孟獲

 南蛮国における「洞」は砦の意味であり、「洞の元帥」とはその群主をいう。
 いま国王孟獲は、部下の三洞の大将が、みな孔明に生擒られ、その軍勢も大半討たれたと聞いて、俄然、形相を変えた。
「よし、讐をとってやる」
 この孟獲という者の勢威と地位とは、南方蛮界の国々のうちでは、最も強大なものらしい。彼が率いてきた直属の軍隊は、いわゆる蛮社の黒い猛者どもだが、弓馬剣鎗を耀かし、怪奇な物の具を身につけ、赤幡、紅旗をなびかせ、なかなか中国の軍にも劣らない装備をもっているものだった。
 これが、端なくも、蜀の王平の先陣と、烈日の下に行き会った。王平は、馬を出して、
「野蛮王孟獲、ありや?」
 と呼ばわった。
 獅子の如く猛然と、声に応じて駈け寄ってきたのが、その孟獲と見えた。そのときの彼の扮装を原著にはこう描写している。

――孟獲、旗ノ下に、捲毛赤兎ノ馬ヲオドラセ、頭ニ羽毛宝玉冠ヲ載キ、身に瓔珞紅錦ノ袍ヲ着、腰ニ碾玉ノ獅子帯ヲ掛ケ、脚ニ鷹嘴抹緑ノ靴ヲ穿ツ。昂然トシテ左右ヲ顧ミ、松紋廂宝ノ剣ヲ手ニカケテ曰ウ。

「中国の人間どもは、孔明孔明とみな怖れるが、この孟獲の眼から見れば、一匹の象、一匹の牝豹にも足りない。いわんやその下の野狐城鼠どもをや。――やい、忙牙長、あいつを圧し潰せ」
 と彼は振り向いて、部下の一将へ頤をさした。
 忙牙長はおうっと吠えて、またがっている怪獣の尻をぴしっと革でなぐった。馬ではなく、それは大きな角を振り立てて来る水牛であった。
 王平と五、六合戦ったが、尋常な剣技では比較にならない。忙牙長はたちまちにして追い立てられた。
 部下の血を見ると孟獲は本来の蛮人性をあらわして、おのれと喚きざま、王平へ跳びかかってきた。王平は詐って逃げだした。
「ざまを見ろ、古廟の番人め(武神の木像をさしていう)引っ返せ」
 捲毛の赤馬に、旋風を立てながら、孟獲は追いかけてきた。
(頃はよし――)と眺めた関索の一軍は、突として、彼のうしろを中断し、その背後を脅かすと、またたちまち、張翼は右から、張嶷は左から、蛮軍をおおいつつんだ。
 無智の軍と、兵法ある軍との優劣は、余りにも明らかな結果を現わした。寸断された蛮軍は蜂の巣を叩かれたように混騒し、その逃げる方角すら一定の方向も持たない。
 孟獲はうかと熱湯へ手を突っこんだように狼狽した。急に一方の囲みを破って、錦帯山の方へ奔ったが、そこの谷間へかかると、谷の中からとうとうと金鼓や銅鑼の声がするし、道をかえて、峰へ登りかけると、岩の陰、木の陰から、彪々として、蜀の勇卒が、鼓を打ちつつ攻めてくる。
 中に、蜀の大将趙雲がいた。孟獲は胆を消して、渓流を跳び、沢を駈け、さながら美しき猛獣が最期を知るときのように逃げまわったが、すでに四山は蜀兵の鉄桶と化し、遁るべくもない有様であった。
 さも残念そうに、独り唸きながら、彼は馬を捨てて渓流のそばへ寄った。そして身をかがめて水を飲もうとすると、四方からまた喊の声と金鼓がこだまして鳴りひびく。
「……?」
 脅えの中に必死を持った形相は、何とも物凄い。彼は馬をそこへ捨てたまま、木の根、岩かどにしがみついて、道なき所を越えはじめた。そして嶺の上に出て、ほっと一息ついているところを、趙雲の手によって、難なく囚えられてしまった。
 縄目も、ただの縄をかけたのでは、ぷつぷつ断ってしまうし、暴れる、吠える、ほとんど手がつけられない。で革紐をもってきびしく縛め、屈強な力士が十重二十重に囲んでこれを孔明の本陣まで引っ立てて行ったが、陣内へ押し込むときも一暴れして、三、四人の兵が蹴殺されたほどだった。
 しかし、営中まで引きずってくると、御林の旗幡は整々と並び、氷雪をあざむく戟や鎗は凛々と篝火に映え、威厳森々たるものがあるので、さすがの蛮王も身をすくめてただ爛たる眼ばかりキョロキョロうごかしていた。

 営内の裏には、さきに俘虜とした大量の蛮兵が、真っ黒にかたまっていた。いま孔明はそこへ出て、戒諭を与えていた。
「汝らといえども、虫獣ではあるまい。父母もあろう、妻子もあろう。生擒られたと聞いたら、それらの者は血をながして悲泣するであろうに、何で無益にその生命を争って捨てに来るのか。ふたたび孟獲の如き兇悪を助けて、あたら生命を捨てるではないぞ」
 もちろん、孔明は全部の者を解き放す考えである。のみならず、酒を飲ませ、糧を与え、負傷者には、薬治をして、追い放してやった。
 無智な土蛮の者といえども、その恩にはみな感じた。いや中国の兵よりも正直に感銘して、振り返り振り返り立ち去った。
 彼が営中の一房へもどって来ると、ちょうどそこへ武士たちが孟獲を引っ立ててきた。孟獲は孔明のすがたを見ると、牙をむいて跳びかかりそうな顔をした。
「どうした? 孟獲」
 孔明はすこし揶揄をもてあそびながら、温容なごやかに訊問した。
「わが蜀の先帝には、常々、蛮王蛮王と汝を称ばれて、汝に目をかけ給うたこと、一通りでなかった。さるを恩を忘れて魏と通じ、魏が屏息するや、また自ら無謀の乱をなすとは何事か」
 孟獲はせせら笑った。何か咬んでいるようにもぐもぐ口の端から泡を出して独り語をいっていたが、やがて、猩々が腹を掻くときのように、ぬうと胸を反らすと、ぎょろりと孔明をにらみつけて、
「ばかをいえ。たわごとを吐かせ。もともと、両川の地は、旧蜀のもので、今の蜀のものじゃない。益州の南だってそうだ。この俺のものだ。玄徳の領分でもなかったし、劉禅の土地でもない。そこで俺が何をしようと、俺の勝手ではないか。境を侵したの、謀叛をするのと、俺の耳に通用しない文句を並べたところで、この孟獲にはちゃんちゃらおかしくなるばかりだ。あはッははは」
「気のどくだが孟獲、真面目になって、お前と理論を闘わす気にはなれぬよ。――そこで武力をもって教えたのだが、いかに歯ぎしりしても、汝はすでに、孔明に捕われている者だぞ、俘虜には何をいう権能もない。なぜわが軍に生擒られたか」
「錦帯山の道が狭くて思うまま俺の力が出せなかったからだ」
「そうか、地の利を得なかったためか」
「誤まって生擒られたが、たとえ身は縛し得ても、俺の心は縛し得まい」
「汝も時には、うまいことをいう。心から服さぬものは是非もない。縄を解いて放してつかわそう」
 そういったら、たちまち情に打たれて面もやわらげ、急に生命をも惜しむか――とながめていると、孟獲の場合はまったく正反対であった。
「ようし。もし俺の縄を解いて放して帰すなら、きっと兵力を立て直して、ふたたびうぬと雌雄を決してみせる。尋常に戦えば、うぬらに負ける孟獲じゃあない」
「おもしろい。ふたたび来て、ぜひ戦え。孔明も汝が心から服するまで戦うであろう」
 彼は、武士に告げて、孟獲を解いてやれといった。これを知って営中の諸大将は動揺した。せっかく捕ったものを――と残念がる者、いいのかしら? ――と不安がる者、さまざまな感情がそこへ反映したが、孔明は少しも意にかける容子とてなく、酒を取り寄せて、
「飲んで帰れ」と、孟獲にすすめていた。
 初めは、非常に疑っている顔いろだったが、同じ酒壺の酒を孔明も共に飲んで他事なく話しかけるので、孟獲も果ては大盃でがぶがぶ飲み乾した。そして営門の裏から送り出されるや、罠を脱した猛虎が洞へ急ぐように、後も見ずに何処かへ消えて失くなった。
 拳を握りながら、それを見送っていた諸将は、口をそろえて、
「わからぬ。丞相のお心は我らにはとんと合点がまいらぬ」
 不満と嘲笑を半ばにして云い合った。
 孔明は笑った。
「何の、彼ごとき者を生擒るのは嚢の中から物を取りだすも同じことではないか」

前の章 出師の巻 第36章 次の章
Last updated 1 day ago