巫女

「なに、無条件で和睦せよと。ばかをいい給え」
 郭汜は、耳もかさない。
 それのみか、不意に、兵に令を下して、楊彪について来た大臣以下宮人など、六十余人の者を一からげに縛ってしまった。
「これは乱暴だ。和議の媒介に参った朝臣方を、なにゆえあって捕え給うか」
 楊彪が声を荒くしてとがめると、
「だまれっ。李司馬のほうでは、天子をさえ捕えて質としているではないか。それをもって、彼は強味としているゆえ、此方もまた、群臣を質として召捕っておくのだ」
 傲然、郭汜は云い放った。
「おお、なんたることぞ! 国府の二柱たる両将軍が、一方は天子を脅かして質となし、一方は群臣を質としてうそぶく。浅ましや、人間の世もこうなるものか」
「おのれ、まだ囈言をほざくかっ」
 剣を抜いて、あわや楊彪を斬り捨てようとしたとき、中郎将楊密が、あわてて郭汜の手を抑えた。楊密の諫めで、郭汜は剣を納めたけれども縛りあげた群臣はゆるさなかった。ただ楊彪と朱雋の二人だけ、ほうりだされるように陣外へ追い返された。
 朱雋は、もはや老年だけに、きょうの使いには、ひどく精神的な打撃をうけた。
「ああ。……ああ……」
 と、何度も空を仰いで、力なく歩いていたが、楊彪をかえりみて、
「お互いに、社稷の臣として、君を扶け奉ることもできず、世を救うこともできず、なんの生き甲斐がある」と歎いた。
 果ては、楊彪と抱きあって、路傍に泣きたおれ、朱雋は一時昏絶するほど悲しんだ。
 そのせいか、老人は、家に帰るとまもなく、血を吐いて死んでしまった。楊彪が知らせを受けて馳けつけてみると、朱雋老人の額は砕けていた。柱へ自分の頭をぶっつけて憤死したのである。
 朱雋でなくとも、世の有様を眺めては、憤死したいものはたくさんあったろう。――それから五十余日というもの、明けても暮れても、李傕郭汜の両軍は、毎日、巷へ兵を出して戦っていた。
 戦いが仕事のように。戦いが生活のように。戦いが楽しみのように。意味なく、大義なく、涙なく、彼らは戦っていた。
 双方の死骸は、街路に横たわり、溝をのぞけば溝も腐臭。木陰にはいれば木陰にも腐臭。――そこに淋しき草の花は咲き、虻がうなり、馬蠅が飛んでいた。
 馬蠅の世界も、彼らの世界も、なんの変りもなかった。――むしろ馬蠅の世界には、緑陰の涼風があり、豆の花が咲いていた。
「死にたい。しかし死ねない。なぜ、朕は天子に生れたろうか」
 帝は、日夜、御涙の乾く時もなく沈んでおられた。
「陛下」
 侍中郎の楊琦がそっとお耳へささやいた。
李傕の謀臣に、賈詡という者がおります。――臣がひそかに見ておりますに、賈詡には、まだ、真実の心がありそうです。帝の尊ぶべきことを知る士らしいと見ました。いちどひそかにお召しになってごらんなさい」
 或る時、賈詡は用があって、帝の幽室へはいって来た。帝は人をしりぞけて突然陪臣の賈詡の前に再拝し、
「汝、漢朝の乱状に義をふるって、朕にあわれみを思え」と、宣うた。
 賈詡は、驚いて、床にひざまずき、頓首して答えた。
「今の無情は、臣の心ではありません。時をお待ち遊ばしませ」
 そこへ、折悪く李傕がはいってきた。長刀を横たえ、鉄の鞭をさげ、帝の顔をじっと睨みつけたので、帝は、お顔を土気色にして恐れおののいた。
「すわ!」
 と侍臣達は万一を思って、帝のまわりに総立ちになり、おのおの、われを忘れて剣を握った。
 その空気に、かえって李傕のほうが、怖れをなしたらしく、
「あははは。なにを驚いたのかね。……賈詡、なんぞ面白いはなしでもないか」
 などと笑いにまぎらして、間もなく外へ立ち去った。

 李傕の陣中には、巫女がたくさんいた。みな重く用いられ、絶えず帷幕に出入りして、なにか事あるごとに、祭壇に向って、祷りをしたり、調伏の火を焚いたり、神降しなどして、
「神さまのお告げには」と、妖しげなご託宣を、李傕へ授けるのであった。
 李傕は、おそろしく信用する。何をやるにもすぐ巫女を呼ぶ。そして神さまのお告げを聴く。
 巫女の降す神は邪神とみえ、李傕は天道も人道も怖れない。いよいよ乱を好んで、郭汜といがみあい、兵を殺し、民衆を苦しめてかえりみなかった。
 彼と同郷の産、皇甫酈は、或る時、彼を陣中に訪れて、
「無用な乱は、よい加減にやめてはどうです。君も国家の上将として、爵禄を極め、何不足もないはずなのに」と、いった。
 李傕は、嘲笑って、
「君は、何しに来たか」
 と、反問した。
 皇甫酈もニヤリとして、
「どうも、将軍はすこし神懸りにかかっているようだから、将軍に憑いている邪神を掃い落して上げようと思って来た」と、答えた。
 彼は、弁舌家なので、滔々と舌をふるい、私闘のために人民を苦しめたり、天子を監禁したりしている彼の罪を鳴らし、今にして悔い改めなければ、ついに、天罰があたるといった。
 李傕は、いきなり剣を抜いて、彼の顔に突きつけ、
「帰れっ。――まだ口を開いていると、これを呑ませるぞ」と、どなりつけた。そして、「――さては、天子の密旨をうけて、おれに和睦をすすめに来たな。天子のご都合はよいか知らぬが、おれには都合が悪い。誰かこの諜者をくれてやるから、試し斬りに用いたい者はいないか」
 すると、騎都尉の楊奉が、
「それがしにお下げください。内密のお差向けとは申せ、将軍が勅使を虐殺したと聞えたら、天下の諸侯は、敵方の郭汜へみな味方しましょう。将軍は世の同情を失います」
「勝手にしろ」
「では」と、楊奉は、皇甫酈を、外へ連れ出して放してやった。
 皇甫酈は、まったく、帝のお頼みをうけて、和睦の勧告に来たのだったが、失敗に終ったのでそこから西涼へ落ちてしまった。
 だが、途々、「大逆無道の李傕は、今に天子をも殺しかねない人非人だ。あんな天理に反いた畜生は、必ずよい死に方はしないだろう」
 と、云いふらした。
 ひそかに、帝に近づいていた賈詡も、暗に、世間の悪評を裏書きするようなことを、兵の間にささやいて、李傕の兵力を、内部から切りくずしていた。
「謀士賈詡さえ、ああ云うくらいだから、見込みはない」
 脱走して、他国や郷土へ落ちてゆく兵がぼつぼつ殖えだした。
 そういう兵には、
「おまえたちの忠節は、天子もお知りになっておる。時節を待て。そのうちに、触れが廻るであろうから」と、云いふくめた。
 一隊、一隊と、目に見えて、李傕の兵は、夜の明けるたび減って行った。
 賈詡は、ほくそ笑んだ。そしてまた、或る時、帝に近づいて献策した。
「この際、李傕の官職を大司馬にのぼせ、恩賞の沙汰をお降し下さい――目をおつぶり遊ばして」

 李傕は、煩悶していた。夜が明けるたび営中の兵が減って行く。
「なにが原因か?」
 考えても、分からなかった。
 不機嫌なところへ、反対に、思いがけない恩賞が帝から降った。彼は有頂天になって、例のごとく巫女を集め、
「今日、大司馬の栄爵を賜わった。近いうちに、何か、吉事があると、おまえ達が預言したとおりだった。祈祷の験はまことに顕かなもんだ。おまえ達にも、恩賞をわけてつかわすぞ」
 と、それぞれの巫女へ、莫大な褒美を与えて、いよいよ妖邪の祭りを奨励した。
 それにひきかえ将士には、なんの恩賞もなかった。むしろこの頃、脱走者が多いので叱られてばかりいた。
「おい楊奉
「やあ、宋果か。どこへゆく」
「なに……。ちょっと、貴公に内密で話したいと思って」
「なんだ? ここなら誰もいないが、君らしくもなく、ふさいでいるじゃないか」
「楽しまないのは、この宋果ばかりではない。おれの部下も、営内の兵は皆、あんなに元気がない。これというのも、われわれの大将が将士を愛する道を知らないからだ――悪いことはみな兵のせいにし、よいことがあれば、巫女の霊験と思っている」
「ううム。……まったく、ああいう大将の下にいたら、将士も情けないものだ。われわれは常に、十死に一生をひろい、草を喰いに臥し修羅の中に生命をさらして働いている者だが……その働きはあの巫女にも及ばないのだから」
楊奉。――お互いに部下をあずかる将校として部下が可哀そうじゃないか」
「でも仕方があるまい」
「それで実は、君に……」と、同僚の宋果は、一大決心を、楊奉の耳へささやいた。
 叛乱を起そうというのだ。楊奉も異存はない。天子を扶けだしてやろうとなった。
 その夜の二更に、宋果は、中軍から火の手をあげる合図だった。――楊奉は、外部にあって、兵を伏せていた。
 ところが、時刻になっても、火の手はあがらない。物見を出してうかがわせると、事前に発覚して、宋果は、李傕に捕われて、もう首を刎ねられてしまったとある。
「しまった」と、狼狽しているところへ、李傕の討手が、楊奉の陣へ殺到して来た。すべてが喰い違って、楊奉は度を失い、四更の頃まで抗戦したが、さんざんに打負かされて、彼はついに夜明けとともに、何処ともなく落ちのびてしまった。
 李傕の方では、凱歌をあげたが、おかしなものである。実はかえって大きな味方の一勢力を失ったのだ。――日をおうに従って、彼の兵力はいちじるしく衰弱を呈してきた。
 一方、郭汜軍も、ようやく、戦い疲れていた。そこへ、陝西地方から張済と称する者が、大軍を率いて仲裁に馳け上り、和睦を押しつけた。
 いやといえば、新手の張済軍に叩きのめされるおそれがあるので、
「爾今、共に協力して政事をたて直そう」と、和解した。
 質となっていた百官も解放され、帝もはじめて眉をひらいた。帝は張済の功を嘉し、張済を驃騎将軍に命じた。
長安は大廃しました。弘農陝西省・西安附近)へお遷りあってはいかがです」
 張済のすすめに、帝も御心をうごかした。
 帝には、洛陽の旧都を慕うこと切なるものがあった。春夏秋冬、洛陽の地には忘れがたい魅力があった。
 弘農は、旧都に近い。御意はたちまち決った。
 折しも、秋の半ば、帝と皇后の輦は長い戟を揃えた御林軍の残兵に守られて、長安の廃墟を後に、曠茫たる山野の空へと行幸せられた。

 行けども行けども満目の曠野である。時しも秋の半ば、御車の簾は破れ、詩もなく笑い声もなく、あるはただ、惨心のみであった。
 旅の雨にあせた帝の御衣には虱がわいていた。皇后のお髪には油の艶も絶え、お涙の痩せをかくすお化粧の料もなかった。
「ここは何処か」
 吹く風の身に沁みるまま帝は簾のうちから訊かれた。薄暮の野に、白い一水が蜿々と流れていた。
覇陵橋の畔です」
 李傕が答えた。
 間もなく、その橋の上へ、御車がかかった。すると、一団の兵馬が、行手をふさぎ、
「車上の人間は何ものだ」と、咎めた。
 侍中郎の楊琦が、馬をすすめ、
「これは、漢の天子の弘農へ還幸せらるる御車である。不敬すな!」と、叱咤した。
 すると、大将らしい者二人、はっと威に恐れて馬を降り、
「われわれどもは、郭汜の指図によって、この橋を守り、非常を戒めている者でござるが、真の天子と見たならば、お通し申さん。願わくは拝をゆるされたい」
 楊琦は、御車の簾をかかげて見せた。帝のお姿をちらと仰ぐと、橋を固めていた兵は、われを忘れて、万歳を唱えた。
 御車が通ってしまった後から、郭汜が馳けつけて来た。そして、二人の大将を呼びつけるなり呶鳴りつけた。
「貴様たちは、なにをしていたのだ。なぜ御車を通したか」
「でも、橋を固めておれとのお指図はうけましたが、帝の玉体を奪い取れとはいいつかりませんでした」
「ばかっ。おれが、張済のいうに従って、一時兵を収めたのは、張済を欺くためで、心から李傕と和睦したのじゃない。――それくらいなことが、わが幕下でありながら分らんのかっ」
 と、二人の将を、立ちどころに縛めて、その首を刎ねてしまった。
 そして、声荒く、
「帝を追えっ」
 と、罵って、兵を率いて先へ急いだ。
 次の日、御車が華陰県をすぐる頃に、後から喊の声が迫った。
 振向けば、郭汜の兵馬が、黄塵をあげて、狂奔してくる。帝は、あなとばかり声を放ち、皇后は怖れわなないて、帝の膝へしがみついてはや、泣き声をおろおろと洩らし給う。
 前後を護る御林の兵も、きわめて僅かしかいないし、李傕もすでに、長安で暴れていたほどの面影はない。
郭汜だ。どうしよう」
「おお! もうそこへ」
 宮人たちは、逃げまどい、車の陰にひそみ、唯うろたえるのみだったが――時しもあれ一彪の軍馬がまた、忽然と、大地から湧きだしたように、彼方の疎林や丘の陰から、鼓を打鳴らして殺到した。
 意外。意外。
 帝を護る人々にも、帝の御車を追いかけて来た郭汜にも、それはまったく意外な者の出現だった。
 見れば――
 その勢一千余騎。まっ黒に馳け向って来る軍の上には「大漢楊奉」と書いた旗がひらめいていた。
「あっ。楊奉?」
 誰も、その旗には、目をみはったであろう。先頃、李傕に叛いて、長安から姿を消した楊奉を知らぬはない。――彼はその後、終南山にひそんでいたが、天子ここを通ると知って、にわかに手勢一千を率し、急雨の山を降るが如く、野を捲いて、これへ馳けて来たものだった。

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