陣前公用の美酒

 四川の巴西、下弁地方は、いまやみなぎる戦気に、雲は風をはらみ、鳥獣も声をひそめていた。
 魏兵五万は、漢中から積極的に蜀の境へ出、その辺の嶮岨に、霧のごとく密集して、
「寸土も侵させるか」と、物々しくも嘯いていた。
 正面の敵は、馬超だった。――馬超は下弁方面に、張飛は巴西から漢中をうかがって来たのだ。
 そして、魏のほうの総大将は曹洪、その下に張郃、兵力と装備においては、圧倒的に、魏のほうが優れてみえる。
 序戦は、その主力と馬超の部下、呉蘭、任双の兵とから開始され、その第一戦に、任双は討たれ、呉蘭は敗走した。
「なぜ、敵を軽んじるか。以後は嶮を守って、めったに動くな」
 馬超は、呉蘭の軽忽な戦を大いに叱った。彼は、魏兵のあなどり難い強さを、骨身に沁みるほどよく知っていた。
 曹洪は、怪しんで、
「どうしたのだろう。いくら攻めても、馬超は動かん。あの精悍な男が、こうじっとしたままでいるのは、何か謀略かも知れぬぞ」
 緒戦の戦果を、後の大きな損害の代償にすまいと、曹洪は大事をとって、一応、南鄭まで兵を退げた。
 張郃は面白くない顔をした。
「将軍、何だって、せっかくの勝運を、図に乗せないで、退がったのですか」
「都を出るとき、管輅に卜を観てもらったら、彼がいった。――このたびの戦場では、ひとりの大将を失うであろうと。故に、あえて入念に作戦しているわけだ」
「あははは。これは意外。閣下もすでに、五十に近いご年齢。しかるに、卜などに心を惑わし給うとは。しかも鬼神も避けしめるという武将でありながら。――あははは、どうも人にはどこか弱いところがあるものですな」
 それから後、張郃はまた、
「てまえに、兵三万をお頒ち下さい。巴蜀のほうに、のこのこ頭を出してきた張飛の軍を、一叩き叩いて後の憂いを断ってきますから」と、いった。
 曹洪は、彼が、張飛をあなどっている様子を、かえって危うく思い、
「めったにはなるまい」と、容易にゆるさなかった。しかし張郃は、自信満々で、
「人はみな張飛をひどく恐れますが、てまえの眼には、小児のようにしか見えない。もし将軍が少しでも彼を恐怖するようだと、士卒までが、張飛と聞いただけで、負けるものときめてしまいますよ。それでもよろしいのでござるか」
 と、嫌味まじりに、なお執こく、自説の実行を求めるのだった。
 曹洪も、そこまでいわれては、自分が戦って見せるか、彼の乞いを許すしかない。しかし、なお一抹の不安を抱いて、
「そんなにいうが、もしそういう貴公が敗れを取ったらどうするか」
「ご念には及びません。もし張飛を生捕ってこなかったら、軍法に正して、どう罰せられても、恨みとは存じ申さん」
「よろしい。軍誓状を書き給え」
「もちろんどんな誓紙でも書きます」
 ついに、張郃は、三万の兵を乞いうけた。自分が総指揮官となって、意のままに作戦し、思うように戦ってみたかったのである。意気揚々、巴西へ向った。
 この巴西方面から閬中(重慶北方)のあたりは、山みな峨々として、谷は深く、嶮峰は天にならび、樹林は千仭の下にうずもれ、いったいどこに陣し、どこに兵馬を歩ますか? ――ちょっと見定め難いような地勢ばかりだった。
 張郃は、三ヵ所に、陣地を構築した。――というよりも、天嶮へ拠って、巣を作るようにたて籠った。
 一ノ陣を、宕渠寨とよび、二ノ陣を蒙頭寨と号し、三ノ陣を、蕩寨ととなえた。
「いかにやいかに。敵も見よ」
 と、まずその布陣を誇って、兵力の半数をそこに置き、あとの一万五千をひきいて、みずから敵の巴西間近へつめよせた。

 張飛は、部下へ諮った。
「どうだ雷同。――来たそうだが」
「来たのは、張郃だそうで」
「一万五千。蟻のように、踏みつぶしてみたいな。守って戦うか。出て行くか」
「地勢のけわしい所です。出かけて行って、不意をついたほうが、面白いかもしれません」
「よかろう。出陣だ」
 各〻、五千ずつの兵力をひッさげて、張飛、雷同の二隊は、巴西を発していた。
 はからずも、この軍と、魏の張郃の兵とは、閬中の北三十里の山間で、約束したようにぶつかった。
「見たぞ、張郃の姿を」
 張飛は、獅子を飛ばすように、馬を使って、渓谷や山間の敵を蹴ちらし始めた。
 張郃は、予期しなかった敵にぶつかったのと、峰谷々のすさまじい鬨の声に、
「はてな?」と、自分の位置を、危惧し出した。
 振りかえってみると、後方の山にも、蜀の旗が立っているし、はるか下のほうにも、蜀の旗が見える。彼は、退路に、危険を感じた。
 こういう心理が首脳にうごいたとき、もう全軍は支離滅裂であった。いや張郃自身すら、
「おおういッ、待たんか」と、呼ばわり呼ばわり追いかけてくる張飛にうしろを見せていた。
 つい先頃、曹洪の前で吐いた大言を、彼はとたんにどこかへ忘れ飛ばしていた。それに張飛が飲み友達でも呼ぶように、暢気に呼ばわってくる声が、雷鳴に似た烈しさよりも、かえって不気味に聞えるのだった。
「退けや、退けや。ひとまず退け」
 部下にも、逃げることのみ励ました。そして、蜀の旗が見える山は避けて廻ったが、それはみな擬兵に過ぎなかったことがあとで判った。先廻りした雷同が、諸所へ兵を登らせて、やたらに旗ばかり立てていたのである。
 ――が、そう知ったときは、すでに遅い。いちど崩れた陣形は、すぐ立て直しがつかなかった。ことに嶮岨な山岳地帯では。
「寨門を閉じろ」
 辛くも、たどりついた一寨――宕渠寨のうちへ味方を収めると、彼は、きびしく岩窟の門をふさぎ、渓谷の柵門を固め、また絶壁の堅城にふかく隠れて、
「戦うなかれ」
 を、旗じるしにしてしまった。
 張飛もまた、彼方の一山にまで来て、山陣を張り、ここに山と山と、人と人と、相対して、
「いざ、来い――」の態勢をとった。
 ところが、張郃は、絶対に戦わない。こっちの山陣から小手をかざして見ていると、宕渠寨の高地へのぼって、毎日、莚をのべ、帷幕の連中と共に、笛を吹いたり、鼓を打ったり、酒をのんだりしている様子である。
「味な真似をしおるぞ」
 張飛は、むずがゆい顔して、その態を、遠望していた。
「――おい、雷同。見たか」
「癪ですな。御大将」
「ひとつ、思い知らして来い。だが、いずれあんなことを誇示するときは、敵に計略があるときときまっている。下手な手に乗るな」
「心得ました」
 雷同は、一手の勢をひきいて、向うの山の下へ迫った。そして、声かぎり、口のかぎり、張郃を悪罵し、魏兵に悪たれ口をたたいた。
「――いかんわい。何の手ごたえもありはしない。出直そう」
 いたずらに、口ばかりくたびれさせてしまった。――戦うなかれ、の敵の鉄則はひどく固い。
 次の日も、繰り返した。
 そして、前の日にも勝るほど、声をそろえて、彼を罵り辱めた。けれど、宕渠の一山は、頑固な唖のごとく、うんもすんも答えない。
「かかれっ! 攻め登れッ」
 とうとう雷同は癇癪を起して、まず渓流を踏みこえ、沢辺の柵門へかかった。ばりばりとそこらを踏み破る。声をあわせて、山の肌に取っつく。
 そのときたちまち万雷の一時に崩れてくるかのような轟きがした。巨木、大岩、雨のごとき矢、鉄砲など。
「待っていた」と、ばかり浴せかけて来たのである。蜀兵の死者数百人、過日の勝ちを、この日に埋め合されて、戦は五分と五分となり、またまた山と山は睨み合いに入ってしまった。

 張飛の心は甚だ安らかでない。この上はみずから乗り出すよりないと、翌る日、向うの山の下へ部下を伴って迫り、雷同に命じたように、自分でもまた、声かぎりにさまざまな悪罵をあびせた。
 張飛の悪口となると、なかなか雷同などの比ではなく、辛辣をきわめたものであったが、依然、敵は緘黙を守りつづけている。
「敵もさるもの。よく辛抱する。これでは壁に唾、馬に説法。……どうもならん。少し推移をみてやろう」と、張り合い抜けの形で、彼はすごすごもとの山陣に戻った。
 幾日かすると――。
 何としたことか、今度は、張郃の陣から、こちらの山に向って、悪罵が飛んできた。
 遥かに望めば、魏兵が山上にうち揃い、一せいに大声を発し、悪たれをついているのだ。雷同はこれを眺めて切歯した。
「なかなか憎い致し方、この上は一挙に……」
 と、真っ赤になっていきまくのを、張飛は、
「いまこちらが動いては、まんまと敵の術中に陥るというもの、しばらく待て」と、おさえた。
 しかし、こんな状態が五十日余りも続いては、部下の兵士も安らかではない。不穏な形勢さえ見えてきたので、張飛は一策を案じてまた山を下って敵前に陣を構えた。そしてそこへ酒を運ばせ部下とともに酒宴を張り、大いに酔っては、山上に向って悪罵すること、前よりもはげしかった。いい気持になって部下どもも、大いに声を張り上げて、張飛に和して罵りつづけた。
 だが、張郃はこのさまを見て、
張飛も遂に自暴になったわい。必ず手だしをすな」
 と、命じたので、山中はかえって静まりかえってしまった。
 成都にあって、軍勢如何を案じていた玄徳は、使者を張飛のもとに送り、復命を待った。
 やがて、使者のもたらした報告は、
張飛の軍、閬中の北方に於て、張郃の兵とぶつかり、双方対陣のまま五十余日に及びますが、張郃いかに謀れども出でて戦わず、ために張飛は敵を欺くと称し、山を下って敵前に構え、毎日酒を飲んで、敵を罵りおります」というのである。
 玄徳は驚いて、早速、孔明をよび、張飛が悪い癖をだしている様子であるが、どうしたものかと問うた。
 委細を聞いて、孔明はカラカラと笑い、
「閬中にはおそらく良い酒はありますまい。成都の美酒をあつめ、五十樽ほどを、車にのせて、早速送り届け、張飛に飲ませたらばよろしかろうと存じまする」と、いった。
「とんでもないこと、大体、張飛は今までも、酒のために色々と失敗をしている。その上、成都の美酒を送れとは、解せぬことを申すものかな。彼美酒に酔うて、ついには張郃に害められるに至ろうも知れぬ」と、忿懣の色を顔にみなぎらせた。
 孔明は、またニコリとして、
「あなたは、張飛とはずいぶん長い年月、兄弟のように交わっていられながら、彼の本当の胸のうちをまだご存じないと見えます。張飛が、いつぞや、蜀に入る時に、厳顔をゆるして味方としたことを覚えておいででしょう。その折の計の深さは、とても、ただの勇武だけではできないことでした。いままた、宕渠の山前で、張郃と対陣し、しかも五十余日に及び、ちか頃は酒を飲んで張郃を罵り、辱めているということですが、こんな傍若無人ぶりは、彼の本心ではありますまい」
 孔明の言葉は、玄徳を見つめたまま、熱をおびていた。
「必ずや、張郃をあざむくための、深慮遠謀あってのことと信じます。ただちに援けられたほうがよろしいと思います」と、一気に云った。
 玄徳はうなずいて、
「そうは思うが、どうも不安でならないのじゃ。言葉にしたがって、魏延を派遣して、援けるとしようぞ」と、孔明の説に動かされた。

 孔明は玄徳の命をうけると、魏延を呼びよせて、
成都の名酒五十樽を早速に調達せよ」と命じた。魏延は何事があるかといぶかりながらも、ただちに集めて、孔明に示せば、孔明は黄色の旗に「陣前公用の美酒」と書きつけ、
「これを三輛の車に立て、ただちに宕渠の陣にある張飛がもとに届けよ、とく行け」と、急がせた。
 魏延はかしこまって、酒の輸送にあたった。
 沿道の住民は、この異様な車輛に、目をみはって、何のおめでたかと噂し合った。
 宕渠の陣に着いた魏延から、この贈物をうけた張飛は、大いに喜んで、その酒樽を拝した。
「わが事、これにて成就疑いなし」
 といって、魏延と雷同を呼び、
「魏延は、わが右翼にあれ、また雷同は同じく左翼に陣せよ、軍中紅き旗振るを合図として、その折は、全力をもって討って出よ」
 と命じ、陣中に美酒を迎え、肴をあつめて、前にもました大酒宴をはじめた。
 久しく軍旅にあって、口にしたくもできなかった、成都の銘酒、宴ははずむばかりで、笑声山間に鳴るの感があった。
 この様子をつぶさに眺めた張郃の見張りは、これを張郃に報じた。
「珍しきこともあるかな、どれ」
 と、張郃は山上に現れ、遥かに張飛の軍を眺めやれば、張飛は中軍に陣して平坐、痛飲している様子。そして、二人の童子に相撲をとらせては、しきりと喜んでいるのが分った。
 対陣も久しきにわたっているし、心もそろそろ安らかでなくなっていた張郃は、
張飛のやつ、いい気になって、あまりにも小馬鹿にした振舞い、よし、今夜は山を下り、一気に敵陣を蹴散らして、目にもの見せてくれようぞ」と、蒙頭、盪の二将に戦闘用意を命じ、これを左右とし、月明を利して、山を下り、張飛の軍に迫った。
 敵前に近づいてから、なお眺めれば、依然として張飛は酒を飲んでいる。
 折もよし、
「突っこめ!」の命とともに二ヵ所の勢、喊をつくって雪崩れ、鼓をうち、銅鑼を鳴らして、突っ込んで行った。
 張郃は馬上にあって、目ざすは張飛、今宵こそはといきまいて迫って行けば、酔いしれてわれを失ったか、目ざす張飛の影は動こうともしない様子、馬を躍らせて手もとにとびこみ、
「やあ!」と、一鎗に突き通した。
 しかし、その手応えに、張郃は、はっとしてしまった。たしかに張飛と思ったのは、人に非ず草で作った人形だった。
「しまった」と、あせり気味で後に退こうとすると、突然、鉄砲が響いた。それと同時に、一人の大将を先頭に、一群の兵が道をふさいだ。
 先頭の大将は、と見れば、虎鬚さかさまに立ち、目は百錬の鏡に朱をそそいだごとく、その叫ぶ声は雷にも似て一丈八尺の大矛をふり廻し、
「やあ張郃。世にきこえた燕人張飛、ここにまかり出た。勝負ッ」
 と云いざま、張郃の驚く鼻先へ切ってかかった。
 張郃もとっさにこれをうけ、必死にうち合うこと四、五十合に及んだ。
 その間に、雷同、魏延の左右の軍も、それぞれ蒙頭、盪の二手の勢と闘い、またたく間にこれを追いまくってしまった。
 味方の崩れを見ながらも張郃はなお鋭い張飛の矛とうち合っていたが、かくするうちに、山上に、火がかかり、蜀の軍勢は勢いを得て、ますます数を増し、彼の周囲はすべて敵となってゆくのが分る。
 その上、退路も絶たれる様子に、このまま手間取っては、一命も危うしと感じたか、寸隙をねらって、馬に一鞭をあたえて逃げてしまった。
 張飛は、この優位逃すべからずと、全軍になおも追撃をゆるめるなと号令して、遮二無二突進した。

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