には忌まれ疑われ、寄るに陣地なく、遂に江北を脱してこれへ参りましたもの。――願わくはそれがし両名の寸命を用いて、良き死場所をお与えください」
周瑜は、即座に、
「よろしい。誓って、呉のために尽す気ならば、今日以後、わが陣中に留まるがいい」
と、これを甘寧の配下に附属させた。
ふたりは、心中に、
(仕済ましたり)
と、舌を吐きながらも、表面はいと悄々と、恩を謝して退出した。
魯粛は、そのあとで、
「都督、大丈夫ですか」と、疑わしげに、彼の心事を確かめた。
周瑜は、得々として
「さしも忠臣といわれた蔡瑁なのに、罪もなく殺されては、彼の親身たるもの、恨むまいとしても、恨まずにはおられまい。曹操を離れて、われに来たのは、けだし、南風が吹けば南岸へ水禽が寄ってくるのと同じ理である。何を疑う余地があろう」と笑うのみで、省みる風もなかった。
魯粛は、その日、例の船中で孔明に会ったので、周瑜の軽忽な処置を、嘆息して語った。
すると、孔明もまた、にやにや笑ってばかりいる。何故、笑い給うかと、魯粛がなじると、
「余りに要らぬご心配をしておられるゆえ、つい笑いがこぼれたのです」
と、孔明は初めて、周瑜の心に、計のあることに違いないと、自分の考えを解いて聞かせた。
「蔡和、蔡仲の降参は、あきらかに詐術です。なんとなれば、妻子は江北に残しておる。周都督も、それはすぐ観破されたに相違ないが、互いに江をへだてて、両軍とも戦いによき手がかりもないところ――これは絶好の囮と、わざと、彼の計に乗った顔して、実はこちらの計略に用いようと深く企んでおられるものと考えられる」
「ああ、なるほど!」
「どうです、ご自身でも笑いたくなりはしませんか」
「いや笑えません。どうしてそれがしは、こう人の心を見るに鈍なのでしょう。むしろ己れの不敏に哀れを催します」と、深く悟って帰った。
その夜、呉陣第一の老将黄蓋が、先手の陣からそっと本営を訪ねて来て、周瑜と密談していた。
黄蓋は孫堅以来、三代呉に仕えてきた功臣である。白雪の眉、烱々たる眸、なお壮者をしのぐものがあった。
「深夜、お訪ねしたのは、余の儀でもないが、かく対陣の長びくうちに、曹操はいよいよ北岸の要寨をかため、その船手の勢は、日々調練を積んで、いよいよ彼の精鋭は強化されるばかりとなろう。しかのみならず、彼は大軍、味方は寡兵、これを以て、彼を討つには火計のほかに兵術はないと思う。……周都督、火攻めはどうじゃ、火術の計は」
「しっッ」と周瑜は、老将の激しこむ声音を制して、
「おしずかに、ご老台。あなたは一体、誰からそんなことを教えられましたか」
「誰から? ……馬鹿をいわっしゃい。わしの本心から出た信念じゃ」
「ああ、ではやはり、ご老台の工夫とも一致したか。――ではお打明けするが、実は、降人の蔡仲、蔡和の両名は、詐って呉へ投じてきたが、それを承知で、味方のうちに留めてあります。敵の謀略の裏をかいて、こちらの謀略を行わんためにです」
「ふむ。それは妙だ。してその降人を、都督には、どう用いて、曹操の裏をかくおつもりか? ……」
三
「その奇策を行うには、呉からも曹操の陣へ、詐りの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
周瑜が嘆息をもらすと、
「なぜ、ないといわるるか」
黄蓋は、せき込むように、身をすすめて、詰問った。
「呉国、建って以来、ここ三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。――ここに、不肖ながら、黄蓋もおるつもりでござるに」
「えっ。……ではご老台が、進んでその難におもむいて下さるとか」
「国祖孫堅将軍以来、重恩をこうむって、いま三代の君に仕え奉るこの老骨。国の為とあれば、たとい肝脳地に塗るとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
「あなたにそのご勇気があれば、わが国の大幸というものです。……では」
周瑜は、あたりを見まわした。陣中寂として、ここの一穂の燈火のほか揺らぐ人影もなかった。
何事か、二人はしめし合わせて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直ちに、中軍に立ち出で、鼓手に命じて、諸人を集めた。
孔明も来て、陣座のかたわらに床几をおく。周瑜は、命を下して、
「近く、敵に向って、わが呉はいよいよ大行動に移るであろう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あって、各兵船に、約三ヵ月間の兵糧を積みこんでおけ」と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋がすすみ出ていった。
「無用なご命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
「三月分と申したのだが、それがどうした」
「三月はおろか、たとえ三十ヵ月の兵糧を積んだところで無駄な業、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
周瑜は、勃然と怒って、
「やあ、まだ一戦も交じえぬに、味方の行動に先だって不吉なことばを! 武士ども、その老いぼれを引っくくれ」
黄蓋も眦を裂いて、
「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々と無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮らず、必勝の的もなき命をにわかに発したとて、何で唯々諾々と服従できようか。――いたずらに兵を損ずるのみだわ」
「ええ、いわしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑わす痴れ者め。誓って、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。――これっ、なぜその老いぼれに物をいわしておくか」
「ひかえろ、周瑜、汝ごときは、せいぜい、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方に、縄を打てるものなら打ってみよ」
「斬れっ。――彼奴を!」
面に朱をそそいで、周瑜の指は、閻王が亡者を指さすように、左右へ叱咤した。
「あっ、お待ち下さい」
一方の大将甘寧が、それへ転び出て、黄蓋に代って罪を詫びた。
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしずまらなかった。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまう。
「すわ、一大事」と諸大将も、今はみな色を失って、こもごもに仲裁に立った。いやともかく大都督周瑜に対して抗弁はよろしくないと、諸人地に額をすりつけて、
「国の功臣、それに年も年、なにとぞ憐みを垂れたまえ」と、哀願した。
周瑜はなお肩で大息をついていたが、
「人々がそれほどまでに申すなれば、一時、命はあずけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百杖の刑を加えて、陣中に謹慎を申しつける」と、云い放った。
即ち、獄卒に命じて杖百打を加えることになった。黄蓋はたちまち衣裳甲冑をはぎとられ、仮借もなく、棍棒を振りあげてのぞむ獄卒の眼の下に、無残、老い細った肉体を、しかも衆人監視の中に曝された。
四
「打て、打てっ、仮借いたすなっ。ためらう奴は同罪に処すぞ!」
怒りにふるえ、猛りに猛って、周瑜の耳は、詫び入る諸将のことばなど、まるで受けつけなかった。
「一打! 二打 三打!」
杖を持った獄卒は、黄蓋の左右から、打ちすえた。黄蓋は地にうッ伏して、五つ六つまでは、歯をくいしばっていたが、たちまち、悲鳴をあげて跳び上がった。
そこをまた、
「十っ……。十一っ……」
杖は唸って、この老将を打ちつづけた。血はながれて白髯に染み、肉はやぶれて骨髄も挫けたろうと思われた。
「九十っ。九十一っ……」
百近くなった時は、打ちすえる獄卒のほうも、へとへとに疲れていた。もちろん黄蓋ははや虫の息となって、昏絶してしまった。周瑜もさすがに、顔面蒼白になって、睨めつけていたが、唾するように指して、
「思い知ったか!」
云い捨てると、そのまま、営中へ休息に入ってしまった。
諸将はその後で、黄蓋を抱きかかえ、彼の陣中へ運んで行ったが、その間にも、血は流れてやまず、蘇生してはまたすぐ絶え入ること幾度か知れないほどだったので、日頃、彼と親しい者や、また呉の建国以来、治乱のあいだに苦楽を共にしてきた老大将たちは、みな涙をながして傷ましがった。
この騒ぎを後に、孔明はやがて黙々と、自分の船へ帰って行った。そして独り船の艫にいて、船欄から下をのぞみ、何事か沈吟にふけりながら、流るる水を見入っていた。
魯粛は、彼のあとを追ってきたらしく、孔明がそこに腰かけていると、すぐ前に現れて話しかけた。
「どうも、きょうのことばかりは、胸が傷みました。周都督は、軍の総司令だし、黄蓋は年来の先輩。諫めようにも、あのお怒りでは、かえって、火に油をそそぐようなものですし……ただはらはらするのみでした。――けれど、先生は他国の賓客であり、先頃から周都督も、心から尊敬を払っておられるのですから、もし先生が、黄蓋のために取りなして下さればとは、ひとり魯粛ばかりでなく、みなそう思っていたらしく見えました。……然るに、先生は終始黙々、手を袖にして、ついに一言のお口添えもなさらず、ただ見物しておられた。……それには何か深いお考えでもあったのですか」
「はははは、それよりもお訊きしたいのは、貴公こそ、何故、この孔明を欺こうとはなさるるか」
「や? これは異な仰せ。あなたを呉へお伴れして参ってから以来、それがしはまだあなたを欺いたことなど一度もないつもりですが」
「――ならば、貴公はまだ、兵法に秘裏変表の不測あることをご存じないとみえる。周瑜が今日、朱面怒髪して、黄蓋に百打の笞を刑し、憤然、陣中の内争を外に発してみせたのは、みな曹操をあざむく計である。何でそれを孔明が諫めよう」
「えっ、ではあれも計略ですか」
「明白な企み事です。――が、粛兄。孔明がそういったということは、周都督へは、必ず黙っていて下さいよ。問われても」
「……ははあ! さては」
魯粛は、気の寒うなるのを覚えた。けれどなお半信半疑なここちで、その夜、ひそかに帳中で、周瑜と語ったとき、周瑜から先にこう云い出したのを幸いに、糺してみた。
「魯粛、きょうのことを、陣中の味方は皆、どう沙汰しているね」
「滅多に見ないお怒りようと、みな恟々としておりますよ」
「孔明は? ……何といっておるかね」
「都督も、情けないお仕打ちをするといって、哀んでおりました」
「そうか! 孔明もそういっていたか」と手を打って、
「初めて孔明をあざむくことができた。孔明がそう信じるほどなら、このたびのわが計は、かならず成就しよう。いや、もう図にあたれりといってもいい」
周瑜は会心の笑みをもらして、初めて魯粛に心中の秘を打ち明けた。