七歩の詩

 曹丕が甚だしく怒った理由というのはこうであった。
 以下、すなわち令旨をたずさえて、曹植のところから帰ってきた使者の談話である。
「――私が伺いました日も、うわさに違わず、臨淄曹植様には、丁儀、丁廙などという寵臣を侍らせて、前の夜からご酒宴のようでした。それはまアよいとしても、かりそめにも御兄上魏王の令旨をもたらして参った使者と聞いたら、口を含嗽し、席を清めて、謹んでお迎えあるべきに、座もうごかず、杯盤の間へ私を通し、あまつさえ臣下の丁儀が頭から使者たる手前に向って……汝、みだりに舌を動かすな。そもそも、先王ご存命のとき、すでに一度は、わが殿、曹植の君を太子に立てんと、明らかに仰せ出されたことがあったのだ。しかるに、讒者の言に邪げられ、ついにその事なく薨去せられたが、その大葬のすむや否、わが曹植の君に、問罪の使いを向けてよこすとは何事だ。いったい曹丕という君はそんな暗君なのか。……左右に良い臣もいないのか……。と、いやはや口を極めて罵りまする。するとまた、もうひとりの丁廙という家臣も口をそろえて。……知らずや汝、わが主曹植の君には、学徳世に超えたまい、詩藻は御ゆたかに、筆をとればたちまち章をなし、たちまち玉を成す。しかも生れながら王者の風を備えられておる。汝の侍く曹丕などとは天稟がちがう。わけて汝ら廟堂の臣ども、みなこれ凡眼の愚夫、豈、賢主暗君の見分けがつこうや。……と、まるでもうてんから頭ごなしで、二の句もいわせぬ権まくですから、ぜひなくただ令旨をお伝えしただけで、ほうほうの態にて立ち帰って参りましたような次第で――」
 かくて曹丕の一旦の怒りは、ついに兄弟墻にせめぐの形を取ってあらわれた。彼の厳命をうけた許褚は、精兵三千余をひっさげて、直ちに、曹植の居城臨淄へ殺到した。
「われらは王軍である」
「令旨の軍隊だぞ」
 許褚の将士は、口々にいって、門の守兵を四角八面に踏みちらし突き殺し、拒ぎ闘うひまも与えず閣中へ混み入って、折ふし今日も遊宴していた丁儀、丁廙を始め、弟君の植をも、ことごとく捕縛して車に乗せ、たちまち、鄴の魏城へ帰ってきた。
 憎悪の炎を面に燃やして、曹丕は一類を階下にひかせて、一眄をくれるや否、
「まず、その二人から先に誅殺を加えろ」
 と、許褚に命じた。
 剣光のひらめく下に、二つの首は無造作に転がった。階欄は朱に映え、地は紅の泉をなした。
 そのとき曹丕のうしろにあわただしい跫音が聞え、魂げるような老女の泣き声が彼の足もとへすがった。――ふたりの家臣が目のまえに斬られて、血しおの中に喪心していた曹植が、その蒼ざめた顔をあげてふと見ると、それは自分たち兄弟を生んだ実の母たる卞氏であった。
「あっ……わが母公」
 植は思わず伸び上がって嬰児の如く哀れを乞う手をさし伸べると、老母は涙の目できっと睨めつけて、
「植……なぜ先王の御大葬にも会さなかったんですか。おまえのような不孝者はありません」
 と、烈しく叱って、そして曹丕の裳を持った手は離さずに、
「丕よ、丕よ。ちょっと、妾のはなしを聞いておくれ。後生、一生のおねがいだから」
 と、強ってわが子を引っ張って、偏殿の陰へ伴い、どうか同胞の情をもって、植の一命は助けてあげておくれと、老いの眼もつぶれんばかり泣き濡れて曹丕へ頼んだ。
「もう、もう……そんなにお嘆きなさいますな。なあに、もとより弟を殺す気なんかありません。ただ懲らしめのためですから」
 曹丕はそのまま奥へ隠れて数日は政を執る朝にも姿を見せなかった。
 華歆がそっと来て、彼の機嫌を伺った。そしてはなしのついでに、
「先日、母公が何か仰っしゃったでしょう。――曹植を廃すなかれ、と御意遊ばしはしませんか」
「相国はどこでそれを聞いておったのか?」
「いえ、立ち聞きなどは致しませんが、それくらいなことは分りきっています。が、大王のご決心は、いったいどうなのか、それは未だ私には分っておりません」

 華歆はなおことばを続けた。
「あのご舎弟の才能は、好いわ好いわでほうっておくと、周囲の者が担ぎあげて、池中の物としておかんでしょう。今のうちに、除いておしまいにならないと、後には大きな患いですぞ」
「……でも。予は母公に、もう約束してしまったからの」
「何とお約束なさいました」
「かならず弟の曹植を廃すようなことはせぬと……」
「なぜそんなことを」と、華歆は舌打ちして、
「でなくてさえ、曹家の才華は植弟君にある、植弟君が口を開けば、声は章をなし、咳唾はを成すなどと、みな云っています。恐れながら、その衆評はみな暗に兄君たるあなたの才徳を晦うするものではありませんか」
「でも、ぜひがあるまい」
「いやいや。ひとつかように遊ばしては如何……」と、華歆は主君の耳へ口をよせた。曹丕の面は弟の天分に対して、嫉妬の情を隠しきれなかった。佞臣の甘言は、若い主君の弱点をついた。
 彼の入れ智慧は、こうであった。今この所へ曹植を呼びだし、その詩才を試してみて、もし不出来だったらそれを口実に殺しておしまいなさい。また噂のとおりな才華を示したら、官爵を貶して、遠地へ追い、この天下繁忙の時代に、詩文にのみ耽っている輩の見せしめとしたらよろしいでしょう。一挙両得の策というものではありませんか。
「よかろう。すぐ呼び出せ」
 曹丕の召しに、植は恐れわななきながら兄の室へひかれて来た。丕は、強いて冷やかに告げた。
「こら弟、いや曹植。――平常の家法では兄弟だが国法においては君臣である。そのつもりで聞けよ」
「はい」
「先王も詩文がお好きだったので、汝はよく詩を賦して媚びへつらい、兄弟中でも一番愛せられていたが、その頃からひそかに他の兄弟たちも云っていた。植の詩は、あれは植が作るのではない、彼の側に詩文の名家がいて代作しているのだと。――予も実は疑っておる。嘘か実か、今日はここでその才を試してみようと思う。もし予の疑いがはれたら命は助けてやるが、その反対だった場合は、長く先王を欺き奉った罪を即座に糺すぞ。異存はないか」
 すると曹植は、それまでの暗い眉を急ににこと開いて、
「はい。ありません」
 と、神妙に答えた。
 曹丕は、壁に懸っている大幅古画を指さした。二頭の牛の格闘を描いた墨画で、それへ蒼古な書体をもって何人かが、

二頭闘檣下牛墜井死

 と賛してあったが、その題賛の字句を一字も用いないで、闘牛の詩を作ってみよという難題を、植に与えた。
「料紙と筆をおかし下さい」
 と乞いうけて、植はたちどころに一詩を賦して兄の手もとへ出した。牛という字も、闘という字も用いずに、立派な闘牛之詩が賦されてあった。
 曹丕も大勢の臣も、舌をまいてその才に驚いた。華歆はあわてて几の下からそっと曹丕の手へ何か書いたものを渡した。曹丕は眼をふと俯せてそれを見ると、たちまち声を高めて次の難題を出した。
「植っ。起て――そして室内を七歩あゆめ。もし七歩あゆむ間に、一詩を作らなければ、汝の首は、八歩目に、直ちに床へ落ちているものと思え」
「はい……」
 植は、壁へ向って、歩み出した。一歩、二歩、三歩と。そして歩と共に哀吟した。

豆ヲ煮ルニ豆ノ萁ヲ燃ク
豆ハ釜中ニ在ッテ泣ク
本是レ同根ヨリ生ズルヲ
相煎ルコト何ゾ太ダ急ナル

「…………」
 さすがの曹丕もついに涙を流し、群臣もみな泣いた。詩は人の心琴を奏で人の血を搏つ。曹植の詩は曹植のいのちを救った。即日、安郷侯に貶されて、孤影を馬の背に託し、悄然兄の魏王宮から別れ去ったのである。

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