小覇王
一
曠の陣頭で、晴々と、太史慈に笑いかえされたので、年少な孫策は、
「よしッ今日こそ、きのうの勝負をつけてみせる」と、馬を躍らしかけた。
「待ちたまえ」と、腹心の程普は、あわてて彼の馬前に立ちふさがりながら、
「口賢い敵の舌先に釣りこまれたりなどして、軽々しく打って出てはいけません。あなたの使命はもっと大きい筈でしょう」と、押し戻した。
そしてはやりたつ孫策の馬の轡を、ほかの将に預けて、程普は、自分で太史慈に向って行った。
太史慈は、彼を見ると、相手にもせず云い放った。
「東莱の太史慈は、君の如き小輩を斬る太刀は持たない。わが馬に踏みつぶされぬうちに、疾く逃げ帰って、孫策をこれへ出すがいい」
「やあ、大言なり、青二才」
程普は怒って、まっしぐらに打ってかかった。
すると、戦がまだ酣ともならないうちに、劉繇はにわかに陣鼓を打ち、引鐘を鳴らして退却を命じた。
「何が起ったのか」と、太史慈も戟をおさめて、急に引退いたが、不平でならなかった。
で、劉繇の顔を見ると、「惜しいことをしました。きょうこそ孫策を誘き寄せてと計っていたのに。――一体、なにが起ったのですか」と、詰らずにいられなかった。
劉繇は、苦々しげに、
「それどころではない。本城を攻め取られてしまったわ。――貴様たちが前の敵にばかり気をとられておるからだ」と、声をふるわせて云った。
「えっ、本城が?」
太史慈も、おどろいた。
――聞けば、いつのまにやら、敵は一部の兵力を分けて、曲阿へ向け、曲阿方面から劉繇の本城――霊陵城のうしろを衝いていた。
その上に。
ここにまた、盧江松滋(安徽省・安慶)の人で、陳武、字を子烈というものがある。陳武と周瑜とは同郷なので、かねて通じていたものか、
(時こそ来れ!)とばかりに江を渡って、孫軍と合流し、共に劉繇の留守城を攻めたので、たちまちそこは陥落してしまったのであった。
何にしても、かんじんな根拠地を失ったのであるから、劉繇の狼狽も無理ではない。
「この上は、秣陵(江蘇省・南京の南方鳳凰山)まで引上げ、総軍一手となって防ぐしかあるまい」と、全軍一夜に野を払って、秋風の如く奔り去った。
ところが、奔り疲れて、その夜、露営しているとまた、孫策の兵が、にわかに夜討ちをかけてきて、さらぬだに四分五裂の残兵を、ここでも散々に打ちのめした。
敗走兵の一部は、薛礼城へ逃げこんだ。そこを囲んでいるまに、敵将劉繇が、小癪にも味方の牛渚の手薄を知って攻めてきたと聞いたので、
「よしッ、袋の鼠だ」と、孫策は、直ちに、駒をかえして、彼の側面を衝いた。
すると、敵の猛将干糜が、捨て鉢にかかって来た。孫策は、干糜を手捕りにして、鞍のわきに引っ抱えて悠々と引上げてきた。
それを見て、劉繇の旗下、樊能という豪傑が、
「孫策、待てッ」と、馬で追って来た。
孫策は、振向きざま、
「これが欲しいか!」と、抱えていた干糜の体を、ぎゅッと締めつけると、干糜の眼は飛び出してしまった。そしてその死体を、樊能へ投げつけたので、樊能は馬からころげ落ちた。
「仲よく、冥途へ行け」
と、孫策は、馬上から槍をのばして、樊能を突き殺し、干糜の胸板にも止めを与えて、さッさと味方の陣地へ入ってしまった。
二
最後の一策として試みた奇襲も惨敗に帰したばかりか、たのみとしていた干糜、樊能の二将まで目のまえで孫策のために殺されてしまったので、劉繇は、
「もう駄目だ」と、力を落して、わずかな残兵と共に、荊州へ落ちて行った。
荊州(湖北省・江陵・揚子江流域)には一方の雄たる劉表がなお健在である。
劉繇は始め、秣陵へ退いて、陣容をたて直すつもりだったが、敗戦の上にまた敗北を重ねてしまい、全軍まったく支離滅裂となって、彼自身からして抗戦の気力を失ってしまったので、
「この上は、劉表へすがろう」とばかり、命からがら逃げ落ちてしまったのである。
ここかしこの荒野に捨て去られた屍は一万の余を超えていた。
「劉繇、たのむに足らず」
と見かぎって、孫策の陣門へ降参してゆく兵も一群れまた一群れと、数知れなかった。
しかし、さすが大藩の劉繇の部下のうちには、なお降服を潔しとしないで、秣陵城をさして落ち合い、そこで、
「華々しく一戦せん」と、玉砕を誓った残党たちもあった。
張英、陳横などの輩である。
沿岸の敗残兵を掃蕩しながら、やがて孫策は秣陵まで迫って行った。
張英は、城中の矢倉から敵の模様をながめていたが、近々と濠ぎわまで寄せてきた敵勢の中に、ひときわ目立つ若い将軍が指揮している雄姿を見つけて、
「あっ、孫策だ」と、あわただしく弓をとって引きしぼった。
狙いたがわず、矢は、若い将軍の左の腿にあたり、馬よりどうと転げ落ちた。――あッと、辺りの兵は驚きさわいで、将軍のまわりへ馳け寄って行く――。
それこそ、孫策であった。
孫策は、起たなかった。
大勢の兵は、彼の体をかつぎ上げて、味方の中へ隠れこんだ。
その夜。
寄手は急に五里ほど陣をひいてしまった。陣中は寂として、墨の如く夜霧が降りていた。そして、随処に弔旗が垂れていた。
「急所の矢創が重らせたもうて、孫将軍には、あえなく息を引取られた」と、士卒の端まで哭き悲しんでいた。まだ、喪はふかく秘せられているが、不日、柩を奉じて引揚げるか、埋葬の地をさだめて、戦場の丘に仮の葬儀が営まれるであろうと、ささやき合ったりしていた。
城中から捜りに出ていた細作は、さっそく、立帰って、
「孫策は死にました」と、張英に知らせた。
張英は膝を打って、
「そうだろう! おれの矢にあたって、助かった者はない」と、衆に誇った。
しかし、なお念のためにと、陳横の手から、再度、物見を放って見ると、その朝、附近の部落民が、怖ろしくがんじょうな柩を、大勢して重そうに陣門へ担いこんでゆくのを見た。
「間違いはありません。孫策はたしかに落命しました。そして葬儀も近いうち仮に営むらしく、そっと支度しています」
物見の者は、一点の疑いも挟まず、ありのまま復命した。
張英、陳横は、顔見合わせて、
「うまく行ったな」
ニタリと笑いあった。
三
星の静かな夜であった。
一軍の兵馬が、ひっそりと、水の流れるように、野を縫ってゆく。
哀々たる銅角を吹き、羯鼓を打ち鳴らし、鉦板をたたいて行く――葬送の音楽が悲しげに闇を流れた。兵馬みな黙し、野面を蕭々と風も哭く。
一かたまりの松明のひかりの中に新しい柩が守られていた。
ひらめく五色の弔旗も、みな黒く見えた。――柩の前後に従いてゆく諸将も、
「――ああ」
と、時折、空を仰いだ。
これなん死せし孫策の遺骸をひそかに葬るものであると見て、その日、早くも探り知った張英、陳横の二将は、突如のろしを打ちあげて、この葬列を不意討ちした。
それまで――
草かと見えたものも、石か木かと見えたものもすべて喊の声をあわせて襲ってきた。
すでに、大きな支柱を亡った孫軍は、いかに狼狽するかと思いのほか、
「来たぞ」
葬列は、たちまち、五行にわかれて整然たる陣容をつくり、
「張英、陳横を逃がすな」
という号令の声が高く聞えた。
張英は驚いて、
「あッ、敵には備えがあったらしいぞ、立騒がぬところを見ると、何か、計があるやも知れぬ」
味方の軽はずみを戒めて戦っていたが、もとより秣陵の城内をほとんど空にして出て来た小勢である。たちまち、撃退されて、
「もどれもどれ。城中へひきあげろ」と、争って引っ返した。
すると途中の林の中から、
「孫策これにあり! 秣陵の城はすでに、わが部隊の手に落ちているのに、汝らは、どこへ帰る気かッ」と、呼ばわりながら、騎馬武者ばかりおよそ四、五人、真っ黒に馳けだして来て、張英の行く手をふさいだ。
張英は、わが耳を疑いながら、たかの知れた敵蹴ちらして通れ――と下知しながら、はや血戦となった中を馳けていたが、そのうちに、
「張英とは、汝かっ」
と、正面へ躍ってきた一騎の若武者がある。
見れば、過ぐる日、自分が城の矢倉から狙い撃ちして、見事、射止めたと信じていた孫策であったので、
「やっ、死んだとは、偽りであったか」
仰天して逃げかけると、
「浅慮者ッ」と、大喝して、孫策の馬は後ろから彼の馬の尻へ重なった。
とたんに張英の胴は、黒血三丈を噴いて、首はどこかに飛んでいた。
陳横も、討たれた。
もとより孫策は、深く計っていたことなので、そのまま、秣陵の城へ進むと、先に城中に押入っていた味方が、門を開いて、彼を迎え入れた。
一同、勝鬨の声をあわせて、万歳を三唱した頃、長江の水は白々と明け放れ、鳳凰山、紫金山の嶺々に朝陽は映えていた。
孫策は、即日、法令を布いて、人民を安んじ、秣陵には、味方の一部をのこして、直ちに、涇県(安徽省・蕪湖の南方)へ攻め入った。
この頃から、彼の勇名は、一時に高くなって、彼を呼ぶに、人々はみな、
江東の孫郎、
と、称えたり、また、
小覇王、
と唱えて敬い畏れた。