竹冠の友

 ここが大事だ! と龐統はひそかに警戒した。まんまと詐りおおせたと心をゆるしていると、案外、曹操はなお――間ぎわにいたるまで、こっちの肚を探ろうとしているかも知れない――と気づいたからである。
 で、彼は、曹操が、
(成功の上は、貴下を三公に封ずべし)というのを、言下に、顔を横に振って見せながら、
「思し召はありがとうございますが、私はかかる務めを、目前の利益や未来の栄達のためにするのではありません。ただ民の苦患をすくわんがためです。どうか丞相が呉軍を破って、呉へ攻め入り給うとも、無辜の民だけは殺さないようにお計らい下さい。そればかりが望みです」
 と、ことばに力をこめて云った。
 曹操も、その清廉を信じて、彼の憂いをなぐさめ顔にいった。
「呉の権力は討っても、呉の民は、すぐ翌日から曹操にとっても愛すべき民となるものだ。なんでみだりに殺戮するものか。そのことは安心するがいい」
「天に代って道をしき、四民を安んじ給うを常に旨とされている丞相のこと。丞相のお心は疑いませんが、何といっても、大軍が目ざす敵国へなだれ入るときは、騎虎の勢い、おびただしい庶民が災害に会っています。いま仰せをうけて江南に帰るに際し、なにか丞相のお墨付でも拝領できれば、小家の一族も安心しておられますが」
「先生の一族はいま何処に居住しているのか」
荊州を追われ、ぜひなく呉の僻地におります。もし丞相から一礼を下し置かれれば、兵の狼藉をまぬかれ得ましょう」
「いと易いこと」と、曹操はすぐ筆をとって、当手の軍勢ども、呉へ入るとも、龐統一家には、乱暴すべからず、違背の者は斬に処す――と誌し、大きな丞相印を捺して与えた。
 龐統は心のうちで、彼がこれまでのことをする以上は、彼もまったく自分の言にすっかり乗ったものと思ってもいいなと思った。しかしそのほくそ笑みをかくして、あくまでさあらぬ態をまもり、
「では行ってきます」と、恩を謝して別れた。
周瑜に気どられるなよ」と、幾たびも念を押しながら、曹操は自身で営門まで見送ってきた。龐統は別れを惜しむかの如く、幾たびも振り返りながら、やがて外陣の柵門をすぎ、江岸へ出て、そこにある小舟へ乗ろうとした。
 するとさっきから岸の辺に待ちうけていたらしい男が、この時、つと楊柳の陰から走り出して、
「曲者、待て」と、うしろから抱きついた。
 龐統は、ぎょっとして、両の脚を踏んばりながら振り向いた。
 その者は、身に道服を着、頭に竹の冠をいただいている。そして怖ろしい剛力だった。いかに身をもがいてみても、組みついた腕は、びくともしないのであった。
「曹丞相の客として、これに迎えられ、いま帰らんとするこの方にたいして、曲者とは何事だ、狂人か、汝は!」
 叱りつけると、男は、満身から声をふりしぼって、
「白々しい勿体顔。その顔、その弁で、丞相はあざむき得たかも知れんが、拙者の眼はだまされぬぞ。――呉の黄蓋周瑜がたくみに仕組んだ計画のもとに、先には苦肉の計をなして、闞沢を漁夫に窶して送り、また蔡仲蔡和などに書面を送らせ、いままた、汝、呉のために来て、大胆不敵にも丞相にまみえ、連環の計をささやいたるは、後日の戦いに、わが北軍の兵船をことごとく焼き払わんという肚に相違ない。――何でこのまま、江南に放してよいものか。さあもう一度中軍へ戻れ」
 ああ、百年目。
 大事はここに破れたかと、龐統はたましいを天外に飛ばしてしまった。

 彼は観念の眼を閉じた。
 万事休す――いたずらにもがく愚をやめて、龐統は相手の男へいった。
「いったい何者だ、おぬしは? 曹操の部下か」
「もとよりのこと」と男は、彼のからだを後ろから羽交い締めにしたまま、
「――この声を忘れたか。この俺を見わすれたか」と重ねて云った。
「何? 忘れたかとは」
徐庶だよ、俺は」
「えっ、徐庶だと」
「水鏡先生の門人徐元直。貴公とは、司馬徽が門で、石韜、崔州平、諸葛亮などの輩と、むかし度々お目にかかっている筈――」
「やあ、あの徐君か」と、龐統はいよいよ驚いて、彼の両手から、その体を解かれても、なお茫然立ちすくんで、相手のすがたを見まもりながら、
徐庶徐庶。君ならば、この龐統の意中は知っているはずだ。わが計を憐れめ。もし貴公がここでものをいえば、この龐統の一命はともかく、呉の国八十一州の百姓庶民が、魏軍の馬蹄に蹂躙される憂き目におちるのだ――億兆の呉民のために、見のがしてくれ」と、哀願した。
 すると、徐庶は、
「それはそっちの云うことでしょう。魏軍の側に立っていえば、呉の民は救われるか知らぬが、あなたをここで見のがせば、味方八十三万の人馬はことごとく焼き殺される。殲滅的な憂き目に遭う。――豈、これも憐れと見ずにはおられまいが」
「ううむ。……ここで君に見つかったのは天運だ。いずれともするがいい。もともと、自分がこれへ来たのは、一命すらない覚悟のうえだ。いざ、心のままに、殺すとも、曹操の前へひいて行くともいたせ」
「ああさすがは龐統先生」と徐庶は、その顔色も全身の構えも、平常の磊落な彼にかえって、
「もう、ご心配は無用」と、微笑した。そして、「実を申せば、以前、それがしは新野において、劉皇叔と主従のちぎりを結び、その折うけたご厚恩は今もって忘れ難く、身は曹操の陣へおいても、朝暮、胸に銘記いたしておる。――ただこれ一人の老母を曹操にとらわれたため、やむなくその麾下に留まっていたものの、今はその老母も相果ててこの世にはおりません。……が皇叔とお別れの折、たとえ曹操のもとへ去るとも、一生のあいだ、他人の為には、決して計を謀らずと、かたくお約束いたしてきた。故に、それがしこの陣にあって、先頃から曹操の許へ、ひそかに往来ある呉人の様子をうかがって、ははあ、さてはと、独り心のうちでうなずいてはいたが、誰にも、その裏に裏のあることは語らずにいたのです」
 と、初めて本心を打ち明け、龐統の驚きをなだめたが、さて困ったように、その後で相談した。
「……ですから、拙者は、何も知らない顔をしているが、やがて貴兄が呉へかえって、連環の計、火攻めの計など、一挙にその功を挙ぐるにいたれば、当然、かくいう徐庶が、魏の陣中にあって、焼き殺されてしまう。何とか、これを未然に遁れる工夫はないものでしょうか」
「それはいと易いことだ」と、龐統は、耳に口をよせて、何事かささやいた。
「なるほど、名案!」
 徐庶は、手をうった。それを機に、龐統は舟へとび乗る。――かくて二人は、人知れず、水と陸とに、別れ去った。
 程なく、曹操の陣中に、誰からともなく、こういう風説が立ち始めた。それは、
西涼馬超が、韓遂と共に、大軍を催して、叛旗をひるがえした。都の留守をうかがって、今や刻々、許都をさして進撃している……」
 というまことしやかな噂で、遠征久しき人心に多大な衝動を与えた。

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