白芙蓉

 それは約五十名ほどの賊の小隊であった。中に驢に乗っている二、三の賊将が鉄鞭を指して、何かいっていたように見えたが、やがて、馬元義の姿を見かけたか、寺のほうへ向って、一散に近づいてきた。
「やあ、李朱氾。遅かったじゃないか」
 こなたの馬元義も、段から伸び上がっていうと、
「おう大方、これにいたか」と、李と呼ばれた男も、そのほかの仲間も、つづいて驢の鞍から降りながら、
「峠の孔子廟で待っているというから、あれへ行った所、姿が見えないので、俺たちこそ、大まごつきだ。遅いどころじゃない」と、汗をふきふき、かえって馬元義に向って、不平を並べたが、同類の冗談半分とみえて、責められた馬のほうも、げらげら笑うのみだった。
「ところで、ゆうべの収穫はどうだな。洛陽船を的に、だいぶ諸方の商人が泊っていた筈だが」
「大していう程の収穫もなかったが、一村焼き払っただけの物はあった。その財物は皆、荷駄にして、例の通りわれわれの営倉へ送っておいたが」
「近頃は人民どもも、金は埋けて隠しておく方法をおぼえたり、商人なども、隊伍を組んで、俺たちが襲うまえに、うまく逃げ散ってしまうので、だんだん以前のようにうまいわけには行かなくなったなあ」
「ウム、そういえば、先夜も一人惜しいやつを取逃がしたよ」
「惜しい奴? ――それは何か高価な財宝でも持っていたのか」
「なあに、砂金や宝じゃないが、洛陽船から、茶を交易した男があるんだ。知っての通り、盟主張角様には、茶ときては、眼のない好物。これはぜひ掠めとって、大賢良師へご献納もうそうと、そいつの泊った旅籠も目ぼしをつけておき、その近所から焼き払って踏みこんだところ、いつの間にか、逃げ失せてしまって、とうとう見つからない。――こいつあ近頃の失策だったよ」
 賊の李朱氾は、劉備のすぐそばで、それを大声で話しているのだった。
 劉備は、驚いた。
 そして思わず、懐中に秘していた錫の小さい茶壺をそっとさわってみた。
 すると、馬元義は、
「ふーむ」と、うめきながら、改めて後ろにいる劉青年を振向いてから、さらに、李へ向って、
「それは、幾歳ぐらいな男か」
「そうさな。俺も見たわけでないが、嗅ぎつけた部下のはなしによると、まだ若いみすぼらしい風態の男だが、どこか凛然としているから、油断のならない人間かも知れないといっていたが」
「じゃあ、この男ではないのか」
 馬元義は、すぐ傍らにいる劉備を指さして、いった。
「え?」
 李は、意外な顔をしたが、馬元義から仔細を聞くとにわかに怪しみ疑って、
「そいつかもしれない。――おういっ、丁峰、丁峰」
 と、池畔に屯させてある部下の群れへ向ってどなった。
 手下の丁峰は、呼ばれて、屯の中から馳けてきた。李は、黄河で茶を交易した若者は、この男ではないかと、劉の顔を指さして、質問した。
 丁は、劉青年を見ると、惑うこともなくすぐ答えた。
「あ。この男です。この若い男に違いありません」
「よし」
 李は、そういって、丁峰を退けると、馬元義と共に、いきなり劉備の両手を左右からねじあげた。

「こら、貴様は茶をかくしているというじゃないか。その茶壺をこれへ出してしまえ」
 馬元義も責め、李朱氾も共に、劉備のきき腕を、ねじ抑えながら脅した。
「出さぬと、ぶった斬るぞ。今もいった通り、張角良師のご好物だが、良師のご威勢でさえ、めったに手にはいらぬ程の物だ。貴様のような下民などが、茶を持ったところで、何となるものか。われわれの手を経て、良師へ献納してしまえ」
 劉備は、云いのがれのきかないことを、はやくも観念した。しかし、故郷の母が、いかにそれを楽しみに待っているかを思うと、自分の生命を求められたより辛かった。
(何とか、ここをのがれる工夫はないものか)
 となお、未練をもって、両手の痛みをこらえていると、李朱氾の靴は、気早に劉備の腰を蹴とばして、「唖か、つんぼか、おのれは」と、罵った。
 そして、よろめく劉備の襟がみを、つかみもどして、
「あれに、血に飢えている五十の部下がこちらを見て、餌を欲しがっているのが、眼に見えないか。返辞をしろ」と、威猛高にいった。
 劉備は二人の土足の前へ、そうしてひれ伏したまま、まだ、母の歓びを売って、この場を助かる気持になれないでいたが、ふと、眼を上げると、寺門の陰にたたずんで、こちらを覗いていた最前の老僧が、
(物など惜しむことはない。求める物は、何でも与えてしまえ、与えてしまえ)
 と、手真似をもって、しきりと彼の善処をうながしている。
 劉備もすぐ、(そうだ。この身体を傷つけたら、母にも大不孝となる)と思って、心をきめたが、それでもまだ懐中の茶壺は出さなかった。腰に佩いている剣の帯革を解いて、
「これこそは、父の遺物ですから、自分の生命の次の物ですが、これを献上します。ですから、茶だけは見のがして下さい」と哀願した。
 すると、馬元義は、
「おう、その剣は、俺がさっきから眼をつけていたのだ。貰っておいてやる」と奪り上げて、「茶のことは、俺は知らん」と、空うそぶいた。
 李朱氾は、前にもまして怒りだして、一方へ剣を渡して、俺になぜ茶壺を渡さないかと責めた。
 劉備は、やむなく、肌深く持っていた錫の小壺まで出してしまった。李は、宝をえたように、両掌を捧げて、
「これだ、これだ。洛陽の銘葉に違いない。さだめし良師がおよろこびになるだろう」と、いった。
 賊の小隊はすぐ先へ出発する予定らしかったが、ひとりの物見が来て、ここから十里ほどの先の河べりに、県の吏軍が約五百ほど野陣を張り、われわれを捜索しているらしいという報告をもたらした。で、にわかに、「では、今夜はここへ泊れ」となって、約五十の黄巾賊は、そのまま寺を宿舎にして、携帯の糧嚢を解きはじめた。
 夕方の炊事の混雑をうかがって、劉備は今こそ逃げるによい機と、薄暮の門を、そっと外へ踏みだしかけた。
「おい。どこへ行く」
 賊の哨兵は、見つけるとたちまち、大勢して彼を包囲し、奥にいる馬元義李朱氾へすぐ知らせた。

 劉備は縛められて、斎堂の丸柱にくくりつけられた。
 そこは床に瓦を敷き詰め、太い丸柱と、小さい窓しかない室だった。
「やい劉。貴様は、おれの眼をかすめて、逃げようとしたそうだな。察するところ、てめえは官の密偵だろう。いいや違えねえ。きっと県軍のまわし者だ。――今夜、十里ほど先まで、県軍がきて野陣を張っているそうだから、それへ連絡を取るために、脱け出そうとしたのだろう」
 馬元義李朱氾は、かわるがわるに来て、彼を拷問した。
「――道理で、貴様の面がまえは、凡者でないはずだ。県軍のまわし者でなければ、洛陽の直属の隠密か。いずれにしても、官人だろうてめえは。――さ、泥を吐け。いわねば、痛い思いをするだけだぞ」
 しまいには、馬と李と、二人がかりで、劉を蹴って罵った。
 劉は一口も物をいわなかった。こうなったからには、天命にまかせようと観念しているふうだった。
「こりゃひと筋縄では口をあかんぞ」
 李は、持てあまし気味に、馬へ向ってこう提議した。
「いずれ明日の早暁、俺はここを出発して、張角良師の総督府へ参り、例の茶壺を献上かたがた良師のご機嫌伺いに出るつもりだが、その折、こいつも引っ立てて行って、大方軍本部の軍法会議にさし廻してみたらどうだろう。思いがけない拾いものになるかもしれぬぜ」
 よかろうと、馬も同意だ。
 斎堂の扉は、かたく閉められてしまった。夜が更けると、ただ一つの高い窓から、今夜も銀河の秋天が冴えて見える。けれどとうてい、そこからのがれ出る工夫はない。
 どこかで、馬のいななきがする。官の県軍が攻めてきたのならよいが――と劉備は、望みをつないだが、それは物見から帰ってきた二、三の賊兵らしく、後は寂として、物音もなかった。
「母へ孝養を努めようとして、かえって大不孝の子となってしまった。死ぬる身は惜しくもないが、老母の余生を悲しませ、不孝の屍を野にさらすのは悲しいことだ」
 劉備は、星を仰いで嘆いた。そして、孝行するにも、身に不相応な望みを持ったのが悪かったと悔いた。
 賊府へひかれて、人中で生恥さらして殺されるよりは、いっそ、ここで、ひと思いに死なんか――と考えた。
 死ぬにも、身に剣はなかった。柱に頭を打ちつけて憤死するか。舌を噛んで星夜をねめつけながら呪死せんか。
 劉備は、悶々と、迷った。
 ――すると彼の眸の前に一筋の縄が下がってきた。それは神の意志によって下がってくるように、高い切窓の口からの壁に伝わってスルスルと垂れてきたのである。
「……あ?」
 人影もなにも見えない、ただ四角な星空があるだけだった。
 劉備は、身を起しかけた。しかしすぐ無益であることを知った。身は縛めにかかっている、この縄目の解けない以上、救い手がそこまで来ていても、すがりつく術はない。
「……ああ、誰だろう?」
 誰か、窓の下へ、救いに来ている。外で自分を待っていてくれる者がある。劉備は、なおさらもがいた。
 と、――彼の行動が遅いので、早くしろとうながすように、外の者は焦れているのであろう。高窓から垂れている縄が左右に動いた。そして縄の端に結いつけてあった短剣が、白い魚のように、コトコトと瓦の床を打って躍った。

 足の先で、短剣を寄せた。そしてようやく、それを手にして、自身の縄目を断ち切ると、劉備は、窓の下に立った。
(早く。早く)といわんばかりに、無言の縄は外から意志を伝えて、ゆれうごいている。
 劉備は、それにつかまった。壁に足をかけて、窓から外を見た。
「……オオ」
 外にたたずんでいたのは、昼間、ただひとりで曲彔に腰かけていたあの老僧だ。骨と皮ばかりのような彼の細い影であった。
「――今だよ」
 その手がさしまねく。
 劉備はすぐ地上へ跳びおりた。待っていた老僧は、彼の身を抱えるようにして、物もいわず馳けだした。
 寺の裏に、疎林があった。樹の間の細道さえ、銀河の秋はほの明るい。
「老僧、老僧。いったいどっちへ逃げるんですか」
「まだ、逃げるのじゃない」
「では、どうするんです」
「あの塔まで行ってもらうのじゃよ」
 走りながら、老僧は指さした。
 見るとなるほど、疎林の奥に、疎林の梢よりも、高くそびえている古い塔がある。老僧は、あわただしく古塔の扉をひらいて中へ隠れた。そしてあんなに急いだのに、なかなか出てこなかった。
「どうしたのだろう?」
 劉備は気を揉んでいる。そして賊兵が追ってきはしまいかと、あちこち見まわしているとやがて、
「青年、青年」
 小声で呼びながら、塔の中から老僧は何かひきながら出てきた。
「おや?」
 劉備は眼をみはった。老僧が引っぱっているのは駒の手綱だった。銀毛のように美しい白馬がひかれだしたのである。
 いや、いや、白馬の毛並の見事さや、背の鞍の華麗などはまだいうも愚かであった。その駒に続いて、後ろから歩みも嫋かに、世間の風にも怖れるもののように、楚々と姿をあらわした美人がある。眉の麗しさ、耳の白さ、また、眼にふくむ愁いの悩ましいばかりなど、思いがけぬ場合ではあり、星夜の光に見るせいか、この世の人とも思えぬのであった。
「青年。わしがお前を助けて上げたことを、恩としてくれるなら、逃げるついでに、このお嬢さまを連れて、ここから十里ほど北へ向った所の河べりに陣している県軍の隊まで、届けて上げてくれぬか。わずか十里じゃ、この白馬に鞭打てば――」
 老僧のことばに、劉備は、否やもなく、はいと答えるべきであるが、その任務よりも、届ける人のあまりに美し過ぎるので、なんとなくためらわれた。
 老僧は、彼のためらいを、どう解釈したか。
「そうだ、氏素性も知れない婦人をと、疑ぐっておるのじゃろうが、心配するな。このお方は、つい先頃までの、この地方県城を預かっておられた領主のお嬢さまじゃ。黄巾賊の乱入にあって、県城は焼かれ、ご領主は殺され、家来は四散し、ここらの寺院さえ、あの通りに成り果てたが、その乱軍の中から迷うてござったお嬢さまを、実はわしが、ここの塔へそっと匿うて――」
 と、老僧の眼がふと、古塔の頂を見上げた時、疎林を渡る秋風の外に、にわかに、人の跫音や馬のいななきが聞えだした。

 劉備が、眼をくばると、
「いや、動かぬがよい。しばらくは、かえってここに、じっとしていたほうが……」
 と、老僧が彼の袖をとらえ、そんな危急の中になお、語りつづけた。
 県の城長の娘は、名を芙蓉といい姓は鴻ということ。また、今夜近くの河畔にきて宿陣している県軍は、きっと先に四散した城長の家臣が、残兵を集めて、黄巾賊へ報復を計っているに違いないということ。
 だから、芙蓉の身を、そこまで届けてくれさえすれば、後は以前の家来たちが守護してくれる――白馬の背へ二人してのって、抜け道から一気に逃げのびて行くように――と、祷るようにいうのだった。
「承知しました」
 劉備は、勇気を示して答えた。
「けれど和上、あなたはどうしますか」
「わしかの」
「そうです。私たちを逃がしたと賊に知られたら、和上の身は、ただでは済まないでしょう」
「案じることはない。生きていたとて、このさき幾年生きていられよう。ましてこの十数日は、草の根や虫などうて、露命をつないでいたはかない身じゃ。それも鴻家の阿嬢を助けて上げたい一心だけで生きていたが――今は、そのことも、頼む者に頼み果てたし、あなたという者をこの世に見出したので、思い残りは少しもない」
 老僧はそう云い終ると、風の如く、塔の中へ影をかくした。
 あれよと、芙蓉は、老僧を慕って追いすがったが、とたんに、塔の口もとの扉は内から閉じられていた。
「和上さま。和上さま!」
 芙蓉は慈父を失ったように、扉をたたいて泣いていたが、その時、高い塔の頂で、再び老僧の声がした。
「青年。わしの指をご覧。わしの指さすほうをご覧。――ここの疎林から西北だよ。北斗星がかがやいておる。それを的にどこまでも逃げてゆくがよい。南も東も蓮池の畔も、寺の近くにも、賊兵の影が道をふさいでいる。逃げる道は、西北しかない。それも今のうちじゃ。はやく白馬に鞭打たんか」
「はいっ」
 答えながら仰ぐと、老僧の影は、塔上の欄に立って、一方を指さしているのだった。
「佳人。はやくおのりなさい。泣いているところではない」
 劉備は、彼女の細腰を抱き上げて、白馬の鞍にすがらせた。
 芙蓉の体はいと軽かった。柔軟で高貴な薫りがあった。そして彼女の手は、劉備の肩にまとい、劉の頬は、彼女の黒髪にふれた。
 劉備も木ではない。かつて知らない動悸に、血が熱くなった。けれどそれは、地上から鞍の上まで、彼女の身を移すわずかな間でしかなかった。
「ご免」といいながら、劉備ものって一つ鞍へまたがった。そして片手に彼女をささえ、片手に白馬の手綱をとって、老僧の指さした方角へ馬首を向けた。
 塔上の老僧は、それを見おろすと、わが事おわれり――と思ったか、突然、歓喜の声をあげて、
「見よ、見よ。凶雲没して、明星出づ。白馬翔けて、黄塵滅す。――ここ数年を出でないうちじゃろう。青年よ、はや行け。おさらば」
 云い終ると、みずから舌を噛んで、塔上の欄から百尺下の大地へ、身を躍らして、五体の骨を自分でくだいてしまった。

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