笠
一
荊州の本城は実に脆く陥ちた。関羽は余りに後方を軽んじ過ぎた。戦場のみに充血して、内政と防禦の点には重大な手ぬかりをしていた嫌いがある。
烽火台の備えにたのみすぎていたこともその一つだが、とりわけまずいのは、国内を守る人物に人を得ていなかった点である。留守の大将潘濬も凡将であったし、公安の守将たる傅士仁も軽薄な才人に過ぎない。
選りに選ってなぜこんな凡将を残して征ったかといえば、樊城へ出陣の前、この二将に落度があった。関羽は軍紀振粛のため、その罪をいたく責めて、懲罰の代りに、出征軍のうちからはぶいてしまった。留守に廻されるということは、武門として軍罰を蒙るよりも不名誉とされていたからである。
潘濬が真の人物なら、この不名誉はむしろ彼を発奮させたろうが、潘濬も傅士仁も内心それを恨みに抱いて、もう関羽の麾下では将来の出世はおぼつかないと、商機を測るような考えを起していた。そして内政も軍事も全く怠っていたところへ――つなぎ烽火もなんの前触れもなく、いきなり攻めてきた呉の大軍であった。結果からみれば、実に当然な陥落だったともいえる。
一、みだりに人を殺すもの
一、みだりに物を盗むもの
一、みだりに流言を放つもの
以上。その一を犯す者も斬罪に処す。
呉軍大都督呂蒙
占領直後、まだ呉侯孫権も入城しないうちに、早くも町々にはこういう掲示が立ち、人民はみな帰服した。
荊州城にあった関羽の一族は、呂蒙のさしずによって鄭重にほかのやしきへ移され、不安なく不自由なく呉軍に保護されているのを見て、荊州の人民は、
「ありがたいことだ」と、呂蒙の名を口から口へささやきつたえた。
呂蒙は日々、五、六騎の供をつれて、みずから戦後の民情を視て歩いた。一日、途中でにわか雨にあったが、雨に濡れながらもなお巡視をつづけて来ると、彼方から一人の兵が、百姓のかぶる※笠を持って、盔の上にかざしながら、一目散に馳けてくるのを見かけた。
「捕えろ。あの兵を捕えてこい」
呂蒙は鞭をさし向けた。
二頭の騎馬武者が雨中を馳けて、すぐその兵を引っ吊して来た。見るとその兵は呂蒙もよく顔を知っている同郷の男だった。
――が、呂蒙はその兵を睨まえて云った。
「自分は日頃から、同郷同姓の者は殺さずという誓いを持っていたが、それは私事で公務の誓いではない。汝はこのにわか雨にあって百姓の笠を盗んだ。高札の表に掲げてある一条を犯した以上は、たとえ同郷の者たりとも法を紊すわけにゆかん。首にして街へ梟けるから観念するがよい」
兵は仰天して、雨中に哀号しながら、呂蒙を伏し拝んで、
「命だけはお助け下さい。出来心でございます。何気なく、つい※笠ぐらいと存じまして」
と、悲しみ訴えたが呂蒙はただ顔を横に振るだけだった。
「いかん、断じていかん。出来心はわかっている、また、一個の※笠に過ぎないことも分っておる。しかしゆるすことはできない。それが法の厳正というものだ」
その兵の首と※笠とが、獄門となって街に曝された。市人は噂をつたえ聞いて、
「何たる公平な大将だろう」
と、その徳に感じ、呉の三軍はふるい恐れて、道に落ちている物も拾わなかった。
江上に待っていた呉侯孫権は、諸将を率き従えて入城した。そして直ちに降参の将潘濬を見、その乞いを容れて呉軍に加え、また獄中にあった魏の虜将、于禁をひき出して、
「呉に仕えよ」
と、その首枷を解いて与えた。