遼来々
一
合淝の城をあずかって以来、張遼はここの守りを、夢寐にも怠った例はない。
ここは、魏の境、国防の第一線と、身の重責を感じていたからである。
ところが、呉軍十万の圧力のもとに、前衛の※城は一支えもなく潰えてしまった。洪水のような快足をもって、敵ははや、この合淝へ迫ると、急を告げる早馬は、櫛の歯をひくようだった。
また、漢中に出征中の曹操からも、変を聞いて、薛悌という者を急派してきた。これは曹操の作戦指導を、匣に封じて、もたらして来たものだった。
「丞相の作戦には、守備とあるか、籠城せよとお示しあるか。はやくお開き」
同じ城にある副将の楽進と李典は、固唾をのんで、張遼の開ける匣を見ていた。
「では聞き給え、読み聞かせよう。……呉ノ積極ニ出デ来レル所以ハ、要スルニ予ノ遠ク漢中ニ在ルノ虚ヲ窺ウモノナリ。故ニ、呉ノ勢ミナ魏城ヲ軽ンズ。戦ワズシテタダ守ラバ、イヨイヨ彼等ヲ誇ラスノミ。マタ、出テ十万ノ寄手ト野戦ヲ構ウルハナオ拙ナリ。即チ、敵近ヅカバ、ソノ序戦ニ於テ、彼等ノ鋭気ヲ一撃シテ挫キ、味方諸人ノ心ヲマズ安泰ニ固メ置キテ後、固ク城ヲ閉ジ、防備第一トシテ、必ズ出テ戦ウ勿レ。おわかりか。こういうご指令であるが」
「…………」
李典は、日頃、張遼と仲がわるい。そのせいか、黙りこんだまま返辞もしない。
一方の楽進は、すぐ云った。彼の意見は反対である。
「由来、守る戦で、勝てた戦はない。ましてこんな小勢で」
張遼はみなまで聞いていなかった。この際、議論は無用と肚はきまっていたからである。
「議論がやりたいなら、一人で議論してい給え。余人は知らず張遼には、私心をもって君の言をやめることはできない。――漢中からのご指揮どおり、我はまず城を出て、一戦に敵の出鼻をたたき、その後は、静かに籠城にかかるのみだ」
云い捨てて馬を呼び、はや戦場へ馳せ向おうとした。
すると、それまで黙然としていた――日頃は彼と不和な李典が、ぬっくと起って、
「そうだ、これは国家の大事、豈、わたくしの心にとらわれんや」
と決然、張遼につづいて、城門から馳け出して行くのを見て、楽進もひとりで議論しているわけにもゆかず、続いて城外へ馬を出した。
呉の大軍は、すでに逍遥津(安徽省・合肥附近)まで来ていた。先鋒の甘寧軍と、魏軍の楽進とのあいだに、小戦闘が行われたが、魏兵はたちまち潰走したので、呉侯孫権は、
「われに当る者あらんや」
といよいよ勝ち驕って前進をつづけていた。
そして、逍遥津の地を離れかけた頃、突然、蘆荻のあいだから連珠砲を轟かして、右からは李典、左からの軍は張遼の旗が現れ、ふた手が渦巻いて、孫権の中軍へ不意討ちして来た。
先手の呂蒙や甘寧の軍は、あまりに敵を急追して、その快足にまかせたまま、中軍とへだたり過ぎている。
後陣の凌統は、まだ逍遥津の一水を、全部渡河しきっていないらしい。
だが、はるかに、中軍の旗が、裂かれる如く、乱れ立ったのを見て、凌統は、
「すわ、何事か、凶事か?」と、部下をも置き捨て、単騎、これへ馳けつけて来た。
見れば、孫権以下、中軍の旗本七百ばかりは、敵の奇襲に包囲されて、まったく殲滅寸前の危機にあった。
凌統は、声をあげて、乱軍のなかの孫権へ叫んだ。
「君っ、君っ、わが君。雑兵ごときを相手となし給わず、ひとまず小師橋を渡って、お退きあれ」
耳へとどいたか、孫権はふり向いて、
「おお、凌統か。案内せよ」
と云いながら、こちらへ向って、一目散に馳けてきた。
だが、二人して小師橋まで遁れてきたはいいが、すでに橋の南一丈ばかりは、敵の手に破壊されていた。
二
「やあ。しまった」
馬は、水におどろいて、竿立ちになっていななく。
うしろからは、張遼の兵、三千ほどが、ふたりの影を認めて、雨のごとく、箭を射てくる。
「凌統。何としたものぞ」
孫権は、馬と共に、鞍上で身を揉んだ。
「いや、おさわぎになるには当りません。てまえのするようにして、後から続いておいでなさい」
凌統は、水ぎわから遠くへ、馬をかえして、改めて、勢いよく馳け出した。そして破壊された橋の水ぎわへ近づくや否、鞭も折れよと、馬のしりを打った。
馬は高く跳び上がって、水面を飛びこえ、後方の橋の端へ立った。孫権も、その技にならって、難なくそこを飛び越した。
河の上に、後陣の徐盛や董襲の船が見えた。凌統は、半分になっている橋の上から、
「主君をここへ置いてゆくから確とお守りをたのむぞ」と、声をかけて、ふたたび前の所を飛び、岸へ上がったと思うと、敵の矢風へ向って、まっしぐらに馳け向ってゆく。
遠く先へ出過ぎた甘寧と呂蒙もにわかに後へもどって、魏軍と接戦していたが、何分にも、虚を衝かれたため、その備えは、中軍や後陣と一致せず、各所で魏軍に包囲されたり、寸断されたりして、おびただしい戦死者を出してしまった。
わけて、惨たる潰滅をうけたのは、凌統の隊だった。孫権の急場を救うために、まったく隊形を失い、主将を見失っている間に、魏の李典軍の包囲下に圧縮されて、これはほとんど一人の生存者もなかったほど、ひどい屍山を築いてしまった。
隊長の、凌統も、二度目に引返してきたときは、すでに部下の大半以上討たれていたので、その苦戦ぶりは言語に絶し、ついに全身数ヵ所の鑓瘡を負い、満身朱にまみれて、よろよろと、小師橋附近までのがれて来た。
もう彼には、馬に鞭を加えて、そこを一跳びに越すような気力などがとうていなかったし、流れ入る血しおに、眼もかすんで、河も水も見えないような姿だった。
河中の舟から孫権が、その姿を見つけた。孫権は舟べりを叩いて、
「あれ助けよ。凌統に違いない」と、声も嗄るるばかり叫んだ。
ようやく一つの舟が、岸へ寄って、彼を拾ってきた。そのほか敗残の味方も、次々に河の北へ収容した。敵に追われて、舟を待ついとまもなく、無慙に討たれる者や、河へ飛びこんで溺れ去ってゆく者を見ても、どうにもならないような状態だった。
「不覚、不覚。なんたるまずい戦をしたものか」
孫権は、敗軍をまとめて、その損傷の莫大なのに、胆をすくめながら、無念そうにくり返してばかりいた。
重傷の凌統は、全身の瘡をつつんで、なお君前にいたが、
「思い合せれば、※城の勝ち軍が、すでに今日の敗因を醸していたものです。部下の端までが、あまりに勝ちに驕って、敵を甘く見くびり過ぎた結果でしょう。わけてこの際、君には、よいご教訓となったことと思われます。御身すなわち呉の万民の主たることを、くれぐれお心に、ご銘記あるようおねがいします。今日、お体だけでも無事だったのは、まったく天地神明のご加護というもの。むしろ歓ぶべきことと存じます」と、歯に衣着せずいった。
「慚愧にたえない。一生の戒めとする」
孫権も涙を流してつぶやいた。
しかし、大事はここに一頓挫をきたした。呉軍は、新手を加えて、再装備の必要に迫られ、ついに大江を下って、呉の濡須まで引返してしまった。
遼来々。遼来々。
呉の国では、幼い子どもまでが、魏の張遼の名を覚えて、子が泣くと、母はそういって、泣く子をすかした。
以ていかに、張遼の勇と、その智が、呉兵の胆にふかく刻みこまれたかがわかる。
張遼は、みずから、
「これは、望外な奇捷だ」と、いっていた。
すぐ急使を漢中に送り、ひとまず戦況を報告して、なお他日のために、大軍の増派を要請した。
「このまま、蜀へ進まんか。ひとたび還って、呉を討つがよいか」
曹操も、この二大方向の去就に、迷っていたところだった。