進軍

 劉璋は面に狼狽のいろを隠せなかった。
曹操にそんな野心があってはどうもならん。張魯も蜀を狙う狼。曹操も蜀をうかがう虎。いったいどうしたらいいのじゃ」
 気が弱い、策がない。劉璋はただ不安に駆られるばかりな眼をして云った。
「お案じには及びませぬ」
 張松は語を強めた。そしていうには、
「この上は、荊州の玄徳をおたのみなさい。ご当家とは漢朝の同流同族。のみならず、こんどの旅行中、諸州のうわさを聞いても、彼は仁慈、寛厚、まれに見る長者であると、一世の人望を得ています」
「だが、その劉玄徳とは、今日までなんの交渉も持っていない。彼も漢の景帝の流れを汲む同族とはかねて聞いていたが」
「ですから、この際、鄭重なる書簡をいたせば、玄徳としても、欣然友交国の誼みを結ぶにちがいありません」
「では、その使いには、誰をつかわしたらよいと思う」
孟達法正。この二人に超えるものはないでしょう」
 するとこの時、帳の外から大声して呼ばわった者がある。
「ご主君っ、耳に蓋し給え。張松の申すことなどに引かされたら、この国四十一州は他人の物になりますぞ」
 驚いて振り向くと黄権、字は公衡という者、額に汗しながら入ってきた。
 劉璋は眉をしかめて、
「なぜ、そんなことを云う。たしなめ」
 と、一喝した。
 黄権は屈せず、面を冒してなお云った。
「君、知り給わずや。当時玄徳といえば、曹操だも恐るる人物。寛仁よく人を馴ずけ、左右に鳳龍二軍師あり、幕下に関羽張飛趙雲の輩あり、もしこれを蜀に迎え入れたら、人心たちまち彼にあらんも知らず。国に二人の主なし。累卵の危機を招くは必然でしょう。――それに張松は魏に使いしながら、帰途は荊州をまわって来たという取沙汰もある。旁〻、ご賢慮をめぐらし給え」
 こうなると、張松も黙っていられない。国家の危機とは、これからのことではない、今やすでにその危機にある蜀である。もし漢中張魯と魏の曹操が結んで今にも国内へ進撃してきたらどうするか。ただ強がるばかりが愛国ではないぞ、ほかに良策があるならここで聞かせよ、と詰問り寄った。
 と、ふたたび帳外から、
「無用無用。わが君。張松の弁舌にうごかされ給うな」
 云いつつ大歩して君前にまかり出てきた人物がある。従事官王累であった。
 王累は、頓首して、
「たとえ漢中張魯が、わが国に仇をなすとも、それは疥癬(皮膚病)の疾にすぎぬ。けれど玄徳を引き入れるのは、これ心腹の大患です。不治の病を求めるも同じことです。断じて、その儀は、お見合わせあるように」
 ――だが、劉璋の頭には、もう先に聞いた張松のことばが、頑として、先入主になっている。張松は実地に諸州の情勢を見てきた者だし、王累や黄権は、国外の実情にうとい。そう単純に区別してでもいるのか、おそろしく感情を損ねて叱りだした。
「うるさくいうな。人望もなく実力もないような玄徳なら、なにも求めて提携する必要もないではないか。わが家とは血縁もあり、旁〻曹操すら一目も二目もおく者と聞けばこそ、予も頼もしく思うて彼の力を借るのじゃ。汝らこそ二度と要らざる舌をうごかすまい」
 かくて遂に、張松のすすめは劉璋の容れるところとなってしまった。使いを命じられた法正は、前日の諜し合わせもあり、張松とはどこまでも主義を同じくしているので、劉璋の書簡を持つと、道を早めて荊州へ赴いた。
「なに、蜀の法正とな?」
 玄徳は、使者の名を聞いて、すぐ張松と別れた日のことばを胸に想いうかべた。
 直ちに、法正を見、かつ書簡をうけて、その場でひらいた。

族弟劉璋、再拝。一書ヲ
宗兄タル将軍ノ麾下ニ致ス

 書面の冒頭にはこう書き出してあった。

 その夜、玄徳は独りで、一室に考えこんでいた。
 龐統が来ていった。
孔明はどうしましたか」
「蜀の使者法正を、客館まで送って行ってまだ戻らぬ」
「そうですか。して、君より法正へは、すでにご返辞をお与えになりましたか」
「なお考え中である」
張松が去るとき、あれほど申しのこして行ったのに、まだお疑いとは」
「疑いはせぬが」
「では、なにをそのように、無用にお心を煩うておられるのですか」
「思うてもみい。いま予と水火の争いをなす者は誰か」
曹操こそ最大の敵です」
「その曹操を敵として戦うに、これまではすべて彼の反対をとって我が方略としていた。彼が急を以てすれば、われは緩を以てし、彼が暴を行えば、我は仁を行い、彼が詐りをなせば、我は誠を以てして来た。それを自ら破るのがつらい」
「はて。意を得ませぬが」
張松法正孟達たちのすすめにまかせて、蜀に伐り入らんか、当然、劉璋は亡び去ろう。彼は、いつもいうように、わが族弟。玄徳、同族の者をあざむいて蜀を取れりといわれては、予が今日まで守ってきた仁義はなくなる。小利のため、大義を天下に失うはつらいというのだ」
 龐統は一笑に附していう。
「火事場の中で、日頃の礼法をしていたら、寸歩もあるけますまい。あなたのおことばは天理人倫にかなっていますが、世はいま乱国、いわば火事場です。晦きを攻め、弱きを併せ、乱るるは鎮め、逆は取って順に従わす、これ兵家の任です。また民の安息を守るものです。蜀の状態はいまやそれに当っている。天に代って事を定め、事定まった上、報ゆるに義を以てしてもよいでしょう。今日もしわが君が蜀に入るを避けても、明日は他人が奪っているかも知れません――。族弟の縁をたいへん気にかけておられるようですが、劉璋には今申したとおり、ほかに方法を以て、仁愛を示されれば、あえて信義に背くことにはなりますまい。むしろそうした小義にとらわれておらるるこそ、兵家の卑屈と申さねばなりません」
 諄々として、彼は説いた。道をあきらかにする、これは大きな行動のまえに大切なことにはちがいない。
 玄徳もようやくうなずいた。蜀へ入りたいのは彼とて山々のところである。何せい荊州は戦禍に疲弊している。地理的には東南に孫権北方曹操があって、たえず恟々と守備にばかり気をつかわなければならない。ただ一方、門戸のあるのが西蜀であった。しかも張松が置き残して行った図巻を見れば、その国の富強、地理の要害、とうていこの荊州の比ではない。
「よう分った。先生の啓示は、まさに金玉の教えと思う。それに張松たちが、かくまで手を尽して、予を迎えようとするのも、いわゆる天意というものであろう」
「では、ご決心なさいますか」
孔明が帰って見えたら、早速それについて評議いたそう」
 程なくその孔明も姿をあらわした。三名は鳩首して、軍議にふけった。
 翌日、法正にも、この旨をつたえ、同時に陣触れを発して、いよいよ入蜀軍の勢揃いをした。
 玄徳はもちろんその中軍にある。
 龐統を軍中の相談役とし、関平劉封も中軍にとどめ、黄忠と魏延とは、一を先鋒に、一を後備に分け、遠征軍の総数は精鋭五万とかぞえられた。
 しかし、何より大事なのは、荊州の守りである。万一にも、この遠征軍がやぶれた時、あるいは、南に孫権がうごくか、北の曹操が留守の間隙をうかがうなど不測な事態が生じたとき、万全な備えがなくてはならない。――また征旅に上る玄徳にしても、その安心がなくては、腰をすえて蜀へ入れない。
 で、荊州には、孔明が残ることになった。
 その配備は。
 襄陽の堺に関羽
 江陵城に趙雲子龍
 江辺四郡には張飛
 といったように、名だたる者を要所要所にすえ、孔明がその中央荊州に留守し、四境鉄壁の固めかたであった。

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