松に古今の色無し
一
旌旗色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭のうらみを霊車に駕して、空しく成都へ帰る蜀軍の列だった。
「ゆくてに煙が望まれる。……この山中に不審なことだ。誰か見てこい」
楊儀、姜維の両将は、物見を放って、しばらく行軍を見合わせていた。道はすでに有名な桟道の嶮岨に近づいていたのである。
一報。二報。偵察隊は次々に帰ってきた。
すなわち云う。この先の桟道を焼き払って、道を阻めている一軍がある。それは魏延にちがいないと。
「さてこそ」
姜維は扼腕したが、楊儀は文吏である。どうしようと色を失った。
「心配はない。日数はかかるが、槎山の間道を辿れば、桟道によらず、南谷のうしろへ出られる」
嶮岨、隘路を迂回して、全軍は辛くも南谷をふさいでいる魏延軍のうしろへ出た。
途上から、楊儀はこの顛末を、成都へ報じた。ところが、その前に、魏延からも、上表がとどいていた。
(楊儀、姜維の徒が、丞相薨ぜられるや、たちまち、兵権を横奪して、乱を企てておるので、自分は彼らを討つ所存である)
というのが魏延からの上奏文であり、後から届いた楊儀の上表には、それとはまったく反対な実状が訴えられてきた。
孔明の訃が報じられて、成都宮の内外は、哀号の声と悲愁の思いに閉じられ、帝劉禅も皇后も日夜かなしみ嘆いていた折なので、この直後の変に対しても、いかに裁いてよいか、判断にも迷った。
すると蒋琬が、こう云ってなぐさめた。
「丞相遠く出られる日より、ひそかに魏延の叛骨は憂いのたねとしておられました。平素その活眼ある丞相のことゆえ、必ずや死後のおもんぱかりをなして、何らかの策を楊儀らに遺して逝ったにちがいありません。しばらく、次の報らせをお待ちあそばしませ」
蒋琬の言はさすがによく事態をみ、孔明の遺志を知るものでもあった。
魏延は手勢数千をもって、桟道を焼き落し、南谷を隔てて、
「楊儀や姜維に一泡吹かせてくれん」と、構えていたものだが、何ぞ知らん、その相手が間道づたいにうしろへ迫っていたことに気づかなかった。
必然、彼の旺なる覇気叛骨も、一敗地にまみれ去った。手勢の大半は、千仭の谷底へ追い落しを喰い、残余の兵をかかえて、命からがら逃げのびた。
かかる中にも慌てず騒がず、彼に従ってしかもなお無疵の精兵を部下に持っていたのはかの馬岱だった。
魏延はかつて彼に加えた我意傲慢もわすれて今は馬岱をたのみにして諮った。
「どうしよう。いっそのこと、魏の国へ逃げこんで、曹叡に降ろうか」
「何たるお気の小さいことをいわるるか。東西両川の人士はみな孔明なくんば魏延こそ蜀の将来を担う者と嘱目していたのではありませんか。またあなたもその自負信念があればこそ桟道を焼いたのでしょう」
「そうだ。もとよりそうであったが……」
「なぜ初志を貫徹なさらないのですか。及ばずながら馬岱もおりますのに」
「貴公もあくまで行動を共にしてくれるか」
「ひとたび一つ旗の下に陣夢を結んだ宿縁からもあなたを離れるようなことはいたしません」
「有難い。さらば南鄭へ襲せかけよう」
と、兵備をあらためて、そこへ急襲に向った。
南谷を渡って、魏延に一痛打を加え去った楊儀、姜維らは、先を急いでその霊車を南鄭城の内に安んじ、さて殿軍が着くのを待って、魏延のうごきを訊いていたところであった。
「――なに。なおまっしぐらにこれへ攻めてくるとか。小勢とはいえ、蜀中一の勇猛、加うるに、馬岱も彼を助けておる。油断はなりませぬぞ」
姜維がかく戒めると、楊儀の胸には、この時とばかり、思い出されたものがある。それは孔明が臨終の折、自分に授けて、後日、魏延に変あるとき見よ、と遺言して逝った――あの錦の嚢であった。
二
嚢の中には一書が納められてあった。孔明の遺筆たるはいうまでもない。封の表には、
――魏延、叛を現わし、その逆を伐つ日まではこれを開いて秘力を散ずるなかれ。
と、したためてある。
楊儀と姜維は嚢中の遺計が教える所に従って、急に作戦を変更した。すなわち閉じたる城門を開け放ち、姜維は銀鎧金鞍という武者振りに、丹槍の長きを横にかかえ、手兵二千に、鼕々と陣歌を揚げさせて、城外へ出た。
魏延は、はるかにそれを見、同じく雷鼓して陣形を詰めよせて来た。やがて漆黒の馬上に、朱鎧緑帯し、手に龍牙刀をひっさげて、躍り出たる者こそ魏延だった。
味方であった間は、さまでとも思えなかったが、こうして敵に廻してみると、何さま魁偉な猛勇に違いない。姜維も並ならぬ大敵と知って、心中に孔明の霊を念じながら叫んだ。
「丞相の身も未だ冷えぬうちに、乱を謀むほどな悪党は蜀にはいない筈だ。日頃を悔いて自ら首を、霊車に供え奉りに来たか」
「笑わすな、姜維」
魏延は、唾して軽くあしらった。
「まず、楊儀を出せ、楊儀からさきに片づけて、然る後、貴様の考え次第ではまた対手にもなってやろう」
すると、後陣の中からたちまち楊儀が馬をすすめて来た。
「魏延! 野望を持つもいいが、身の程を量って持て。一斗の瓶へ百斛の水を容れようと考える男があれば、それは馬鹿者だろう」
「おっ、おのれは楊儀だな」
「口惜しくば天に誓ってみよ。――誰が俺を殺し得んや――と」
「なにを」
「――誰が俺を殺し得んやと、三度叫んだら、漢中はそっくり汝に献じてくれる。いえまい、それほどな自信は叫べまい」
「だまれ、孔明すでに亡き今日、天下に俺と並び立つ者はない。三度はおろか何度でもいってやろう」
魏延は馬上にそりかえって大音をくり返した。
「誰か俺を殺し得んや。――誰か俺を殺し得んや。――おるなら出て来いっ」
すると、彼のすぐうしろで、大喝が聞えた。
「ここにいるのを知らぬか。――それっ、この通り殺してやる」
「あっ?」
振り向いた頭上から、戛然、一閃の白刃がおりてきた。どうかわす間も受ける間もない。魏延の首は血煙を噴いてすッ飛んだ。
わあっ――と敵味方とも囃した。血刀のしずくを振りつつ、すぐ楊儀と姜維の前へ寄ってきたのは、馬岱であった。
孔明の生前に、馬岱は秘策をうけていた。魏延の叛意はその部下全部の本心ではないので、兵はみな彼と共に帰順した。
かくて、孔明の霊車は、無事に成都へ着いた。四川の奥地はすでに冬だった。蜀宮雲低く垂れて涙恨をとざし、帝劉禅以下、文武百官、喪服して出迎えた。
孔明の遺骸は、漢中の定軍山に葬られた。宮中の喪儀や諸民の弔祭は大へんなものだったが、定軍山の塚は、故人の遺言によって、きわめて狭い墓域に限られ、石棺中には時服一着を入れたのみで、当時の慣例としては質素極まるものだったという。
「身は死すともなお漢中を守り、毅魄は千載に中原を定めん」となす、これが孔明の遺志であったにちがいない。
蜀朝、諡して、忠武侯という。廟中には後の世まで、一石琴を伝えていた。軍中つねに愛弾していた故人の遺物である。一掻すれば琴韻清越、多年干戈剣戟の裡にも、なお粗朴なる洗心と雅懐を心がけていた丞相その人の面影を偲ぶに足るといわれている。
渺茫千七百年、民国今日の健児たちに語を寄せていう者、豈ひとり定軍山上の一琴のみならんやである。「松ニ古今ノ色無シ」相響き相奏で、釈然と醒めきたれば、古往今来すべて一色、この輪廻と春秋の外ではあり得ない。
底本:「三国志(八)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年5月11日第1刷発行
2008(平成20)年7月1日第49刷発行
※副題には底本では、「五丈原の巻」とルビがついています
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2013年7月11日作成
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