傾国

 王允は、一家を挙げて、彼のためにもてなした。
 善美の饗膳を前に、呂布は、手に玉杯をあげながら主人へ云った。
「自分は、董太師に仕える一将にすぎない。あなたは朝廷の大臣で、しかも名望ある家の主人だ。一体、なんでこんなに鄭重になさるのか」
「これは異なお訊ねじゃ」
 王允は、酒をすすめながら、
「将軍を饗するのは、その官爵を敬うのではありません。わしは日頃からひそかに、将軍の才徳と、武勇を尊敬しておるので、その人間を愛するからです」
「いや、これはどうも」と、呂布は、機嫌のよい顔に、そろそろ微紅を呈して、「自分のようながさつ者を、大官が、そんなに愛していて下さろうとは思わなかった。身の面目というものだ」
「いやいや、計らずも、お訪ねを給わって、名馬赤兎を、わが邸の門につないだだけでも、王允一家の面目というものです」
「大官、それほどまでに、この呂布を愛し給うなら、他日、天子に奏して、それがしをもっと高い職と官位にすすめて下さい」
「仰せまでもありません。が、この王允は、董太師を徳とし、董太師の徳は生涯忘れまいと、常に誓っておる者です。将軍もどうか、いよいよ太師のため、自重して下さい」
「いうまでもない」
「そのうちに、おのずから栄爵に見舞われる日もありましょう。――これ、将軍へ、お杯をおすすめしないか」
 彼は、ことばをかえて、室内に連環して立っている給仕の侍女たちへ、いった。
 そして、その中の一名を、眼で招いて、
「めったにお越しのない将軍のお訪ね下すったことだ。貂蝉にもこれへ来て、ちょっと、ごあいさつをするがよいといえ」
 と、小声でいいつけた。
「はい」
 侍女は、退がって行った。間もなく、室の外に、楚々たる気はいがして、侍立の女子が、帳をあげた。客の呂布は、杯をおいて、誰がはいって来るかと、眸を向けていた。
 丫鬟の侍女ふたりに左右から扶けられて、歩々、牡丹の大輪が、かすかな風をも怖がるように、それへはいって来た麗人がある。
 楽女貂蝉であった。
「……いらっしゃいませ」
 貂蝉は、客のほうへ、わずかに眼を向けて、優かにあいさつした。雲鬢重たげに、呂布の眼を羞恥らいながら、王允の蔭へ、隠れてしまいたそうにすり寄っている。
「……?」
 呂布は、恍惚とながめていた。
 王允は、自分の前の杯を、貂蝉にもたせて云った。
「おまえの名誉にもなる。将軍へ杯をさしあげて、おながれをいただくがよい」
 貂蝉は、うなずいて、呂布のまえへ進みかけたが、ちらと、彼の視線に会うと、眼もとに、まばゆげな紅をたたえ、遠くからそっと、真白な繊手へ、翡翠の杯をのせて、聞きとれないほどな小声でいった。
「……どうぞ」
「や。これは」
 呂布は、われに返ったように、その杯を持った。――なんたる可憐!
 貂蝉は、すぐ退がって、帳の外へ隠れかけた。呂布はまだ、手の杯を、唇にもしない。――彼女がそのまま去るのを残り惜しげに、眼も離たずにいた。酒を干すいとますらない眼であった。

貂蝉。――お待ち」
 王允は、彼女を呼びとめて、客の呂布と等分に眺めながら云った。
「こちらにいらっしゃる呂将軍は、わしが日頃、敬愛するお方だし、わが一家の恩人でもある。――おゆるしをうけて、そのままお側におるがよい。充分に、おもてなしをなさい」
「……はい」
 貂蝉は、素直に、客のそばに侍した。――けれど、うつ向いてばかりいて、何もいわなかった。
 呂布は、初めて、口を開いて、
「ご主人。この麗人は、当家のご息女ですか」
「そうです。女の貂蝉というものです」
「知らなかった。大官のお女に、こんな美しいお方があろうとは」
「まだ、まったく世間を知りませんし、また、家の客へも、めったに出たこともありませんから」
「そんな深窓のお女を、きょうは呂布のために」
「一家の者が、こんなにまで、あなたのご来訪を、歓んでいるということを、お酌み下されば倖せです」
「いや、ご歓待は、充分にうけた。もう、酒もそうは飲めない。大官、呂布は酔いましたよ」
「まだよろしいでしょう。貂蝉、おすすめしないか」
 貂蝉は、ほどよく、彼に杯をすすめ、呂布もだんだん酔眼になってきた。夜も更けたので、呂布は、帰るといって立ちかけたが、なお、貂蝉の美しさを、くり返して称えた。
 王允は、そっと、彼の肩へ寄ってささやいた。
「おのぞみならば、貂蝉を将軍へさしあげてもよいが」
「えっ。お女を。……大官、それはほんとですか」
「なんで偽りを」
「もし、貂蝉を、この呂布へ賜うならば、呂布はお家のために、犬馬の労を誓うでしょう」
「近い内に、吉日を選んで、将軍の室へ送ることを約します。……貂蝉も、今夜の容子では、たいへん将軍が好きになっているようですから」
「大官。……呂布は、すっかり酩酊しました。もう、歩けない気がします」
「いや、今夜ここへお泊めしてもよいが、董太師に知れて、怪しまれてはいけません。吉日を計って、必ず、貂蝉はあなたの室へ送るから、今夜はお帰りなさい」
「間違いはないでしょうな」
 呂布は、恩を拝謝し、また、何度もくどいほど、念を押してようやく帰った。
 王允は、後で、
「……ああ、これで一方は、まずうまく行った。貂蝉、何事も天下のためと思って、眼をつぶってやってくれよ」と、彼女へ云った。
 貂蝉は、悲しげに、しかしもう観念しきった冷たい顔を、横に振って、
「そんなに、いちいち私をいたわらないで下さい。おやさしくいわれると、かえって心が弱くなって、涙もろくなりますから」
「もういうまい。……じゃあかねて話してある通り、また近いうちに、董卓を邸へ招くから、おまえは妍をこらして、その日には歌舞吹弾もし、董卓の機嫌もとってくれよ」
「ええ」
 貂蝉は、うなずいた。
 次の日、彼は、朝に出仕して、呂布の見えない隙をうかがい、そっと董卓の閣へ行って、まずその座下に拝跪した。
「毎日のご政務、太師にもさぞおつかれと存じます。郿塢城へお還りある日は、満城を挙げて、お慰みを捧げましょうが、また時には、茅屋の粗宴も、お気が変って、かえってお慰みになるかと思われます。――そんなつもりで実は、小館にいささか酒宴の支度を設けました。もし駕を枉げていただければ、一家のよろこびこれにすぎたるものはありませんが」
 と、彼の遊意を誘った。

 聞くと、董卓は、
「なに、わしを貴邸へ招いてくれるというのか。それは近頃、歓ばしいことである。卿は国家の元老、特にこの董卓を招かるるに、なんで芳志にそむこう」
 と、非常な喜色で、
「――ぜひ、明日行こう」と、諾した。
「お待ちいたします」
 王允は、家に帰ると、この由を、ひそかに貂蝉にささやき、また家人にも、
「明日は巳の刻に、董太師がお越しになる。一家の名誉だし、わし一代のお客だ。必ず粗相のないように」と、督して、地には青砂をしき、床には錦繍をのべ、正堂の内外には、帳や幕をめぐらし、家宝の珍什を出して、饗応の善美をこらしていた。
 次の日。――やがて巳の刻に至ると、
「大賓のお車が見えました」と、家僕が内へ報じる。
 王允は、朝服をまとって、すぐ門外へ出迎えた。
 ――見れば、太師董卓の車は、戟を持った数百名の衛兵にかこまれ、行装の絢爛は、天子の儀仗もあざむくばかりで、車簾を出ると、たちまち、侍臣、秘書、幕側の力者などに、左右前後を護られて、佩環のひびき玉沓の音、簇擁して門内へ入った。
「ようおいでを賜わりました。きょうはわが王家の棟に、紫雲の降りたような光栄を覚えまする」
 王允は、董太師を、高座に迎えて、最大の礼を尽した。
 董卓も、全家の歓待に、大満足な容子で、
「主人は、わが傍らにあがるがよい」と、席をゆるした。
 やがて、嚠喨たる奏楽と共に、盛宴の帳は開かれた。酒泉を汲みあう客たちの瑠璃杯に、薫々の夜虹は堂中の歓語笑声をつらぬいて、座上はようやく杯盤狼藉となり、楽人楽器を擁してあらわれ、騒客杯を挙げて歌舞し、眼も綾に耳も聾せんばかりであった。
「太師、ちとこちらで、ご少憩あそばしては」
 王允は誘った。
「ウム……」
 と、董卓は、主にまかせて、護衛の者をみな宴に残し、ただ一人、彼について行った。
 王允は、彼を、後堂に迎えて、家蔵の宝樽を開け、夜光の杯についで、献じながら静かにささやいた。
「こよいは、星の色までが、美しく見えます。これはわが家の秘蔵する長寿酒です。太師の寿を万代にと、初めて瓶をひらきました」
「やあ、ありがとう」
 董卓は、飲んで、
「こう歓待されては、何を以て司徒の好意にむくいてよいか分らんな」
「私の願うようになれば私は満足です。――私は幼少から天文が好きで、いささか天文を学んでおりますが、毎夜、天象を見ておるのに、漢室の運気はすでに尽きて、天下は新たに起ろうとしています。太師の徳望は、今や巍々たるものですから、古の舜が堯を受けたように、禹が舜の世を継いだように、太師がお立ちになれば、もう天下の人心は、自然、それにしたがうだろうと思います」
「いや、いや。そんなことは、まだわしは考えておらんよ」
「天下は一人のひとの天下ではありません。天下のひとの天下です。徳なきは徳あるに譲る。これはわが朝のしきたりです。世定まれば、誰も叛逆とはいいません」
「ははははは。もし董卓に天運が恵まれたら、司徒、おん身も重く用いてやるぞ」
「時節をお待ちします」
 王允は再拝した。
 とたんに、堂中の燭はいっぺんに灯って、白日のようになった。そして正面の簾がまかれると、教坊の楽女たちが美音をそろえて歌いだし、糸竹管弦の妙な音にあわせて、楽女貂蝉が、袖をひるがえして舞っていた。

 客もなく、主もなく、また天下の何者もなく、貂蝉のひとみは、ただ舞うことに、澄みかがやいていた。
 舞う――舞う――貂蝉は袖をひるがえして舞う。教坊の奏曲は、彼女のために、糸竹と管弦の技をこらし、人を酔わしめずにおかなかった。
「ウーム、結構だった」
 董卓は、うめいていたが、一曲終ると、
「もう一曲」と、望んだ。
 貂蝉が再び起つと、教坊の楽手は、さらに粋を競って弾じ、彼女は、舞いながら哀々と歌い出した。

紅牙催拍シテ燕ノ飛ブコト忙シ
一片ノ行雲画堂ニ到ル
眉黛促シテ成ス遊子ノ恨ミ
臉容初メテ故人ノ腸ヲ断ツ
楡銭買ワズ千金ノ笑
柳帯ナンゾ用イン百宝ノ粧イ
舞罷ミ簾ヲ隔テテ目送スレバ
ラズ誰カコレ楚ノ襄王

 眼を貂蝉のすがたにすえ、歌詞に耳をすましていた董卓は、彼女の歌舞が終るなり、感極まった容子で、王允へ云った。
「主。あの女性は、いったい誰の女か。どうも、ただの教坊の妓でもなさそうだが」
「お気に召しましたか。当家の楽女、貂蝉というものですが」
「そうか。呼べ」と、斜めならぬ機嫌である。
貂蝉、おいで」
 王允は、さし招いた。
 貂蝉は、それへ来て、ただ羞恥っていた。董卓は、杯を与えて、
「幾歳か」と、訊いた。
「…………」
 答えない。
 貂蝉は、小指を、唇のそばの黒子に当てて、王允の陰に、うつ向いてしまった。
「ははは、恥かしいのか」
「たいへんな羞恥み性です。なにしろめったに人に接しませんから」
「いい声だの。すがたも、舞もよいが。……主、もう一度、歌わせてくれないか」
貂蝉。あのように、今夜の大賓が、求めていらっしゃる。なんぞもう一曲……お聴きしていただくがよい」
「はい」
 貂蝉は、素直にうなずいて、檀板を手に――こんどはやや低い調子で――客のすぐ前にあって歌った。

一点ノ桜桃絳唇ヲ啓ク
両行ノ砕玉陽春ヲ噴ク
丁香ノ舌ハ※鋼ノ剣ヲ吐キ
姦邪乱国ノ臣ヲ斬ラント要ス

「いや、おもしろい」
 董卓は、手をたたいた。
 前に歌った歌詞は自分を讃美していたので、今の歌が自分をさして暗に姦邪乱国の臣としているのも、気づかなかった。
「神仙の仙女とは、実に、この貂蝉のようなのをいうのだろうな。いま、郿塢城にもあまた佳麗はいるが、貂蝉のようなのはいない。もし貂蝉が一笑したら、長安の粉黛はみな色を消すだろう」
「太師には、そんなにまで、貂蝉がお気に入りましたか」
「む……。予は、真の美人というものを、今夜初めて見たここちがする」
「献じましょう。貂蝉も、太師に愛していただければ、無上の幸せでありましょうから」
「え。この美人を、予に賜わるというのか」
「お帰りの車の内に入れてお連れください。――そういえば、夜も更けましたから、相府のご門前までお送りしましょう」
「謝す。謝す。――王允司徒、ではこの美女は、氈車に乗せて連れ帰るぞ」
 董卓は、ほとんど、その満足をあらわす言葉も知らないほど歓んで、貂蝉を擁して、車へ移った。

 王允は、心のうちで、しすましたりと思いながら、貂蝉董卓の車を丞相府まで送って行った。
「……では」と、そこの門で、董卓に暇を乞うていると、ふと、氈車の内から、貂蝉のひとみが、じっと、自分へ、無言の別れを告げているのに気づいた。
「では、これにて」
 王允は、もういっぺん、くり返して云った。それは貂蝉へ、それとなく返した言葉であった。
 貂蝉のひとみは、涙でいっぱいに見えた。王允も、胸がせまって、長くいられなかった。
 あわてて彼は、わが家のほうへ引っ返してきた。すると、彼方の闇から、二列に松明の火を連ね、深夜を戛々と急いでくる騎馬の一隊がある。
 近づいてくると、その先頭には赤兎馬に踏みまたがった呂布の姿が見えた。――はっと思うまもなく、呂布は、王允の姿を見つけて、
「おのれ、今帰るか」
 と、馬上から猿臂を伸ばして、王允の襟がみをつかみ大の眼をいからして、
「よくも汝は、先日、貂蝉をこの呂布に与えると約束しておきながら、こよい董太師に供えてしまいおったな。憎いやつめ。おれを小児のようにもてあそぶか」と、どなった。
 王允は、騒ぐ色もなく、
「どうして将軍は、そんなことをもうご存じなのか。まあ、待ち給え」と、なだめた。
 呂布は、なお怒って、
「今、わが邸へ、董太師が美女をのせて、相府へ帰られたと、告げて来た者があるのだ。そんなことが知れずにいると思うのか。この二股膏薬め。八ツ裂きにしてくれるから覚えておれよ」
 と、従う武士にいいつけて、はや引ったてようとした。
 王允は、手をあげて、
「はやまり給うな将軍。あれほど固く約したこの王允を、なにとて、お疑いあるぞ」
「やあ、まだ吐かすか」
「ともあれ、もう一度邸へお越しください。ここではお話もしにくいから」
「そうそう何度も、貴様の舌には欺かれぬぞ」
「その上でなお、お合点がゆかなかったら、即座に、王允の首をお持ち帰りください」
「よしっ、行ってやる」
 呂布は彼について行った。
 密室に通して、王允は、
「仔細はこうです」と、言葉巧みに云った。
「――実はこよい、酒宴の果てた後で、董太師が興じて仰せられるには、そちは近頃、呂布貂蝉を与える約束をした由だが、その女性を、ひとまず予が手許へあずけて置け。そして吉日を卜して大いに自分が盛宴を設け、不意に、呂布と娶わせて、やんやと、酒席の興にして、大いに笑い祝す趣向とするから。――と、かような言葉なのでした」
「えっ。……では、董太師が、おれの艶福をからかう心算で、つれておいでになったのか」
「そうです。将軍のてれる顔を酒宴で見て、手を叩こうという、お考えだと仰っしゃるのです。――で、折角の尊命をそむくわけにも参りませんから、貂蝉をおあずけした次第です」
「いや、それはどうも」と、呂布は、頭をかいて、
「軽々しく、司徒を疑って、何とも申しわけがない。こよいの罪は、万死に値するが、どうかゆるしてくれい」
「いや、お疑いさえ解ければ、それでいい。必ず近日のうちに、将軍の艶福のために、盛宴が張られましょう。貂蝉もさだめし待っておりましょう。いずれ彼女の歌舞の衣裳、化粧道具など一切もお手許のほうへ送らせることといたします」
 呂布は、そう聞くと、三拝して、立帰った。

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