輸血路

「大王が帰ってきた」
「大王は生きている」
 と、伝え合うと、諸方にかくれていた敗軍の蛮将蛮卒は、たちまち蝟集して彼をとり巻いた。そして口々に、
「どうして蜀の陣中から無事に帰ってこられたので?」
 と、怪訝顔して訊ねた。
「何でもないさ」
 孟獲は事もなげに笑って見せながら、部下にはこういった。
「運悪く難所に行き詰って、一度は蜀軍に生擒られたが、夜に入って、檻を破り、番の兵を十余人ほど打ち殺して走ってくると、また一隊の軍馬が来て、俺の道をさえぎったが、多寡の知れた中国兵、八方へ蹴ちらした末、馬を奪って帰ってきたというわけだ。ははは、お蔭で蜀軍の内部はすっかり覗いてきたが、なあに大したものじゃない」
 もちろん、部下の南蛮兵は、彼の言を絶対に信じた。ただ阿会喃と董荼奴は、先に孔明に放されて、自分たちの洞中に引っ込んでいたが、孟獲から呼び出しがくると、この二人だけは、
「どうもやむを得ない」
 というような顔つきで、渋々やって来た。
 孟獲は、新たにまた諸洞の蛮将へ触れを廻して、たちまち十万以上の新兵力を加えた。蛮界の広さと、その蛮界における彼の威力は底知れないものがある。
 集まった諸洞の大将連は、その風俗服装、武器馬具、ほとんど区々で、怪異絢爛を極めた。孟獲はその中に立って、向後の作戦方針をのべた。
孔明と戦うには、孔明と戦わないに限る。彼奴は魔法つかいだ。戦えばきっと彼奴の詐術にひッかかる。そこで俺は思う。蜀の軍勢は千里を越えて、この馴れない暑さと土地の嶮しさに、かなりへたばッている様子だ。俺たちはこれから瀘水の向う岸に移り、あの大河を前にして、うんと頑丈な防寨を築こう。削り立った山にそい崖にそい、長城を組んで矢倉矢倉にそれを連げば、いくら孔明でもどうすることもできまい。そして奴らがへとへととなった頃を見て、みなごろしにする分には何の造作もない」
 一夜のうちに蛮軍は風の如くどこかへ後退してしまった。蜀軍の諸将は、
「はて?」と、怪しんだり、或いは、孔明大仁に服して、みな戦場を捨てて洞へ帰ってしまったのではないか、などと私語区々であったが、孔明は、
「ただ前進あるのみ」と、即日、進発を命令した。
 蛮地の行軍は、その果てなさに、ふたたび人々を飽かしめた。わけて輜重の困難はいうばかりでない。
 ときすでに五月の末に及んで、先陣は行くてに瀘水の流れを見た。河幅は広く、水勢は急で、強雨のたびに、白浪天に漲った。
 強雨といえば、この地方では、日に何回か、必ず盆をくつがえすような大雨が襲ってきた。猛烈な炎暑に喘ぐとき、それは兵馬をほっと救ってくれるが、同時に、甲の下も濡れ、兵糧も水に浸され、時には道を失って、漲る雨水の中に立往生してしまうことなどもままあった。
「や? ……対岸に敵がいる」
「何という厳しさだ。あの蜿蜒たる防寨は」
 先鋒の兵は、胆を奪われた。対岸の嶮岨と、その自然を利用した蛮族一流の防寨を見た刹那にである。それは中国地方の科学的構造とは甚だ趣を異にしているが、堅固な点では、必要以上にも堅固にうかがわれる。
 当然、遠征軍は、瀘水を前にして、はたと、その進軍を阻められた。
 日々の強雨、一日中の悪暑、夜は夜で、害虫や毒蛇やさまざまな獣に苦しめられつつ、滞陣半月を越えんとしていた。
 孔明は、令を出した。
「瀘水の岸から百里ほど退陣せよ。して各隊は、高所、或いは林中など、眠るによく、居るに涼しい地を選んで幕営を張れ。敢えて、戦いに焦躁するな。しばらく人馬を休め、病にかからぬよう、身の強健にもっぱら努めておるがいい」

 こういう時、参軍の呂凱は大いに役に立った。かねて孔明の手に献じてある「南方指掌図」に依って、地理を按じ、各部隊のために滞陣の地を選定した。
 各部将は、それぞれの位置に、陣小屋を構え、椰子の葉を葺いて屋根とし、芭蕉を敷いて褥とし、毎日の炎天をしのいでいた。
 監軍の蒋琬は、一日孔明に向ってこういった。
「山に依り、林にそい、蜿蜒十数里にわたるこの陣取りは、かつて先帝が呉の陸遜に敗られたときの布陣とさながらよく似ています。もし敵が瀘水を渡って火攻めをして来たら防ぎはつきますまい」
「然り、然り」と孔明は否定もせずただ笑って――
「この渫陣の形は、決して善いと思っているわけでもないが、さりとて何の計がないわけでもない。まあ推移を見ておれ」
 ところへ蜀の都から、傷病兵のために多くの薬種と糧米とを輸送して来た。指揮官には誰がついてきたかと訊ねると、
馬岱とその部下三千名が任に当って参りました」とのことに、孔明は直ぐに彼を呼びよせて、遠来の労をいたわり、かつ云った。
「君のつれてきた新手の兵を最前線へ用いたいと思うが、ご辺は指揮して行くか」
一兵も私の兵などというものはありません。みなこれ朝廷の軍馬ですから、先帝のご恩に報じられるものなら、死地の中へも歓んで参ります」
「ここから約百五十里の瀘水の岸に、流沙口という所がある。そこの渡口のみは流れもゆるく渡るによい。対岸に渡ると山中に通ずる一道がある。それこそ蛮軍が糧を運んでいる唯一の糧道だ。もしここを遮断すれば阿会喃、董荼奴の輩が内変を起すだろう。君に命ずるのはそうした任務だが」
「必ずやって見せます」
 欣然、馬岱は下流へ向った。
 流沙口へ来て見ると、案外、河底は浅く、船筏も要らない程度なので渡渉した。ところが、河流の半ばまでゆくと馬も人もたちまち溺れ流された。馬岱は驚いて急に兵をかえし、土人に訊くと、ここは毒河といって、炎天のうちは、水面に毒が漂っているので、これを飲めば必ず死ぬ。しかし夜半の冷やかな頃わたるぶんには決して毒にあたることはないとのことだった。
 深夜を待つまでに、木を伐り竹を編んで無数の筏を造った。約二千余騎つつがなく渡るを得た。対岸は山地で、進むほど峻嶮となってくる。土人にきけば「夾山の羊腸」とよぶ所だとある。
 馬岱軍は、大山の谷を挟んで陣を取り、その日のうちに、ここを通行する蛮人輸送隊の車百輛以上、水牛四百頭を鹵獲した。次の日にも獲物があった。たちまちこのことは、険阻のうちに結集している蛮軍十余万の胃ぶくろに影響した。
 糧道を守る蛮将のひとりが、孟獲の本陣へ行って急を告げた。
「平北将軍馬岱が、一軍の新手をひきいて、流沙口を渡ってきました」
 孟獲は酒をのんでいたが、聞くと笑って、
「河の半ばで半分以上は死んだろう、ばかな奴らだ」
「いや、夜中に越えてきたらしいので」
「誰が敵にそんな秘事を教えたか、土地の奴なら斬ってしまえ」
「もう間に合いません。敵は夾山の谷に屯して、こっちの輸送隊を襲い、毎日の兵糧はみんな奴らに奪われているので」
「なに、糧道を断ったと。何のために、汝れはその守りに立っているのか。木像め、――忙牙長を呼べ、忙牙長を」
 これは蛮将中でも異様な槍を使う猛力無双な男である。呼ばれるや、その長槍を引ッ抱えて、
「大王、何です」とさながら仮面のような顔をつき出した。
「三千ばかり引きつれて、夾山にいる馬岱の首を持ってこい」
「行ってきます」
 忙牙長は、颯爽として、一軍の先に立って向って行ったが、程なく、その手下だけが、列を乱して逃げ帰ってきた。そして口々に告げていう。
「忙牙長は敵の馬岱と渡り合って、ただ一刀に斬られてしまいました。いったい、どうしてあの隊長があんな脆く殺られたのか訳がわかりません」

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