成都陥落

 馬超は弱い。決して強いばかりの人間ではなかった。理に弱い。情にも弱い。
 李恢はなお説いた。
「玄徳は、仁義にあつく、徳は四海に及び、賢を敬い、士をよく用いる。かならず大成する人だ。こういう公明な主をえらぶに、何でうしろ暗い憚りをもつことがある。第一、玄徳に力を添えて曹操を討つは、大きくは四民万象のため、一身には、父母の仇を報じる大孝ではないか」
 唯々として、彼はもう李恢と駒をならべて、関中へ向っていた。
 伴われて、玄徳に会った。
 この英気ある青年の良心的な降伏に対して、間の悪いような思いをさせる玄徳でもない。
「ともに大事をなし、他日の曠世を楽しもうではありませんか」
 ほとんど、上賓の礼をもって、彼を遇した。
 青年馬超の感激はいうまでもなかった。恩を謝して、堂を降るとき、
「いま初めて、雲霧を払って、真の盟主を仰いだここちがする」
 心からそういった。
 そこへ腹心の馬岱が、一箇の首級をもたらして来た。すなわち漢中軍の軍監楊柏の首だった。
「以て、それがしの心証としてごらんください」
 馬超はそれを玄徳に献じた。
 こうして、葭萌関の守備も、いまは憂いも除かれたので、玄徳は最初のとおり霍峻と孟達の二将にあとの守りをまかせて、その余の軍勢すべてをひきい、ふたたび綿竹の城へ帰った。
 綿竹へ着いた日も、ここは合戦で、蜀の劉晙、馬漢の二将がさかんに攻めている最中だった。
 にもかかわらず、留守していた黄忠趙雲は、常と変らず出迎えに出たのみか、城中には、盛宴を張って、
「おめでとう存じます」と、玄徳に凱旋の賀をのべた。
 そのうちに趙雲が、
「ちょっと、中座いたします」
 と、杯をおいて、城外へ出て行ったと思うと、やがて敵将馬漢と劉晙の首をひッさげて来て、
「賀宴のおさかなに」と披露した。
 一堂の将はみな手をたたいた。馬超もこの中にいたので、
「ああ、さすがに英傑がいる」と、ひそかに舌をまいて愕きもし、また、こういう英雄たちの仲間に加わった自分の生きがいも大きくした。
 そこで、馬超は、玄徳に向って、
「ご奉公の手始めに、私と、私の従弟の馬岱と、ふたりして成都におもむき、劉璋に会って、張魯の野心を語り、また漢中の内情を告げ、劉皇叔の兵と戦うことの愚かなることをよく説いてみたら――と思いますがどうでしょうか」と、進言した。
 玄徳は、孔明に諮れという。孔明は、賛成した。そして教えた。
「もし劉璋が、君の言に服さなかったときは、こうこうし給え」と。
 それから十数日の後。馬超馬岱は、蜀の府城、成都門の壕ぎわに、駒をたてて、
「太守劉璋に、一言せん」と、呼ばわっていた。
 城楼の遥かに、劉璋が立った。
 馬超は、声を張って、
「公は、漢中の援けを待って、籠城しておられるのだろうが、百年お待ちになっても、張魯の援軍などは参りませんぞ」と、冒頭して、
「たとい、来たところで、それは蜀を救いにくるのでなく、蜀を横奪に来るのです。漢中の内情と、張魯一族の野望とは、公がお考えになっているようなものではない。現に、この馬超すら、彼らにあいそをつかし、楊柏を討って、劉玄徳に従ったほどです」とその経緯をことごとくはなした。
 劉璋は、落胆のあまり、昏倒しかけた。侍臣にささえられて、楼台の内へかくれた様が、馬超馬岱にも見えた。
 ふたりは、馬を回して、城外に陣し、劉璋の返答を待っていた。
 城中では、主戦派、籠城派、また和平派など幾つにもわかれて、二日二晩の評定に大論争がもつれていた。しかし結局は、玉砕か降伏か、その二つを出なかった。

 この間にも、劉璋を見限って、城中を抜け出す投降者は続出していた。蜀郡の許靖までが城を踰えたと聞いて、劉璋は、
成都も今が終りか」と、一晩中、慟哭した。
 あくる日、簡雍と名乗って、一輛の車が、城門の下へ来た。劉璋が門を開かせて、
「ともあれ迎えよ」というので、案内すると、簡雍は車のまま城中へ通ったのみか、ひどく尊大ぶって、迎えの将士を睥睨してゆくので、ひとりなお気概のある大将が、
「こらっ、ここをどこと心得る。蜀の本城に人はいないと思うかっ」
 と、剣を抜いて、車上の者の鼻面へつきつけた。
 簡雍はあわてて車から飛び降り、無礼をわびて、急に慇懃になった。
「先生のこれへ来られたのは何事ですか」
 しかし劉璋は、彼を軽んじることなく、堂上に請じて、大賓の礼をとった。
「謹んで太守の賢慮を仰ぎ、蜀中の民を救わんがためです」
 簡雍は、口を極めて、玄徳の人間をたたえ、その性は寛弘温雅、心をもって結べば、決して相害するような奸人ではないと告げた。
 劉璋は、一晩、簡雍を泊めて、次の朝、翻然と悟ったもののごとく、印綬、文籍を簡雍に渡し、ともに城を出て降参の意を表した。
 玄徳はみずから迎え立ち、劉璋の手をとって云った。
「私交としては、人情にうごかされるが、時の勢いと、公なる立場から、きのうまで、成都を攻め、今日、あなたの降を容れることとなった。かならず個人同志の情誼と、公人的な大義とを混同して、この玄徳を恨みたもうな」
 玄徳の眼には、熱い涙すらみえたので、劉璋は、むしろ降伏の時を遅くしたことを、自身の罪と思ったほどであった。
 成都の民は、平和を謳歌した。香を焚き、花を剪って、道を清めた。玄徳と劉璋は、馬をならべて城中へ入った。
「蜀は、あらたまって新しい統治の下に、きょうを以て、その更生第一日とする。なお昨日にひとしい錯覚をいだいて、この一新に不平あるものは去れ」
 府堂にのぼって、玄徳はこう宣言した。
 蜀中の大将文官は、ほとんど階下に集まって、異存ない旨を誓ったが、ただ黄権劉巴だけが、自邸に籠って、門を閉じたまま、ここに姿を見せていなかった。
「憎むべき反骨」
「なお異心あるにちがいない」
 騒然と、その二人に対して、非難の声が起ったが、玄徳は、険悪な空気を予察して、
「もし私的に、二人へ危害を加えなどしたら、その者は大罪に処して、三族をも亡ぼすであろう」
 と、かたく盲動を禁じた。
 式が終ると、彼は自身足を運んで、劉巴の門前に立ち、また黄権の家の門にも立った。そして諄々と、時代の一転を説き、新政の意義を諭し、さらに、これに逆行しようとする小さい反抗の、小我に過ぎないことを云い聞かせた。
「ああ、われ誤る」
 と、まず黄権が出て、門外に額ずき、つづいて劉巴も恭順をちかった。
 成都は収められた。こうして、蜀中は平定した。
 孔明は、玄徳へすすめた。
「いまはもうよい時です。劉璋荊州へお送りなさい」
「蜀の実権は、すでに劉璋にないのだから、あえて、遠くへ送る必要もないのではなかろうか。不愍に思われる」
「一国に二人の主なし。そんな婦人の仁にとらわれてはいけません」
「……げにも」
 玄徳はうなずいた。しかし彼としては、勇気を要した。
 孔明がすべてを取り計らった。即ち劉璋を振威将軍に封じ、妻子一族をつれて、荊州へ赴くようにという令をくだしたのであった。
 ここに劉璋は蜀を去って、荊州南郡に移り、まったくその地位と所をかえて余生する身となった。
 玄徳は次に、恩爵授与の大令を発した。譜代の大将部将幕賓はもちろん、降参の諸将にまでその封爵と行賞はあまねくゆきわたった。

 封爵、栄進の恩に浴した将軍たちの名はいちいち挙げきれないが、玄徳は、この栄を留守の関羽に頒つことも忘れなかった。
 関羽のみでなく、その下にあって、よく後方を守ってくれた将士軽輩にいたるまで、恩典から洩れないようにした。そのために成都から黄金五百斤、銭五干万、錦一万匹を荊州へ送った。
 なお、蜀中の窮民には、倉廩をひらいて施し、百姓の中の孝子や貞女を頌徳し、老人には寿米を恵むなど、善政を布いたので、蜀の民は、劉璋時代の悪政とひきくらべて、新政府の徳をたたえ、業を楽しみ、歓びあう声、家々に満ちた。
 何にしても、蜀の国始まって以来の盈光が全土にみなぎった。新しい文化の光、人文の注入も、あずかって力がある。
「予は初めて、予の国をもった」
 玄徳も万感を抱いたであろう。国ばかりでなく、このときほどまた、彼の左右に人物の集まったこともない。
 軍師孔明
 盪冦将軍寿亭侯関羽
 征虜将軍新亭侯張飛
 鎮遠将軍趙雲
 征西将軍黄忠
 揚武将軍魏延。
 平西将軍都亭侯馬超
 そのほか、孫乾、簡雍、糜竺糜芳劉封、呉班、関平、周倉、廖化馬良、馬謖、蒋琬、伊籍――などの中堅以外には、新たに玄徳に協力し、或いは、戦後降参して、随身一味をちかった輩にて、
 前将軍厳顔。
 蜀郡太守法正
 掌軍中郎将董和
 長史許靖
 営中司馬龐義。
 左将軍劉巴
 右将軍黄権
 などという錚々たる人物があるし、なお、呉懿費観、彭義、卓膺、費詩、李厳、呉蘭、雷同、張翼、李恢、呂義、霍峻、鄧芝、孟達、楊洪あたりの人々でも、それぞれ有能な人材であり、まさに多士済々の盛観であった。
「自分が国を持ったからには、それらの将軍たちにも、田宅をわけ与えて、その妻子にまで、安住を得させたいが」
 ある時、玄徳がこう意中をもらすと、趙雲はそれに反対した。
「いけません、いけません。むかし秦の良臣は、匈奴の滅びざるうちは家を造らず、といいました。蜀外一歩出れば、まだ凶乱を嘯く徒、諸州にみちている今です。何ぞわれら武門、いささかの功に安んじて、今、田宅を求めましょうか。天下の事ことごとく定まる後、初めて郷土に一炉を持ち、百姓とともに耕すこそ身の楽しみ、また本望でなければなりません」
「善い哉、趙雲の言」と、孔明もともに云った。
「蜀の民は、久しい悪政と、兵革の乱に、ひどく疲れています。いま田宅を彼らに返し、業を励ませば、たちまち賦税も軽しとし、国のために、いや国のためとも思わず、ただ孜々として稼ぎ働くことを無上の安楽といたしましょう。その帰結が国を強うすること申すまでもありません」
 なおこの前後、孔明は、政堂に籠って、新しき蜀の憲法、民法、刑法を起算していた。
 その条文は、極めて厳であったので、法正が畏る畏る忠告した。
「せっかく蜀の民は今、仁政をよろこんでいる所ですから、漢中の皇祖のように法は三章に約し、寛大になすってはいかがですか」
 孔明は笑って教えた。
「漢王は、その前時代の、秦の商鞅が、苛政、暴政を布いて、民を苦しめたあとなので、いわゆる三章の寛仁な法をもって、まず民心を馴ずませたのだ。――前蜀の劉璋は、暗弱、紊政。ほとんど威もなく、法もなく、道もなく、かえって良民のあいだには、国家にきびしい法律と威厳のないことが、淋しくもあり悩みでもあったところだ。民が峻厳を求めるとき、為政者が甘言をなすほど愚なる政治はない。仁政と思うは間違いである」

 孔明はなおいった。
「民に、恩を知らしめるは、政治の要諦であるが、恩に狎れるときは、民心が慢じてくる。民に慢心放縦の癖がついた時、これを正そうとして法令をにわかにすれば、弾圧を感じ、苛酷を誹り、上意下意、相もつれてやまず、すなわち相剋して国はみだれだす。――いま戦乱のあと、蜀の民は、生色をとりもどし、業についたばかりで、その更生の立ち際に、峻厳な法律を立てるのは、仁者の政でないようであるが、事実は反対であろう。すなわち、今ならば、民の心は、どんな規律に服しても、安心して生業を楽しめれば有難いという自覚を持っているし、前の劉璋時代とちがって賞罰の制度が明らかになったのを知れば、国家に威厳が加わって来たものとして、むしろ安泰感を盛んにする。これ、民が恩を知るというものである。――家に慈母があっても、厳父なく、家の衰えみだれるを見る子は悲しむ。家に厳父あって、慈母は陰にひそみ、わがままや放埓ができなくとも、家訓よく行われ、家栄えるときは、その子らみな楽しむ。……一国の政法も、一家の家訓も、まず似たようなものではあるまいか」
「おそれ入りました。深いおこころもわきまえず、無用なことを申上げ、かえって、恥入りました」
 法正は心から拝服して、以来、孔明を敬うこと数倍した。
 数日の後、国令、軍法、刑法などの条令が布告され、西蜀四十一州にわたって、兵部が設けられた。内は民を守り、外は国防にあたり、再生の「蜀」はここに初めて国家の体をそなえた。
      ×     ×     ×
 千里の上流から、江を下って、漢中、西蜀あたりの情報はかなり迅く、呉へも聞えてくる。
「玄徳はすでに成都を占領した」
「着々治安を正し、蜀中に新政を布告したという」
「もとの太守劉璋は、後方へ送られて、荊州の公安へ移ってきたというではないか」
 呉の諸臣は、政堂に会するたび、おたがいの早耳を交換していた。
 一日、呉主孫権は、衆臣の中でこういった。
「蜀の国を取れば、かならず荊州は呉へ返す。――これは玄徳が、かねがね呉に向って、口癖にいっていた約束である。然るに、今、蜀四十一州を取りながら、まだ何らの誠意も示してこない。予の忍耐にもかぎりがある。いっそのこと、大軍をさしむけて、荊州をこっちへ収めてしまおうと考えるが、各〻の所存はどうか」
 すると、宿将張昭が、
「まだ、まだ」と、独り頭を振っていた。
 孫権がみとめて、
「昭老はこのことに不同意であるか」と、問いかけた。
 彼は、うなずいた。
「蜀、魏、呉の三国のうちで、いま最も恵まれている国は呉です。呉の位置です。国は安寧で、民は富を積み、兵は充分に英気を養っていられるところです。求めて大軍を起すにあたりますまい」
「しかし、このままにしておいたらいつの日、荊州が呉にかえるぞ」
「手を袖にして、荊州を取り返してご覧にいれましょう」
「そんな名案があるのか?」
「あります。――玄徳のたのみとする人物は諸葛孔明一人といっていいでしょう。その孔明の兄諸葛瑾は、久しく君に仕えて、呉にいるではありませんか。いま罪を称えて、彼を蜀へ使いに立て、もし荊州を還さなければ、孔明の兄たる筋をもって、この瑾をはじめ妻子一族は残らず斬罪に処されます――と彼にいわせてごらんなさい」
「なるほど。……孔明は情に悶え、玄徳は義理に悩もう。……その計は大いによい。しかし瑾は、この孫権に仕えてからまだ一ぺんの落度すらない誠実な君子。なんでその妻子を獄に下せようか」
「いや。君のお旨を、よく申し聞かせ、計のためなりと、得心の上で、仮の獄舎へ移しておくなら、なんのさまたげもないでしょう」
 次の日、諸葛瑾は、君命をうけて、呉宮の内へ召されていた。

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