――一方。
 洛陽の焦土に残った諸侯たちの動静はどうかというに。
 ここはまだ濛々と余燼のけむりに満ちている。
 七日七夜も焼けつづけたが、なお大地は冷めなかった。
 諸侯の兵は、思い思いに陣取って消火に努めていたが、総帥袁紹の本営でも、旧朝廷の建章殿の辺りを本陣として、内裏の灰を掻かせたり、掘りちらされた宗廟に、早速、仮小屋にひとしい宮を建てさせたりして、日夜、戦後の始末に忙殺されていた。
「仮宮も出来あがったから、とりあえず、太牢を供えて、宗廟の祭を営もう」
 袁紹は、諸侯の陣へ、使いを派して、参列を求めた。
 いと粗末ではあったが、形ばかりの祭事を行って後、諸侯は連れ立って、今は面影もなくなり果てた禁門の遠方此方を、感慨に打たれながら見廻った。
 そこへ、
滎陽の山地で、曹操の軍は、敵のため殲滅的な敗北をとげ、曹操はわずかな旗下に守られて河内へ落ちて行った――」
 という報らせが入った。
 諸侯は、顔見合わせて、
「あの曹操が……」とのみで、多くを語らなかったが、袁紹は、
「それ見たことか」と、聞えよがしにいった。
 そしてまた、
董卓洛陽を捨てたのは、李儒の献策で、余力をもちながら、自ら先んじて、都府を抛擲したものだ。――それを一万やそこらの小勢で、追討ちをかけるなど、曹操もまだ若い」
 と、その拙を嘲笑った。
 半焼となっている内裏の鴛鴦殿で、一同は小盞を酌み交わしてわかれた。
 折ふし黄昏れかけてきたので、池泉の畔には芙蓉の花がほの白く、多恨な夕風に揺れていた。
 諸侯はみな帰ったが、孫堅は二、三の従者をつれて、なお去りがてに、逍遥していた。
「ああ……そこらの花陰や泉の汀で、後宮の美人たちがすすり泣きしているようだ。兵馬の使命は、新しい世紀を興すにあるが、創造のまえに破壊がともなう。……ああいかん、多情多恨にとらわれては」
 ひとり建章殿の階に坐って、星天を仰ぎ、じっと黙思していた。
 茫――と、白い一脈の白気が、星の光群をかすめていた。孫堅は、天文を占って、
帝星明らかならず、星座星環みな乱る。――ああ乱世はつづく。焦土はここのみには、止まるまい」と、思わず嘆声をあげた。
 すると、階下にいた彼の郎党のひとりが、
「殿。……なんでしょう?」
 怪しんで指さした。
「なにが?」
 孫堅も、眸をこらした。
「さっきから見ていますと、この御殿の南の井戸から、時々、五色の光が映しては消え、映しては消え、暗闇で宝でも見ているようです。……どうも眼のせいとも思われませんが」
ムム、なるほど。……そういわれてみれば、そんな気もする。炬火をともして、井戸の中を調べてみろ」
「はっ」
 郎党たちは馳けて行った。
 程なく、井戸のまわりでかざし合う炬火が彼方にうごいていた。そのうちに、郎党たちが、なにか、大声あげて騒ぎだした様子に孫堅も近づいてそこを覗いて見ると、水びたしになった若い女官の死体が引揚げられてあった。――すでに日も経ているらしいが、その装束も尋常の女性とは思われないし、なお、生けるままな容貌は白玕のように美しかった。

 いや、そればかりではない。
 死美人の屍には、もっと麗わしい物が添っていた。それは襟頸にかけて抱いている紫金襴の嚢だった。
 蝋より真白い指が、しっかとそれを抱いている。――死んでも離すまいとする死者の一念が見えた。
 孫堅は、そばへ寄って、近々と死体をながめていたが、
「なんだろう。はて、この嚢を取りあげてみろ」
 郎党に命じて身を退いた。
 彼の従者は、すぐ死美人の頸からそれをはずし取って、孫堅の手へ捧げた。
「おい、炬火を出せ」
「はっ」
 従者は、彼の左右から、炬火をかざした。
「……?」
 孫堅の眼は、なにか、非常な驚きに輝きだしていた。紫金襴の嚢には、金糸銀糸で瑞鳳彩雲の刺繍がしてあった。打紐を解いてみると、中から朱い匣があらわれた。その朱さといったらない。おそらく珊瑚朱か堆朱の類であろう。
 可愛らしい黄金の錠がついている。鍵は見当らない。孫堅は、歯で咬んでそれをねじ切った。
 中から出てきたのは、一顆の印章であった。とろけるような名で方円四寸ばかり、の上部には五龍を彫り、下部の角のすこし欠けた箇所には、黄金の繕いがほどこしてある。
「おい、程普を呼んで来い。――大急ぎで、ひそかに」
 孫堅は、あわてて云った。
 そしてなおも、
「はてな? ……これは尋常の印顆ではないが」
 と、掌中の名を、恍惚として凝視していた。
 程普が来た。
 息をきって、使いの者と共に、ここへ近づいて来るなり、
「なんぞ御用ですか」と、訊ねた。
 孫堅は、印顆を示して、
程普。これをなんだと思う?」と、鑑識させた。
 程普は、学識のある者だった。手に取って、一見するなり驚倒せんばかり驚いた。
「太守。あなたはこれを一体、どうなされたのですか」
「いや、いまここを通りかかると井戸のうちから怪しい光を放つので、調べさせてみたところ、この美人の死体が揚ってきた。それはこの死美人が頸にかけていた錦の嚢から出てきた物だ」
「ああもったいない……」と程普は自分の掌に礼拝して、
「――これは伝国の玉璽です。まぎれもなく、朝廷の玉璽でございます」
「えっ、玉璽だと」
「ごらんなさい。篤と――」
 程普は、炬火のそばへ、玉璽を持って行って、それに彫ってある篆字の印文を読んで聞かせた。

受命于天
既寿永昌

「……とございましょうが」
「むむ」
「これはむかし荊山のもとで、鳳凰に棲むのを見て、時の人が、の心部を切って、楚国の文王に献じ、文王は、稀世の璞玉なりと、宝としていましたが、後、秦の始皇の二十六年に、良工を選んでみがかせ、方円四寸の玉璽に作りあげ、李斯に命じて、この八字を彫らせたものであります」
「ウーム……。なるほど」
「二十八年始皇帝が洞庭湖をお渡りの折、暴風のために、一時この玉璽も、湖底に沈んだことなどもありましたが、ふしぎにもこの玉璽を持つ者は、一身つつがなく栄え、玉璽もいつか世に現れて、累世朝廷の奥に伝国の宝として、漢の高祖より今日まで、伝え伝えて参った物ですが……どうしてこれが今日の兵火に無事を得たのでしょうか。思えば、実に奇瑞の多い玉璽ではあります」

 玉璽を掌にしたまま孫堅は、茫然と、程普の物語る由来に聞き恍れていた。
 そしてひそかに、思うらく、
(どうして、こんな名宝が、おれの掌に授かったのだろうか?)
 なにか恐ろしい気持さえした。
 程普は、語りつづけて。
「――今、思い合せれば、先年、十常侍らの乱をかもした折、幼帝には北邙山へお遁れ遊ばしましたが、その頃、にわかに玉璽が紛失したという噂が一時立ちました。――今、その玉璽が計らずも、井泉の底より拾い上げられて、太守のお掌に授かるというのは、ただ事ではありません」
「ウーム、自分もそう思う。……まったくこれはただ事ではない」
 孫堅も呻いた。
 程普は、主君の耳へ口をよせて、
「――天が授けたのです。天が、あなた様をして、九五の御位にのぼせ、子孫にわたって、伝国の大統を指命せられた祥瑞と思われます。……はやく本国へお帰りあって、遠大の計をめぐらすべきではありませんか」と、ささやいた。
 孫堅は、大きくうなずいて、
「そうだ」と、深く期すもののように、眼を輝かして、居合わせた郎党たちへ云い渡した。
「こよいのことは、断じて、他言は相成らぬぞ。もしほかへ洩らした者あらば、必ず首を刎ねるからそう心得よ」
 やがて、夜も更けて。
 孫堅は、自分の陣へこっそり帰って寝たが、程普は味方の者へ、
「ご主君には、急病を発しられたゆえ、明日、陣を払って、急に本国へお帰りになることになった」
 と、虚病を触れて、その夜からにわかに行旅の支度にかからせた。
 ところが。
 その混雑中に、孫堅についていた郎党のひとりが、袁紹の陣へ行って、内通した。一部始終を袁紹に告げて、わずかな褒美をもらって姿をくらましていた。
 だから袁紹は、あらかじめ玉璽の秘密を知っていた。
 夜が明けると、孫堅は、何喰わぬ顔して、暇乞いにやって来た。孫堅はわざと、憔悴した態をよそおって、
「どうも近頃、健康がすぐれないので、陣中の務めも懶くてならんのです。はなはだ急ですが、しばらく本国へ帰って静養したいと思います。――当分は風月を友にして」
 云いかけると、袁紹は、
「あはははは」と、横を向いて笑った。
 孫堅はむっとして、
「何で総帥には、それがしが真面目に別辞を述べているのに、無礼な笑い方をなさるのか」
 と、剣に手をかけて詰問った。
 袁紹は露骨に、
「君は、虚病もうまいが、怒る真似もうまい。いや裏表の多い人物だ。――君の静養というのは、伝国の玉璽をふところに温めて、やがて鳳凰の雛でも孵そうという肚だろう」
「な、なにっ?」
「あわてんでもよい。こら孫堅、身のほどを知れよ。建章殿の井のうちから、昨夜、拾いあげた物をこれへ出せ」
「そんなことは知らん」
「不届きな! 汝、天下を奪う気か」
「知らん。なにをもって、このほうを謀叛人というか」
「だまれ。国々の諸侯が、義兵をあげて、この艱苦を共にしているのは、漢の天下を扶けて、社稷をやすんぜんがためだ。玉璽は、朝廷に返上すべきもので、匹夫の私すべきものではない」
「なにを、ばかなっ」
「ばかなとは、何事だ」
 袁紹も、彼に対して、あわや剣を抜こうとした。

「や、剣に手をかけたな。――汝、この孫堅を斬ろうという気か」
 孫堅がいえば、
「おうっ」と、袁紹もいきり立って、
「貴様の如き黄口児になんでこの袁紹が欺かれようぞ。いかに嘘を構えても、謀叛心はもはや歴然だ。成敗して陣門にさらしてくれる」
「なにをっ」
 孫堅は、いうより早く剣を抜いた。袁紹も、大剣を払い、双方床を蹴って躍らんとした。
「すわや!」と、満堂は殺気にみちた。
 袁紹が後ろには、顔良文醜などの荒武者どもが控えている。――また、孫堅がうしろには程普黄蓋、韓当などの輩が、
「主人の大事」と、ばかり各〻、剣環を鳴らしてざわめき立った。
 洛陽入りの後はここに戦いもなかった。長陣の鬱気ばらしに、ひと喧嘩、血の雨も降りそうな時分である。
 だが、驚いたのは、満堂の諸侯で、総立ちになって、双方を押しへだてた。――日頃、盟の血をすすり、義を天下に唱えながら、こんな仲間割れの醜態を、世上へさらしたら、民衆の信望はいっぺんに失墜してしまうに相違ない。義軍の精神は疑われ、長安へ落ちた董卓軍は、それ見たことか、と、手を打って歓ぶにちがいない。
「まあ、まあ、ここは」
孫堅も、あれまでに、身の潔白を云い立てておるのですから、よもや仮病などではありますまい」
「総帥も、お立場上、自重してくださらなければ困る」
 諸侯の仲裁で、やっと、
「では、各〻に任すが、孫堅はきっと、玉璽を盗んでいないか。その証しはどうして見せるか」
 袁紹がいうと、孫堅は、
「われも漢室の旧臣、なんで伝国の玉璽を奪って謀叛などせんや。――天地神明に誓ってさようなことはない」と絶叫した。
 その血相に、誰も、「あれほどいうからには」と、信じきって、仲直りに、杯を挙げて別れたところが、なんぞ計らん、それから一刻も経たないうちに、孫堅の陣地には、もう一兵の影も見えなかった。
「さては、怪しい?」と、袁紹も焦立ち、諸侯の陣もなんとなく動揺しだして見えた所へ、さきに董卓を追って、滎陽で大敗を喫した曹操が、わずかな残兵をひいて、洛陽へ帰って来た。
 袁紹は、折も折とて、彼に計ろうと酒宴を設け、諸侯を呼んで、曹操を慰めると、曹操はむしろ憤然として、
「口に大義を唱えても、心に一致する何ものもなければ、同志も同志ではない。いたずらに民を苦しめ、無益の人命と財宝を滅すのみだ。小生はしばらく山野へ帰って考え直す。諸氏も、熟慮してみたがよかろう」と、即日、洛陽を去って揚州の方面へ立ってしまった。
 その頃、孫堅はすでに、ひた走りに本国へさして逃げ帰っていた。
 途中。
 袁紹の追討令で、追手の軍に追われたり、諸城の太守に遮められたり、さんざんな憂き目に遭ったが、ついに黄河のほとりまで逃げのびて、一舟を拾い、からくも江東へ逃げ渡った。
 舟中の身辺をかえりみると、幕下の将兵わずか数名しかいなかった。けれど、彼のふところには伝国の玉璽がまだ失われずにあった。

 破壊は一挙にそれをなしても、文化の建設は一朝にしては成らない。
 また。
 破壊までの目標へは、狼煙一つで、結束もし、勇往邁進もするが、さて次の建設の段階にすすむと、必ずや人心の分裂が起る。
 初めの同志は、同志ではなくなってくる。個々の個性へ返る。意見の衝突やら紛乱が始まる。熱意の冷却が分解作用を呼ぶ。そして第二の段階へ、事態は目に見えぬまに推移してゆくのである。
 曹操袁紹らの挙兵も、今やそこへ逢着して来たのであった。
 当初の理想もいま何処へ。
 まず、その狼煙を最初に揚げて、十八ヵ国の諸侯を糾合した曹操自身からまっ先に、袁紹の優柔不断に腹を立てて、(おれは俺でやろう)と決意したものの如く、大勢には勝利を占めながら、残り少なきわずかな手勢と、鬱勃たる不平と、惨心とを抱いて、いちはやく揚州の地へ去ってしまった。
 また。
 廃墟となった禁門の井戸から、計らずも玉璽を拾った孫堅孫堅で、珠を抱くと、たちまち心変りして、袁紹と烈しい喧嘩別れをして、即日、これも本国へさして急いでしまったが、途上、荊州劉表に遮られて、その軍隊はさんざんな傷手をうけ、身をもって黄河を遁れ渡った時は――その一舟中に生き残っていた者、わずかに、程普黄蓋などの旗本六、七人に過ぎなかったという――後日の沙汰であった。
 そんな折も折。
 東郡の喬瑁と、刺史劉岱とが、またぞろ洛陽の陣中、兵糧米の借り貸しか何かのつまらないことから喧嘩を起し、劉岱はふいに夜中、相手の陣営へ斬りこんで、喬瑁を斬り殺してしまった――などという事件が起ったりした。
 諸侯の間でさえそんな状態であったから、以下の将校や卒伍の乱脈は推して知るべきであった。
 掠奪はやまない。酒は盗む。喧嘩はいつも女や博のことから始まった。――軍律はあれど威令が添わないのである。洛陽の飢民は、夜ごと悲しげに、廃墟の星空を仰いで、
(こんなことなら、まだ前の董相国の暴政のほうがましだった)と、呟き合った。
 夜となれば人通りもなく、たまたま闇に聞えるのは、人肉を喰って野生に返った野良犬のさけびか、女の悲鳴ばかりだった。
「太守、お呼びですか」
 劉備玄徳は、一夜ひそかに、公孫瓚の前に立っていた。
 公孫瓚は、彼に告げた。
「ほかではないが、このごろ、つくづく諸侯の心やまた、総帥袁紹の胸を察するに、どうも面白くないことばかりだ。袁紹には、この後を処理してゆく力がない。要するに彼は無能だ。きっと今に、収拾できない混乱が起ると思う」
「はい……」
「君もそう思うだろう。君を始め、関羽張飛などにも、抜群な働きをさせて、なんの酬いるところもなくて気の毒だが、ひとまず洛陽を去って、ご辺も平原へ帰ってはどうか。――自分も陣を引払って去ろうと考える」
「そうですか。――いやまた、時節がありましょう。ではお暇いたします」
 玄徳は、別れを告げた。
 かくて彼は、関羽張飛のふたりにも、事態をつげて、平原をさして行った。
 洛陽には入ったが、ついに、何物も得るところはなく――である。従兵馬装、依然として貧しき元の木阿弥だった。
 けれど、関羽張飛も、相かわらず朗らかなものだった。馬上談笑して、村へ着けば、時折に酒など買い、
「おい、飲まないか。まだおれ達の祝杯は、前途いつのことだか分らないが、生命だけはたしかに持って帰れるんだから――少しくらいは祝ってもよかろう。馬上で飲み廻しの旅なんて、洒落ているぞ」
 などと張飛は笑わせて、いつも日々是好日の態だった。

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