鶏家全慶
一
渭水の早馬は櫛の歯をひくように洛陽へ急を告げた。
そのことごとくが敗報である。
魏帝曹叡は、色を失い、群臣を会して、誰かいま国を救う者はなきや、と憂いにみちて云った。
華歆が奏した。
「この上は、ただ帝みずから、御輦を渭水へすすめ、以て、三軍の士気をふるわせ給うしかありますまい。ただ幾人もの大将をお代えあっても、それはいよいよ敵をして図に乗らせるばかりでありましょう」
太傅鍾繇は、否と、反対して、
「――彼ヲ知リ、己ヲ知ルトキハ百度戦ッテ百度勝ツ――と古語にあります。曹真はすでに初めから孔明の相手としては不足でした。いま帝みずからご進発あられてもその短を補うほどの効果は期し難く、万一、さらにまた敗れんか、魏一国の生命にかかわりましょう。――むしろこの際、野に隠れたる大人物を挙げ、これに印綬を下し給うて、孔明をして窮せしめるに如く策はありません」と、のべた。
鍾繇は、魏の大老である。野に隠れたる大人物とは、いったい誰をさしていうのか。叡帝は忌憚なくそれを薦げよといった。
「その人とはほかならぬかの司馬懿仲達であります。先年、敵の反間に乗せられ給い、市井の流言を信じて彼をご追放になりましたことは、かえすがえすも惜しいことでした。――聞説、いま司馬懿は、郷里の宛城に閑居しておるとか、あの大英才を国家が埋れ木にしている法はありません。よろしく、今日こそ、お召し出しあるべきでございます」
叡帝は悔いをあらわした。日頃からの傷みである。いまそれを鍾繇に指摘されると、さらに面に濃くして、
「朕一代の過ちであった。しかし冤を恨んで深く郷藪に隠れた彼、にわかに命を奉じるであろうか」
「いや、勅使をお降しあれば、元来憂国の人、かならず御命にこたえましょう」
さらばと、勅使をして、平西都督の印綬を持たせ、また詔をもって、事にわかに、
(汝、国を憂い、南陽諸道の軍馬を糾合して、日を期し、長安に出るあらば、朕また鸞駕を備えて長安へむかい、相会してともに孔明をやぶらん)と、伝えさせた。
この日頃。
一方、祁山の陣にある孔明は、
「機運すでに熟す。この上は長安を乗っ取り、なお長駆して洛陽に入ろう」
と、連戦連勝の機をはずさずに、一挙、魏の中核を衝かんものと準備していた。
ところへ、白帝城の鎮守李厳の一子李豊が、唐突にやって来た。
(さては、呉がうごき出したのではないか。凡事ではあるまい)
白帝城のある所の地理上から、孔明はそう考えたのであるが、呼び入れて、会ってみると、李豊はそんな気もなく、
「今日は、父に代って、よろこび事をお伝えにきました」と、いうのであった。
「はて、慶び事とは」
「ご記憶でございましょう。むかし関羽将軍が荊州で敗れたとき、その禍因をなしたあの孟達を。――蜀に反いて魏へ降った孟達ですが」
「忘れはせぬ。その孟達がまた何としたか」
「かような仔細であります」
李豊がいうことはこうだった。孟達は魏に降ってから、ひとたびは曹丕の信寵もうけたが、曹丕歿後、新帝曹叡の代になってからは、ほとんど顧みられなくなり、近頃はことに、何かにつけ、軽んじられ、また以前蜀臣だった関係から猜疑の眼で見られるので、怏々として楽しまない心境にある。彼の部下も今では、故国の蜀を恋う者が多く、祁山渭水の戦況を聞くにつけ、なぜ蜀を離れたかを、今ではいたく後悔している。
――で遂に、孟達は、そうした心境を綿々と書中に託して、
(どうか、この趣を、諸葛丞相に取次いでくれ)
と、帰参の斡旋方を、李豊の父、白帝城の李厳へすがって来たものであった。
二
李豊は、以上のいきさつを、あらまし伝えてから、
「――そこで実は、父の李厳がいちど孟達と会いました。孟達がいうには、自分の心根は、魏の五路の大軍を起して蜀へ入ろうとした折のことで、丞相がよく酌んでいて下さると思う。どうか帰参のかなうように取りなして欲しい。もしお聞き入れ下されば、このたび諸葛丞相が長安へ攻め入るとき、自分は新城、上庸、金城の勢をあつめて、直ちに、洛陽を衝き、不日に魏国全土を崩壊させてお見せする。――と、さように父へ申したということなのでございますが」
孔明は、手を打って、
「なるほど、近頃にない慶び事だ。よく伝えてくれた」と、かぎりなく歓び、
「いま孟達が本然の心に立ちかえって、わが蜀を援け、わが軍が外より攻め入る一方、彼が内より起って洛陽をつけば、天下の相は即日あらたまろう」
と、李を篤くねぎらって、幕将たちと共に酒宴を催していた。ところへ、早馬があって、
「魏王曹叡が、宛城へ勅使を馳せつかわして、閑居の司馬懿仲達を平西都督に封じ、強って彼の出廬を促しているもようにうかがわれます」
と、告げた。聞くと、愕然、
「……なに、司馬懿を」
孔明は首を垂れて、その酔色すらいちどに褪せてしまった。そばに在った参軍の馬謖が、
「丞相、いかがなさいました。何をそんなにお驚き遊ばすのですか。多寡が、司馬懿ごときに」
と、むしろ怪しむかのようにたずねた。
「いや、そうでない」と、孔明は重くかぶりを振って反対に諭した。
「わが観るところでは、魏で人物らしい者は、司馬懿一人といってもよい。孔明のひそかに怖るる者も実にその司馬懿仲達一箇にあった。……いま孟達の内応をよろこび合っていたところだが、それすら悪くすると、司馬懿のために覆されるかもしれん。……実に悪い折に悪い者が魏に立った」
「では、急使を立てて、孟達にその旨を、心づけてやっては如何です」
「もとよりそれを急がねばなるまい。すぐ早馬の支度を命じ、使いの者を選んでおけ」
と、孔明は、席を中座して孟達へ与える書簡をしたためた。急使は、その夜すぐ立って、孟達のいる新城へいそいだ。孔明からの手紙と聞き、孟達は、さては李厳が自分の意を伝えてくれたなと、喜色満面にこれをひらいてみると、その事は許容されてあったが、終りの章に、すこし気にくわない辞句があった。――それは、魏帝の命によって、司馬懿が宛城から起ったことを告げたもので、それだけならよいが、司馬懿の智略をすくなからず称え、それに対処する万全の策を、何くれとなくこまごま注意してあることだった。
「なるほど、うわさの如く、諸葛亮は疑い深い仁だ……」
彼は、あざ笑って、ほとんど、歯牙にもかけず、書簡を巻いてしまった。そして自分の方から孔明へ返書をかき、すぐ使いの者に持たせて帰した。
待ちかねていた孔明の手へやがて返書がとどいた。だが孔明は、一読するや否や、
「咄。なんたる浅慮者だろう」
と、それを拳の中に握りつぶした。それでもまだ罵りきれないように、
「見よ汝孟達。そんな盲目にひとしい心構えでは、かならず司馬懿の手に死すであろう。……ああ、ぜひもない」と、暗涙をたたえたまま、しばし天井を仰いでいた。
「丞相、何をお歎きですか」
「馬謖か。この手紙を見い。……孟達の書簡によれば、たとえ司馬懿が自分の新城へ襲せてくるにしても、洛陽へ上って、任官の式を行い、それから出向いてくることゆえ、早くても一ヵ月の余はかかる。その間に守備は充分ととのうからご心配は無用と認めてある。得々として、司馬懿仲達の如き何する者ぞと、ひとり暢気に豪語をならべておるではないか。……もう駄目だ。もういかん」
「はて。なぜいけませんか」
「――ソノ備エザルヲ収メ、ソノ不意ニ出ヅ。これしきの兵法を活用できぬ仲達ではない。彼はおそらく洛陽に上ることを後とし、直線に宛城から孟達を衝くだろう。その日数は、ふたたび孟達へ、こちらから戒告の使いをやる暇よりは、ずっと速い。事すでに遅しだ――」
三
長嘆して――大事すでに去る――とはいったものの、孔明はなお諦めかねたか、すぐまた、戒告の一書を封じて、
「昼夜馬を飛ばして行け」
と、ふたたび新城へ使いを走らせておいた。
ここに。
郷里宛城の田舎に引籠っていた司馬懿仲達は、退官ののちは、まったく閑居の好々爺になりすまし、兄司馬師、弟司馬昭のふたりの息子あいてに、至極うららかに生活していた。この息子ふたりも、胆大智密、いずれも兵書を深く究め、父の眼に見ても、末たのもしい好青年だった。
きょうも二人して、父の書斎へ入ってきたが、父の顔いろが、どうもすぐれて見えない。そこで、弟の司馬昭がたずねた。
「お父上、何をふさいでいらっしゃるんです?」
「うーむ。何もふさいでやせんがな」
仲達は、節の太い指を櫛にして、そのまばらな長髯をしごいた。
兄の司馬師が父の晴れない眉をうかがって云った。
「私には分っている。お父上のお胸にはいま鬱勃たるものがわいているのだ」
「うるさいよ。お前たちに何がわかるもんではない」
「いいえ、きっとそうです。思うに、お父上は、天子からお招きがないのを嘆いておられるのでしょう」
「なんじゃ?」
すると、弟の司馬昭も、
「それならば、くよくよする事はありませんよ。きっと来る。近いうちにきっとお召しが来る」
と、大きな声で断言した。
司馬懿は、刮目して、
「おおっ、わしの家からまたも、この麒麟児が生れ出たか」
とわが子ながら見惚れて云った。
それから幾日も経たないうちである。果たして、勅使が、この門を訪れた。
もちろん司馬懿は、大命を拝受し、同時に一族、郎党を集めて、直ちに、檄を宛城諸道へ配布した。
日頃、彼の名をしたい、彼の風を望む者少なくない。郷関はたちまち軍馬でうずまる。しかも仲達は、その兵員が予定数に達することなどを悠々待ってはいなかった。
その日から行軍を開始していたのである。募りに遅れた兵は、後からそれを追いかけて軍に投じた。だからその行軍は道を進んでゆけば行くほど軍勢を増大していた。なぜ、こう急いだか。――いえばそれには、重大原因がある。すでにして彼は田舎にいても魏蜀の戦況はつぶさにしていたし、また近頃、新城の孟達、叛意の兆しある気ぶりを、ひそかに耳にしていたからである。
それを司馬懿に密告してきたのは、金城の太守申儀の一家臣だった。孟達は、金城と上庸の両太守に、すでに秘事をうちあけて、洛陽攪乱の計をそろそろ画策し始めていたのであった。
仲達は、重大視した。
もしその謀略が成らんか、魏はいかに大国なりとも、内部から崩壊せずにいられない。
実に、彼が数日の懊悩は、そこに憂いがあったのである。退官以来かつてそんな憂鬱の色とてない父の日常に照らして、はやくもその原因と来るべき必然の機運を察知していた司馬家のふたり兄弟も、また父にまさるとも劣らぬ子だといわなければならない。
「未然これを知る。魏の国運、天子の洪福、ふたつながらまず目出度しというべきである。何にしても、もし今日、司馬一家が出なかったら、洛陽長安、一時に潰えたであろう」
彼は、額をたたいて、この吉事に発したる軍隊であると称え、洛陽へは向わず、一路、新城へさして急いだ。
息子たちは、少し案じて、
「お父上。いちど洛陽へ上って、親しく闕下に伏し、正式の勅命を仰がなくてもよろしいのですか」
「よいのじゃよ。そんな遑はない」
と、彼らの父は答えた。司馬仲達の急ぎに急いでいた理由は、果たせるかな、孔明がおそれつつも予察していたところと、まったく合致していたのである。