于吉仙人
于吉仙人
一
呉の国家は、ここ数年のあいだに実に目ざましい躍進をとげていた。
浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を扼し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和によって、宛然たる呉国色をここに劃し、人の気風は軽敏で利に明るく、また進取的であった。
彗星的な風雲児、江東の小覇王孫策は、当年まだ二十七歳でしかないが、建安四年の冬には、廬江を攻略し、また黄祖、劉勲などを平げて恭順を誓わせ、予章の太守もまた彼の下風について降を乞うてくるなど――隆々たる勢いであった。
彼の臣、張紘は、いくたびか都へ上り、舟航して、呉と往来していた。
孫策の「漢帝に奉るの表」を捧げて行ったり、また朝延への貢ぎ物を持って行ったのである。
孫策の眼にも漢朝はあったけれど、その朝門にある曹操は眼中になかった。
孫策はひそかに大司馬の官位をのぞんでいたのである。けれど、容易にそれを許さないものは、朝廷でなくて、曹操だった。
甚だおもしろくない。
だが、並び立たざる両雄も、あいての実力は知っていた。
「彼と争うは利でない」
曹操は、獅子の児と噛みあう気はなかった。
しかし獅子の児に、乳を与え、冠を授けるようなことも、極力回避していた。
ただ手なずけるを上策と考えていた。――で、一族曹仁の娘を、孫策の弟にあたる孫匡へ嫁入らせ、姻戚政策をとってみたが、この程度のものは、ほんの一時的な偽装平和を彩ったまでにすぎない。日がたつと、いつとはなく、両国のあいだには険悪な気流がみなぎってくる。乳を与えなくても、獅子の児は牙を備えてきた。
呉郡の太守に、許貢という者がある。その家臣が、渡江の途中、孫策の江上監視隊に怪しまれて捕われ、呉の本城へ送られてきた。
取調べてみると、果たして、密書をたずさえていた。
しかも、驚くべき大事を、都へ密告しようとしたものだった。
(呉の孫策、度々、奏聞をわずらわし奉り、大司馬の官位をのぞむといえども、ご許容なきをうらみ、ついに大逆を兆し、兵船強馬をしきりに準備し、不日都へ攻めのぼらんの意あり、疾くよろしくそれに備え給え)
こういう内容である。
孫策は怒って、直ちに、許貢の居館へ詰問の兵をさし向けた。そして許貢をはじめ妻子眷族をことごとく誅殺してしまった。
阿鼻叫喚のなかから、あやうくも逃げのがれた三人の食客があった。当時、どこの武人でも、有為な浪人はこれをやしきにおいて養っておく風があった。その食客三人は、日頃ふかく、許貢の恩を感じていたので、
「何とかして、恩人の讐をとらねばならぬ」
と、ともに血をすすりあい、山野にかくれて、機をうかがっていた。
孫策はよく狩猟にゆく。
淮南の袁術に身を寄せていた少年時代から、狩猟は彼の好きなものの一つだった。
その日も――
彼は、大勢の臣をつれて、丹徒という部落の西から深山にはいって、鹿、猪などを、おっていた。
するとここに、
「今だぞ、復讐は」
「加護あれ。神仏」
と、かねて彼を狙っていた例の食客浪人は、箭に毒をぬり、槍の穂を石でみがいて、孫策の通りそうな藪かげにかくれ、一心天を念じていたのであった。
二
孫策の馬は、稀世の名馬で「五花馬」という名があった。多くの家臣をすてて、彼方此方、平地を飛ぶように馳駆していた。
彼の弓は、一頭の鹿を見事に射とめた。
「射たぞ、誰か、獲物を拾え」
振向いた時である。孫策の顔へ、ひゅっと、一本の箭が立った。
「あっ」
顔を抑えると、藪のかげから躍りだした浪人三名が、
「恩人許貢の仇、思い知ったか」と、槍をつけてきた。
孫策は、弓をあげて、一名の浪人者を打った。しかし、また一方から突いてきた槍に太股をふかく突かれた。五花馬の背からころげ落ちながらも、孫策はあいての槍を奪っていた。その槍で自分を突いた相手を即座に殺したが、同時に、
「うぬっ」と、うしろから、二名の浪人もまた所きらわず、彼の五体を突いていた。
うう――むッと、大きなうめきを発して、孫策が仆れたとき、残る二名の浪人もまた、急を見て馳けつけてきた呉将程普のために、ずたずたに斬り殺されていた。その附近は、おびただしい血しおで足の踏み場もないほどだった。
何にしても、国中の大変とはなった。応急の手当を施して、すぐ孫策の身は、呉会の本城へ運び、ふかく外部へ秘した。
「華陀を呼べ。華陀がくればこんな瘡はなおる」
うわ言のように、当人はいいつづけていた。さすがに気丈であった。それにまだ肉体が若い。
いわれるまでもなく、名医華陀のところへは、早馬がとんでいた。すぐ呉会の城へのぼった。けれど華陀は眉をひそめた。
「いかんせん、鏃にも槍にも、毒が塗ってあったようです。毒が骨髄にしみとおっていなければよろしいが……?」
三日ばかりは、昏々とただうめいている孫策であった。
けれども二十日も経つと、さすがに名医華陀の手をつくした医療の効はあらわれてきた。孫策は時折、うすら笑みすら枕頭の人々に見せた。
「都に在任していた蒋林が帰りましたが、お会いなされますか」
すっかり容体が快いので、侍臣がいうと、孫策はぜひ会って、都の情勢を聞きたいという。
蒋林は病牀の下に拝跪して、何くれとなく報告した。
すると孫策が、
「曹操は近ごろおれのことをどういっているか」と、訊ねた。蒋林は、
「獅子の児と喧嘩はできぬといっているそうです」と、噂のまま話した。
「そうか。あははは」
めずらしく、孫策は声をだして笑った。非常なご機嫌だと思ったので、蒋林は訊かれもしないのに、なおしゃべっていた。
「――しかし、百万の強兵があろうと、彼はまだ若い。若年の成功は得て思い上がりやすく、図に乗ってかならず蹉跌する。いまに何か内争を招き、名もない匹夫の手にかかって非業な終りを遂げるやも知れん。……などと曹操は、そんなこともいっていたと、朝廷の者から聞きましたが」
見る見るうちに孫策の血色は濁ってきた。身を起して北方をはったと睨み、やおら病牀をおりかけた。人々が驚いて止めると、
「曹操何ものぞ。瘡の癒えるのを待ってはいられない。すぐわしの戦袍や盔をこれへ持て、陣触れをせいっ」
すると張昭が来て、
「何たることです。それしきの噂に激情をうごかして、千金の御身を軽んじ給うなどということがありますか」と、叱るが如くなだめた。
ところへ、遠く河北の地から、袁紹の書を持って、陳震が使いに来た。
三
ほかならぬ袁紹の使いと聞いて、孫策は病中の身を押して対面した。
使者の陳震は、袁紹の書を呈してからさらに口上をもって、
「いま曹操の実力と拮抗し得る国はわが河北か貴国の呉しかありません。その両家がまた相結んで南北から呼応し、彼の腹背を攻めれば、曹操がいかに中原に覇を負うとも、破るるは必定でありましょう」と、軍事同盟の緊要を力説し、天下を二分して、長く両家の繁栄と泰平を計るべき絶好な時機は今であるといった。
孫策は大いに歓んだ。彼も打倒曹操の念に燃えていたところである。
これこそ天の引き合わせであろうと、城楼に大宴をひらいて陳震を上座に迎え、呉の諸大将も参列して、旺なもてなし振りを示していた。
すると、宴も半ばのうちに、諸将は急に席を立って、ざわざわとみな楼台からおりて行った。孫策はあやしんで、何故にみな楼をおりてゆくかと左右に訊ねると、近侍の一名が、
「于吉仙人が来給うたので、そのお姿を拝さんと、いずれも争って街頭へ出て行かれたのでしょう」
と、答えた。
孫策は眉毛をピリとうごかした。歩を移して楼台の欄干により城内の街を見下ろしていた。
街上は人で埋まっていた。見ればそこの辻を曲っていま真っすぐに来る一道人がある。髪も髯も真っ白なのに、面は桃花のごとく、飛雲鶴翔の衣をまとい、手には藜の杖をもって、飄々と歩むところ自から微風が流れる。
「于吉さまじゃ」
「道士様のお通りじゃ」
道をひらいて、人々は伏し拝んだ。香を焚いて、土下座する群衆の中には、百姓町人の男女老幼ばかりでなく、今あわてて宴を立って行った大将のすがたも交じっていた。
「なんだ、あのうす汚い老爺は!」
孫策は不快ないろを満面にみなぎらして、人をまどわす妖邪の道士、すぐ搦め捕ってこいと、甚だしい怒りようで、武士たちに下知した。
ところが、その武士たちまで、口を揃えて彼を諫めた。
「かの道士は、東国に住んでいますが、時々、この地方に参っては、城外の道院にこもり、夜は暁にいたるまで端坐してうごかず、昼は香を焚いて、道を講じ、符水を施して、諸人の万病を救い、その霊顕によって癒らない者はありません。そのため、道士にたいする信仰はたいへんなもので、生ける神仙とみな崇めていますから、めったに召捕ったりしたら、諸民は号泣して国主をお怨みしないとも限りませぬ」
「ばかを申せっ。貴様たちまで、あんな乞食老爺にたばかられているのかっ。否やを申すと、汝らから先に獄へ下すぞ」
孫策の大喝にあって、彼らはやむなく、道士を縛って、楼台へ引っ立ててきた。
「狂夫っ、なぜ、わが良民を、邪道にまどわすかっ」
孫策が、叱っていうと、于吉は水のごとく冷やかに、
「わしの得たる神書と、わしの修めたる行徳をもって、世人に幸福をわかち施すのが、なぜ悪いか、いけないのか、国主はよろしく、わしにたいして礼をこそいうべきであろう」
「だまれっ。この孫策をも愚夫あつかいにするか。誰ぞ、この老爺の首を刎ねて、諸民の妖夢を醒ましてやれ」
だが、誰あって、進んで彼の首に剣を加えようとする者はなかった。
張昭は、孫策をいさめて、何十年来、なに一つ過ちをしていないこの道士を斬れば、かならず民望を失うであろうといったが、
「なんの、こんな老いぼれ一匹、犬を斬るも同じことだ。いずれ孫策が成敗する。きょうは首枷をかけて獄に下しておけ」と、ゆるす気色もなかった。
四
孫策の母は、愁い顔をもって、嫁の呉夫人を訪れていた。
「そなたも聞いたでしょう。策が于道士を捕えて獄に下したということを」
「ええ、ゆうべ知りました」
「良人に非行あれば、諫めるのも妻のつとめ。そなたも共に意見してたもれ。この母もいおうが、妻のそなたからも口添えして下され」
呉夫人も悲しみに沈んでいたところである。母堂を始め、夫人に仕える女官、侍女など、ほとんど皆、于吉仙人の信者だった。
呉夫人はさっそく良人の孫策を迎えに行った。孫策はすぐ来たが、母の顔を見ると、すぐ用向きを察して先手を打って云った。
「きょうは妖人を獄からひき出して、断乎、斬罪に処するつもりです。まさか母上までが、あの妖道士に惑わされておいでになりはしますまいね」
「策、そなたは、ほんとに道士を斬るつもりですか」
「妖人の横行は国のみだれです。妖言妖祭、民を腐らす毒です」
「道士は国の福神です、病を癒すこと神のごとく、人の禍いを予言して誤ったことはありません」
「母上もまた彼の詐術にかかりましたか、いよいよ以って許せません」
彼の妻も、母とともに、口を極めて、于吉仙人の命乞いをしたが、果ては、
「女童の知るところでない」と、孫策は袖を払って、後閣から立ち去ってしまった。
一匹の毒蛾は、数千の卵を生みちらす。数千の卵は、また数十万の蛾と化して、民家の灯、王城の燭、後閣の鏡裡、ところ、きらわず妖舞して、限りもなく害をなそう。孫策はそう信じて、母のことばも妻のいさめも耳に入れなかった。
「典獄。于吉をひき出せ」
主君の命令に、典獄頭は、顔色を変えたが、やがて獄中からひき出した道士を見ると、首枷がかけてない。
「だれが首枷をはずしたか」
孫策の詰問に典獄はふるえあがった。彼もまた信者だったのである。いや、典獄ばかりでなく、牢役人の大半も実は道士に帰依しているので、いたくその祟りを恐れ、縄尻を持つのも厭う風であった。
「国の刑罰をとり行う役人たるものが、邪宗を奉じて司法の任にためらうなど言語道断だ」
孫策は怒って剣を払い、たちどころに典獄の首を刎ねてしまった。また于吉仙人を信ずるもの数十名の刑吏を武士に命じてことごとく斬刑に処した。
ところへ張昭以下、数十人の重臣大将が、連名の嘆願書をたずさえて、一同、于吉仙人の命乞いにきた。孫策は、典獄の首を刎ねて、まだ鞘にも納めない剣をさげたまま嘲笑って、
「貴様たちは、史書を読んで、史を生かすことを知らんな。むかし南陽の張津は、交州の太守となりながら、漢朝の法度を用いず、聖訓をみな捨ててしまった。そして、常に赤き頭巾を着、琴を弾じ、香を焚き、邪道の書を読んで、軍に出れば不思議の妙術をあらわすなどと、一時は人に稀代な道士などといわれたものだが、たちまち南方の夷族に敗られて幻妙の術もなく殺されてしまったではないか。要するに、于吉もこの類だ、まだ害毒の国全体に及ばぬうちに殺さねばならん。――汝ら、無益な紙筆をついやすな」
頑として、孫策はきかない。すると、呂範がこうすすめた。
「こうなされては如何です。彼が真の神仙か、妖邪の徒か、試みに雨を祈らせてごらんなさい。幸いにいま百姓たちは、長い旱に困りぬいて、田も畑も亀裂している折ですから、于吉に雨乞いのいのりを修させ、もし験しあれば助け、効のないときは、群民の中で首を刎ね、よろしく見せしめをお示しになる。その上のご処分なら、万民もみな得心するでしょう」
五
「よかろう」
孫策は快然と笑って即座に吏に命じた。
「さっそく、市中に雨乞いの祭壇をつくれ、彼奴が化けの皮を脱ぐのを見てやろう」
市街の広場に壇が築かれた。四方に柱を立て彩華をめぐらし、牛馬を屠って雨龍や天神を祭り、于吉は沐浴して壇に坐った。
麻衣を着がえるとき、于吉はそっと、自分を信じている吏にささやいた。
「わしの天命も尽きたらしい。こんどはもういけない」
「なぜですか、霊験をお示しあればいいでしょう」
「平地に三尺の水を呼んで百姓を救うことはできても、自分の命数だけはどうにもならんよ」
壇の下へ、孫策の使いがきて、高らかに云いわたした。
「もし、今日から三日目の午の刻までに、雨が降らないときは、この祭壇とともに、生きながら焼き殺せとの厳命であるぞ。よいか、きっと心得ておけよ」
于吉はもう瞑目していた。
白髪のうえからかんかん日があたる。夜半は冷気肌を刺す。祭壇の大香炉は、縷々として香煙を絶たず、三日目の朝となった。
一滴の雨もふらない。
きょうも満天は焦げて、烈々たる太陽だけがあった。ただ地上には聞き伝えて集まった数万の群集が、それこそ雲のごとくひしめいていた。
すでに午の刻となった。陽時計を睨んでいた吏は、鐘台へかけあがって、時刻の鐘を打った。数万の百姓は、それを聞くと、大声をあげて哭いた。
「見ろ! およそ道士だの神仙だのというやつは、たいがいかくの如きものだ。ただちにあの無能な老爺を焚殺せ」と、孫策が城楼から下知した。
刑吏は、祭壇の四方に、薪や柴を山と積んだ。たちまち烈風が起って、于吉のすがたを焔の中につつんだ。
火は風をよび、風はまた砂塵を呼んで、一すじの黒気が濃い墨のように空中へ飛揚して行った。――と見るまに、天の一角にあたって、霹靂が鳴り、電光がはためき、ぽつ、ぽつ、と痛いような大粒の雨かと思ううち、それも一瞬で、やがて盆をくつがえすような大雷雨とはなってきた。
未の刻まで降り通した。市街は河となって濁流に馬も人も石も浮くばかりだった。それ以上降ったら万戸洪水にひたされそうに見えたが、やがて祭壇の上から誰やらの大喝が一声空をつんざいたかと思うと、雨ははたとやみ、ふたたび耿々たる日輪が大空にすがたを見せた。
刑吏が驚いて、半焼の祭壇のうえを見ると、于吉は仰向けに寝ていた。
「ああ、真に神仙だ」
と、諸大将は駈け寄って、彼を抱きおろし、われがちに礼拝讃嘆してやまなかった。
孫策は轎に乗って、城門から出てきた。さだめし赦免されるであろうとみな思っていたところ彼の不機嫌は前にも増して険悪であった。武将も役人もことごとく衣服の濡れるもいとわず于吉のまわりに拝跪したざまが、彼の眼には見るに耐えなかった。
「大雨を降らすも、炎日のつづくも、すべて自然の現象で、人間業で左右されるものではない。汝ら諸民の上に立つ武将たり市尹たりしながら、なんたる醜状か。妖人に組して、国をみだすも、謀叛してわれに弓をひくも、同罪であるぞ。斬れッ、その老爺を!」
諸臣、黙然と首をたれているばかりで、誰も、于吉を怖れて進み出る者もなかった。
孫策はいよいよ憤って、
「なにを臆すかッ、よしっ、このうえは自ら成敗してくれん。見よわが宝剣の威を」
と、戛然、抜き払った一閃の下に、于吉の首を刎ねてしまった。
日輪は赫々と空にありながら、また沛然と雨が降りだした。怪しんで人々が天を仰ぐと、一朶の黒雲のなかに、于吉の影が寝ているように見えた。
孫策はその夕方頃から、どうもすこし容子が変であった。眼は赤く血ばしり、発熱気味に見うけられた。