天血の如し

 さきに街亭の責めを負うて、孔明は丞相の職を朝廷に返していた。今度、成都からの詔書は、その儀について、ふたたび旧の丞相の任に復すべしという、彼への恩命にほかならなかった。
「国事いまだ成らず、また以後、大した功もないのに、何で丞相の職に復することができよう」
 孔明は依然固辞したが、
「それでは、将士の心が奮いません」
 という人々の再三なすすめに従って、ついに朝命を拝して、勅使費褘の都へ還るを送った。それから後、間もなく、
「われわれもひとまず還ろう」と突然、漢中への総引揚げを発令した。
 敵の司馬懿は、これを聞くや直ちに、
「追わばかならず孔明の計にあたろう。守って動くな」
 かえって堅く自戒していた。
 しかし、張郃などの徒は、
「敵は兵糧につまったのだ。追撃して完滅を下すのはこの時ではありませんか」
 と、むずむずして云った。
「いやいや漢中は去年も豊作だったし、今年も麦は熟している。兵糧がないのではなく、ただ運輸の労に困難しているに過ぎない。――量るに孔明はみずから動いて、われを動かさんと、誘うものであろう。しばらく物見の報告を待て」
 仲達は諸将をなだめた。
 情報は、次々に聞え、
「――孔明の大陣、三十里往いてしばらく駐る」
 と、聞えたが、その以後は、約十日ばかり何の変化も伝えてこない。
 すると、やがて、
「蜀軍すべて、さらに遠く行く」と報らせて来た。
 司馬懿は、諸将にいった。
「見よ三十里ごとに、計をうかがい、変を案じ、ひたすらわれの追撃を誘っている。危うし危うし。めったに、孔明の好みに落ちるな」
 次の日も、また三十里退いたという報あり、さらに二日ほどおいて、
「蜀軍はまた三十里行軍して停まっています」という物見のことばだった。
 幕将たちの観察と、司馬懿の見方とは、だいぶ相違があった。幕将たちは躍起となって再び彼に迫った。
孔明の退く手口を見ると、緩歩退軍の策です。一面退却一面対峙の陣形をとりながら、極めて平凡な代りに、また極めて損害のないような、正退法によっているものでしかありません。――これを見過して撃たずんば、天下の笑い草になりましょう」
 そうまでいわれると、司馬懿もいささか動かされた。わけて張郃は極力、追撃を望んでやまない。で遂に、
「然らば、ご辺は、もっとも勇猛なる一軍をひきいて追え。ただし、途中、一夜を野営して、兵馬の足を充分に休ませ、然る後猛然と蜀軍へ突っこめ。――儂もまた強兵をすぐって第二陣に続くであろう」と、にわかに考えを一転した。
 精兵三万、つづいて仲達の中軍五千騎、弦を離れた如く、急追を開始した。しかしその速度を、ぴたと止めると、全軍、その日のつかれを休め、明日の英気を養って、概すでに敵を呑むものがあった。
 かくと殿軍の物見から聞くと、孔明は初めて、うすい微笑を面に持った。生唾を呑むように、待ちに待っていたものなのである。
 孔明はその夜、諸将をあつめて、悲壮なる訓示をなした。
この一戦の大事は、いうまでもない。蜀の運命を決するは、まさに今日にある。卿らみな命をすてて戦え。味方一人に敵数十人をひきうけて当るほどな覚悟をもて」
 孔明はさらに云った。この強敵の背後へ迂回して、かえって、敵のうしろを脅かす良将がここに欲しい。それには誰がよいか。みずからこの必死至難な目的に当ってよくなし遂げんと名乗って出る者はいないか。――と座中を見まわした。

 誰も答える者もない。われこそと名乗りでて、その至難に赴こうという者がない。
 それもその筈。――孔明は、この大事におもむく者は、智勇胆略の兼ね備わっている良将でなければ用い難い――と前提しているのである。
「…………」
 孔明のひとみは、魏延の顔を見た。しかしその魏延ですら首を垂れて無言だった。
 ――と、王平がつと進んで、
「丞相。それがしが赴きましょう」と思い切った語調でいった。
 孔明は、敢えて歓びもせず、
「もし仕損じたらどうするか」と、反問した。
 王平は悲壮な面色で、
「成功するや否やなどは考えておりません。ただ今、丞相のおことばには、この一戦こそ、蜀の興亡にも関わる大事と仰せられましたゆえ、不才を顧みるいとまなくただ一死を以て国に報ぜんとするあるのみです」
「王平は平時の良才、戦時の忠将。その一言でよし。しかし魏の大軍は、二段にわかれ、前軍張郃、後陣司馬懿のあいだは、まさにおのずから死地そのものだ。わが命じるところはその死地の間に入って、戦えという無理な兵法なのである。いわゆる捨身の戦いだ。なお赴くか」
「断じて赴きます」
「では、もう一軍添えてやろう。たれか王平の副将として赴く者はいないか」
「それがしにお命じ下さい」
「だれだ、名乗った者は」
「前軍都督張翼です」
「せっかくだが、敵の副将張郃は、万夫不当の勇、張翼では相手に立てまい」
 聞くと張翼は、残念がって、奮い立った。
「丞相には何事を仰せある。それがしとて死をもって当れば恐るる者を知りません。もし、卑怯があったら、後、この首をお刎ね下さい」
「それ程いうならば、望みにまかせてやろう。王平と汝と、おのおの一万騎をつれて、今宵のうちにひそかに道を引っかえし、途中の山に潜め。そして明日、魏の前軍がわれを追撃にかかり、通り過ぎるを見たら、司馬懿の第二軍が続く前に――その間へ――突として討って出で、王平は張郃軍のうしろへかかり、張翼司馬懿の出ばなへぶっつかって戦え。……あとは孔明にべつの計りもあれば、味方を思わず、その一ヵ所を一期の戦場として死志を励め」
 令をうけると、二将は、孔明の前に立って、
「では、お別れいたします」
 と、暗に死別を告げて、すぐにその行についた。
 孔明は、うしろ姿を見送っていた。そしてすぐその後で、
姜維廖化を、これへ」と、さし招き、各自に各三千騎をひっさげて、王平、張翼の後を追い、その戦場となるべき附近の山上に登って、待機せよといい渡した。
 そして、二人が行く前に、
「ここぞと、戦機の大事を見極めたら策をこの嚢に聞け」
 と、錦の嚢を渡した。いわゆる智嚢である。
 次に。
 呉班、呉懿馬忠、張嶷の順に呼ばれた。
「その方たちは、正陣をもって、寄せ来る敵の前面に当れ。壁となって防ぎ戦え。しかし明日の魏軍の猛気はおそらく必殺必勝の気で来るであろうゆえ、無碍に支えれば、必定、支えきれなくもなる。一突一退、緩急の呼吸をはかって、やがて関興の一軍が討って出るのを見たら、そのとき初めて、一斉に奮力をあげて死戦せい」
 孔明は、また、最後に関興へこういう命令を与えた。
「汝は、一軍をもって、この附近の山間にひそみ、明日、予が山上にあって、紅の旗をうごかすのを見たら、一度に出て、敵とまみえよ。かならず日頃の戦いと思うな」
 かくてすべてに渡って手筈が整うと、孔明は、一睡をとって、黎明早くも山上へ登って行った。この日、朝雲は低く、日輪は雲表を真紅に染め、未だ万地の血にならない前に、天すでに血の如しであった。

 両軍の決戦的意気といい、その精猛を挙げつくしている点といい、また戦場の地勢から観ても、終日にわたったその日の激戦は、まさに蜀魏の関ヶ原ともいえるものであった。
 蜀の馬忠、張嶷、呉懿、呉班などが、まず四陣を展いて、
「来れ。――来らば」
 と、手具脛ひいて待つ所へ、魏軍三万の張郃、戴陵はほとんど鎧袖一触の勢いでこれへ当ってきた。
 時は大夏六月。人馬は汗にぬれ、草は血に燃え、一進一退、叫殺、天に満つばかりだった。
 蜀は、時に急に、時に緩に、やがて約二十里もくずれ、さらに五十里も追われた。
 朝から急歩調で、追迫をつづけ、かつ、攻勢をゆるめずにあった魏は、炎日と奮闘に、ようやく疲れを示した。刻、陽も中天の午の刻に近かった。
 すると、一峰の上で、突として紅の旗がうごいた。
 孔明の下せる大号令のしるしである。
「今か。今か――」と、それを待っていた関興の五千騎は、疾風のごとく、谷の内から出て、魏勢の横を衝いた。
 いったん退いた蜀の四軍も、たちまちひるがえって、張郃、戴陵へ大反撃を捲き起してくる。
 凄愴なる血の雲霧が、眼のとどくかぎりの山野にみなぎった。
 屍山血河。馬さえ敵の馬を咬んで闘い狂う。
 蜀の損害も甚だしいが、魏の精兵もこの一刻においておびただしく撃たれた。その上、蜀の張翼、王平の二手がうしろへまわって出たため、三万の兵ことごとく潰滅し去るかと危ぶまれた。
 ところへ、魏の主力、司馬仲達の主力が着いた。
 蜀の王平と張翼とは、初めから進んでその危地に入っていたので、彼らは覚悟の前とし、直ちに、
「諸軍、命をすてて戦え」と、この新手へ向き直って奮迅した。
 鼓声叫喚は天地を晦うし、血はこんこん馬蹄を浸し、屍は積んで累々山をなしてゆく。
 時に、蜀の姜維廖化は、
「今こそ、あれを」と、かねて孔明から授けられていた錦の嚢を解いて見た。令札に一行の命令がしたためてあった。曰く。
 ――汝ラ二隊ハココヲ捨テテ司馬懿ガ後ニセル渭水ノ魏本陣ヲ衝ケ。
 山伝い、峰伝いに姜維廖化の二隊は、逆に、渭水方面へ駈けた。
 司馬仲達は、これを知ると、色を失った。
「あ。――。長安の途が危うくなる!」
 魏はにわかに総退却の命をうけた。すなわち仲達の主力以下、眼前の惨敗を打ちすてて、急遽、渭水の固めに引っ返したのである。
 さしもの大戦も暮れた。
 夜に入るも月は赤く、草に伏す両軍の屍は、実に、万余の数を超えていたといわれる。
「勝った。わが軍の捷だ」
 魏は云った。蜀も唱えた。
 要するに、損害は互角だった。またその戦力も伯仲していたものといえよう。
 けれどこの一戦で魏将の討たれた数は蜀以上のものがあり、史上、記すにいとまなきほどであるといわれている。
 しかし、すぐこの後において、蜀にも一悲報が来た。それはさきに負傷して成都へ還っていた張飛の子張苞の死であった。破傷風を併発してついに歿したという知らせが孔明の手もとに届いた。
「ああ。……張苞も死んだか」
 孔明は声を放って哭いたが、とたんに血を吐いて昏絶した。その後、十日を経て、ようやくすこし元気をとりもどしたが、年来のつかれも出たか、容易に以前のような健康にかえらなかった。
「かなしむな。予の憂いを陣上にあらわすな。われ病むことを、もし仲達が知ったら、大挙してふたたびこれへ来るだろう」
 孔明はそう戒めて、旌旗粛々、漢中へ帰った。後で、知った仲達は、機を覚らなかったことを大いに悔い、また顧みて、「彼の神謀は、とうてい、人智を以て測りがたいものがある」と、以後いよいよ要害を固め、洛陽に還って委細を魏帝に奏した。その頃また孔明も久しぶりに成都へもどり、劉禅を拝して、相府に退き、しばし病を養っていた。

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