不倶戴天

 このとき丞相府には、荊州方面から重大な情報が入っていた。
荊州の玄徳は、いよいよ蜀に攻め入りそうです。目下、彼の地では活溌な準備が公然と行われている」
 曹操はかく聞いて胸をいためた。もし玄徳が蜀に入ったら、淵の龍が雲を獲、江岸の魚が蒼海へ出たようなものである。ふたたび彼を一僻地へ屈伏せしめることはもうできない。魏にとって重大な強国が新たに出現することになろう。彼は数日、庁の奥にとじ籠って対策をねっていた。
 ここに丞相府の治書侍御史参軍事で陳群、字を文長というものがあった。彼が曹操に向っていうには、
「玄徳と呉の孫権とは今、心から親睦でないにせよ、形は唇と歯のような関係に結ばれています。ですから、玄徳が蜀へ進んだら、丞相は大軍をもって、反対に呉をお攻めになるがよいでしょう。なぜならば、呉はたちまち玄徳へ向って、協力を求め、援けを強いるにちがいありません」
「ふむ。さすれば玄徳は、進むに進み得ず、退くに退き得ず、両難に陥るというわけか。――いやそうは参るまい。彼にも孔明がついている。軽々しく呉の求めにうごいたり、軍の方向に迷うようなことはせぬ」
「それこそ、わが魏にとって望むところではありませんか。もし玄徳の援助なく、玄徳は入蜀のことに没頭して、呉を顧みるに暇なければ、ここ絶好な機会です。さらに大軍を増派し、一挙に呉国をお手に入れてしまわれては如何です。玄徳なく、ただ魏と呉との対戦なら、ご勝利は歴々です」
「げにも。げにも」
 曹操は、眉をひらいた。
「余りむずかしくばかり考えこむものじゃないな。わしはちと重大と思い過ぎて思案が過っておったよ。人間日々大小万事、ここにいつも打開があるな」
 即時、三十万の大軍は、南へうごいた。檄は飛んで、合淝城にある張遼に告げ、
 ――汝、先鋒となって、呉を突くべし。
 とあった。
 大軍まだそこへ到らぬうち、呉の国界は大きな衝動に打たれ、急はすぐさま呉王孫権に報じられる。
 孫権は、急遽、諸員を評定に召集して、それに応ずべき策を諮った。その結果、
「こういう時こそ、玄徳との好誼を活かし、お使いを派して、彼の協力をお求め遊ばすのがしかるべきでしょう」と、決った。
 すなわち魯粛の書簡を持って、使いは荊州へ急いでゆく。
 玄徳はそれを披見して、ひとまず使者を客館にもてなしておき、その間に、孔明が帰るのを待っていた。
 南郡地方にいた孔明は、召しをうけるや馬を飛ばして帰ってきた。そして、玄徳から、仔細を聞き、また魯粛の書簡を見ると、
「ご返辞は」と、玄徳の面をうかがった。
「まだ答えてない。御身に諮った上で、承諾とも拒絶するとも答えようと思って」
「では、この返書は、わたくしにお任せおき下さいますか」
 玄徳はうなずいた。
「よきように」と。
 孔明は一書をしたためた。それには、呉へ向ってこう告げてある。

乞う、安んじられよ。呉国の人々は枕を高うして可なり。もし魏軍三十万の来るあらば、孔明これにあり。直ちに彼を撃攘せん。

 呉の使いは、書面を持って帰って行った。しかし玄徳は安からぬここちがした。
「軍師。あのような大言を申しやってよろしいのか」
「大丈夫です」
許都の魏兵三十万のみでなく、合淝の張遼も合して来るだろう」
「大丈夫です」
「どういう自信があって?」
西涼馬騰が、つい先頃、都で殺されたそうです。その子二人も禍いに遭ったようですが、本国には馬氏の嫡男馬超が残っていた筈です。この人へわが君から密使をおやりなさい。いま馬超を語らうことは至極たやすく、しかも馬超ひとりを動かせば、曹操以下三十万の精兵も魏一国に金縛りにしてしまうことができましょう」

 西涼州馬超は、ある夜、ふしぎな夢をみた。
「吉夢だろうか。凶夢だろうか」
 あくる日、八旗の将に、この夢のことをはなした。
 八旗の将とは、彼をめぐる八人の優れた旗本組のことである。
 それは、
 侯選。程銀。李湛。張横。梁興。成宜。馬玩。楊秋。
 などの面々だった。
「さあ。わからんなあ。吉夢やら凶夢やら」
 みな武弁ばかりなので、彼の夢に判断を下し得る者もなかった。
 馬超のみた夢というのは、千丈もある雪の中に行き暮れて仆れているところへ、多くの猛虎が襲いかかって来て危うく咬みつかれようとしたところで眼がさめたというのである。いい夢らしくもあり、悪夢らしくも考えられた。――するとこの座へ突然、
「いや、それは大悪夢だ」
 と云いながら帳を排して入ってきた一人物がある。南安※道の人で姓名を龐徳、字は令明というものであった。
「むかしから雪中に虎に遭うの夢は不祥の兆としてある。もしや上洛中の大殿騰将軍の君に、何か凶事でも起ったのではなかろうか」
 龐徳のことばに、馬騰の嫡男たる馬超は、当然、面を曇らせた。
 いや馬超ばかりでなく、この西涼に留守して、遠くにある主君の身を明け暮れ案じている八旗の将もみな浮かない顔をしてしまった。
「しかし、逆夢ということもあれば、若大将には、一途にご心配なさらぬがようござる。なんの、夢などあてになるものですか」
 わざと酒宴をすすめて、馬超の心をまぎらわせていた。
 けれど、この夢は、やはり正夢であった。――その夜のこと、見る影もない姿となって、許都から逃げ落ちてきた従兄弟の馬岱が、
「叔父の将軍には、曹操の兇刃に害され給い、お子達二人も、ほかご一族、家中の者、老幼のはしにいたるまで八百余人、残らず一つ邸のうちにあって火をかけられ、あらかたは殺され、或いは首斬られ、目もあてられぬ災難でした。それがしはいち早く墻を跳びこえ、この通り身を乞にやつしてこれまで逃げのびて来た次第。……語るも無念でたまりません」と、涙ながら報じた。
「えっ、父上が殺されたと」
 馬超は、愕然とさけんだ。そして蒼白な顔を、うむと呻いて仰向けたと思うと、うしろへ仆れて昏絶してしまった。
 もちろん典医や大勢の介抱ですぐ意識はよみがえったが、終夜、寝房のうちから無念そうな泣き声が洩れてきた。
 こういう中に玄徳の書簡ははるばると荊州から来た密使によって、馬超の手に渡されたのである。その文章はおそらく孔明が起草したのであろう。まず漢室の式微をいい、馬騰の非業の死を切々と弔い、曹操の悪逆や罪状を説くにきわめて峻烈な筆鋒をもってこれを糺し、そして馬超が嘆きをなぐさめかつ激励して、

――貴君にとっては倶に天を戴かざる父の仇敵、四民にとっては悪政専横の賊、漢朝にとっては国を紊し帝威を冒す姦党、それを討たずして武門の大義名分があろうか。ねがわくは君、涼州より攻め上れ、劉玄徳また北上せん。

 と、結んであった。
 次の日である。
 父馬騰と親友だった鎮西将軍韓遂からそっと迎えがきた。行ってみると、人払いした閑室へ馬超を通して、
「実は、こんな書面が曹操からきているよ」
 と、それを見せてくれた。
 もし馬超を生捕って檻送してよこせば、汝を封じて、西涼侯にしてやろう、という意味のものだった。
 馬超は自ら剣を解いて、
「あなたの手にかかるものなら仕方がない。いざ、都へ差立てて下さい」
 と、神妙にいった。
 韓遂は、叱って、
「それくらいなら何もわざわざここへ御身を呼びはしない。もし御身に、父の讐たる曹操を討つ気があるなら、義によって、わしも一臂の力を添えたいと思ったからだ。いったい御身の覚悟はどうなのだ」と、かえって、馬超の本心を詰問した。

 馬超はふかく礼をのべて、
「そのご返辞は、後ほど邸から致します」といって帰った。
 彼は直ぐ曹操の使者を斬ってしまい、その首を、韓遂のところへ届けた。
「それでこそ、君は馬騰の子だ。君がその決心ならば」
 と、韓遂は即日やって来て、馬超軍に身を投じた。
 西涼の精猛数万、殺到して、ここに、潼関陝西省)へ攻めかかる。
 長安陝西省・西安)の守将鍾繇は、驚死せんばかりに仰天して、曹操のほうへ、早馬をもって、急を告げる一方、防ぎにかかったが、西涼軍の先鋒馬岱に蹴ちらされて、早くも、長安城へ逃げ籠る。
 長安は、いま廃府となっていたが、むかし漢の皇祖が業を定めた王城の地。さすがに、要害と地の利は得ている。
「この土地の長く栄えない原因は、二つの欠点があるからです。土質粗く硬く、水はしおからくて飲むにたえません。もう一つの欠所は山野木に乏しく、常に燃料不足なことです。……ですからこういう謀計を用いれば、難なく陥るにちがいありません」
 龐徳の言であった。
 そのことばを容れたものか、馬超は急に包囲をといて、数十里、陣を退いた。
 守将の鍾繇は、
「寄手が囲みを解いたからといって、みだりに城外へ出てはならん。敵にどんな計があろうも知れない」と、軍民を戒めていた。
 しかし三日たち四日経つうちに、無事に馴れて、一つの城門が開くと、西も東も、各所の門で、城外との往来が始まった。
 みな水を汲みに行き、薪を採りに行く。その他の糧なども、この間にと、争って運び入れた。
「何事もありませんね」
「敵はあんな遠くですからな」
「さよう。もしもの時は、敵を見てから城内へ逃げこんでも、結構、間に合いますよ」
 うららかなものだった。
 果ては、旅芸人や雑多な商人まで、自由に出入りし始めた。
 ところへ急に、西涼軍がまた攻めてきた。軍民は夕立に出会ったように城内へかくれこむ。馬超は、西門の下まで、馬を寄せて、
「ここを開けなければ、城内の士卒人民、ことごとく焼き殺すぞ」と罵った。
 鍾繇の弟、鍾進がここを守っていたが、からからと笑って、
馬超。口先で城は陥るものじゃないよ」
 と、矢倉から嘲った。
 すると、日没頃、城西の山から怪しい火が燃えだした。鍾進が先に立って消火に努めていると、夕闇の一角から、
西涼龐徳、すでに数日前より、城内に在って、今宵を待てり」
 という大音が聞え、敵やら味方やら知れない混雑の中に、鍾進は一刀両断に斬りすてられた。
 早くも、龐徳の部下は、西門を内から開いて、味方を招き入れた。馬超韓遂の大軍はいちどに流れこみ、夜のうちに長安全城を占領してしまった。
 鍾繇は、東門から逃げ出し、次の潼関に拠って、急を早馬に託し、
「至急、大軍のご来援なくば、長くは支えきれない」
 と、許都へ向って悲鳴をあげた。
 曹操の驚愕は、いうまでもない。――急に、方針を変えて、
「ひとまず、征呉南伐の出兵は見合わせる」
 と、参謀府から宣言を発し、また直ちに、曹洪徐晃を招いて、
「すぐ潼関へ行け」と、兵一万をさずけた。
 曹仁がそのとき、
曹洪徐晃も、若過ぎますから、血気の功に焦心って、大局を過るおそれはありませんか」
 と、注意した。そして自分も彼らとともに先駆けせんと願ったが、
「そちは、予に従って、兵糧運輸のほうを司れ」
 と、ほかの役目を命じられてしまった。
 曹操は約十日の後、充分な軍備をととのえて出発した。彼も西涼の兵には、よほど大事を取っていることがこれを見ても分る。

 潼関に着いた曹洪徐晃は、一万の新手をもって鍾繇に代り、堅く守って、
「われわれが参ったからには、これから先、尺地も敵に踏みこませることではない」
 と、曹操の来着を待っていた。
 西涼の軍勢は、力攻めをやめてしまった。毎日、壕の彼方に立ち現れて、大あくびをしてみせる。手洟をかむ。尻を叩く、大声たてて悪たれをいう。
 挙句の果てには、草の上に寝ころんだり、頬杖ついて、

敵はどこかね
潼関関中だそうだ
櫓にいたのは鴉じゃないのか
なあに曹洪徐晃
そんなら大して変りはない
腰抜け対手の戦争は退屈だ
いまに曹操が来るだろう
昼寝でもして待つとするか
乞う戦友、耳くそでも取ってくれ

 などと悪罵にふしをつけて唄っている。
「待っていろ。目にもの見せてやるから」
 歯がみをした曹洪が、城門から押し出そうとするのを見て、徐晃がいさめた。
「丞相のおことばを忘れたか。十日の間は固く守れ。手だしはすなと仰せられた」
 しかし、若い曹洪は振り切って、駈け出した。
 関中の大軍は、いちどに溢れでて、鬱憤をはらした。あわてふためく西涼軍を追いまくって、
「思い知ったか」と、四角八面に分れ討った。
 徐晃の手勢も、ぜひなく後から続いて出たが、
「長追いすな、長追いすな」と、大声で止めてばかりいた。
 すると、長い堤の蔭から、突忽として鼓の声、銅鑼のひびき、天地を震わせ、
西涼馬岱これにあり」と、一彪の軍馬が衝いてくる。
 いささかたじろいで、陣容をかため直そうとする間もなく、
「たいへんだ、敵の龐徳が、退路を断った」と、いう伝令。
「まずい! 引揚げろ」
 踵をめぐらしたときは機すでに遅しである。どう迂回して出たか、西涼馬超韓遂が関門を攻めたてている。いや徐晃曹洪が出払ったあとなので、守りは手薄だし、油断のあったところだし、精悍西涼兵は、芋虫のように、ぞろぞろ城壁へよじ登っているではないか。
 留守の鍾繇はもう逃げ出している始末、罵り合ってみたものの追いつかない。曹洪徐晃も支え得ず、関の守りを捨てて走った。
 馬超龐徳韓遂馬岱、万余の大軍は関中を突破すると、潼関の占領などは目もくれず、ひたすら潰走する敵を急追して、「殲滅を加えん」と、夜も日も、息をつかせず、後から追った。
 曹洪徐晃も、途中多くの味方を失い、わずかに身ひとつのがれ得た有様である。――が、許都へさして落ちる途中まで来ると、許都を立ってきた本軍曹操の先鋒に出会い、からくもその中に助けられた。
 曹操は、聞くと、
「すぐ連れて来い」と、中軍へ二人を呼び、そして軍法にかけて、敗戦の原因を糾問した。
「十日の間は、かならず守備して、うかつに戦うなと命じておいたに、なぜ軽忽な動きをして、敵に乗ぜられたか。曹洪は若手だからぜひもないが、徐晃もおりながら、何たる不覚か」
 叱られて、徐晃は、ついこう自己弁護してしまった。
「おことばの如く、切にお止めしたのですが、洪将軍には、血気にまかせて、頑としてきかないのでした」
 曹操は、怒って、
「軍法を正さん」と、自身、剣を抜いて、従弟の曹洪に、剣を加えようとした。
「――いや、それがしも同罪ですから、罪せられるなら手前も共に剣をいただきます」
 徐晃も、身をすすめて、神妙にそういうし、諸人も皆、曹洪のために命乞いしたので、曹操もわずかに気色を直し、
「功を立てたら宥してやろう」
 と、しばらく斬罪を猶予した。

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