巫女
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「なに、無条件で和睦せよと。ばかをいい給え」
郭汜は、耳もかさない。
それのみか、不意に、兵に令を下して、楊彪について来た大臣以下宮人など、六十余人の者を一からげに縛ってしまった。
「これは乱暴だ。和議の媒介に参った朝臣方を、なにゆえあって捕え給うか」
楊彪が声を荒くしてとがめると、
傲然、郭汜は云い放った。
「おのれ、まだ囈言をほざくかっ」
剣を抜いて、あわや楊彪を斬り捨てようとしたとき、中郎将楊密が、あわてて郭汜の手を抑えた。楊密の諫めで、郭汜は剣を納めたけれども縛りあげた群臣はゆるさなかった。ただ楊彪と朱雋の二人だけ、ほうりだされるように陣外へ追い返された。
朱雋は、もはや老年だけに、きょうの使いには、ひどく精神的な打撃をうけた。
「ああ。……ああ……」
と、何度も空を仰いで、力なく歩いていたが、楊彪をかえりみて、
「お互いに、社稷の臣として、君を扶け奉ることもできず、世を救うこともできず、なんの生き甲斐がある」と歎いた。
戦いが仕事のように。戦いが生活のように。戦いが楽しみのように。意味なく、大義なく、涙なく、彼らは戦っていた。
双方の死骸は、街路に横たわり、溝をのぞけば溝も腐臭。木陰にはいれば木陰にも腐臭。――そこに淋しき草の花は咲き、虻がうなり、馬蠅が飛んでいた。
馬蠅の世界も、彼らの世界も、なんの変りもなかった。――むしろ馬蠅の世界には、緑陰の涼風があり、豆の花が咲いていた。
「死にたい。しかし死ねない。なぜ、朕は天子に生れたろうか」
帝は、日夜、御涙の乾く時もなく沈んでおられた。
「陛下」
「汝、漢朝の乱状に義をふるって、朕にあわれみを思え」と、宣うた。
賈詡は、驚いて、床にひざまずき、頓首して答えた。
「今の無情は、臣の心ではありません。時をお待ち遊ばしませ」
そこへ、折悪く李傕がはいってきた。長刀を横たえ、鉄の鞭をさげ、帝の顔をじっと睨みつけたので、帝は、お顔を土気色にして恐れおののいた。
「すわ!」
と侍臣達は万一を思って、帝のまわりに総立ちになり、おのおの、われを忘れて剣を握った。
その空気に、かえって李傕のほうが、怖れをなしたらしく、
「あははは。なにを驚いたのかね。……賈詡、なんぞ面白いはなしでもないか」
などと笑いにまぎらして、間もなく外へ立ち去った。
二
李傕の陣中には、巫女がたくさんいた。みな重く用いられ、絶えず帷幕に出入りして、なにか事あるごとに、祭壇に向って、祷りをしたり、調伏の火を焚いたり、神降しなどして、
「神さまのお告げには」と、妖しげなご託宣を、李傕へ授けるのであった。
李傕は、おそろしく信用する。何をやるにもすぐ巫女を呼ぶ。そして神さまのお告げを聴く。
彼と同郷の産、皇甫酈は、或る時、彼を陣中に訪れて、
「無用な乱は、よい加減にやめてはどうです。君も国家の上将として、爵禄を極め、何不足もないはずなのに」と、いった。
李傕は、嘲笑って、
「君は、何しに来たか」
と、反問した。
皇甫酈もニヤリとして、
彼は、弁舌家なので、滔々と舌をふるい、私闘のために人民を苦しめたり、天子を監禁したりしている彼の罪を鳴らし、今にして悔い改めなければ、ついに、天罰があたるといった。
李傕は、いきなり剣を抜いて、彼の顔に突きつけ、
「帰れっ。――まだ口を開いていると、これを呑ませるぞ」と、どなりつけた。そして、「――さては、天子の密旨をうけて、おれに和睦をすすめに来たな。天子のご都合はよいか知らぬが、おれには都合が悪い。誰かこの諜者をくれてやるから、試し斬りに用いたい者はいないか」
「勝手にしろ」
と、云いふらした。
「謀士賈詡さえ、ああ云うくらいだから、見込みはない」
脱走して、他国や郷土へ落ちてゆく兵がぼつぼつ殖えだした。
そういう兵には、
一隊、一隊と、目に見えて、李傕の兵は、夜の明けるたび減って行った。
賈詡は、ほくそ笑んだ。そしてまた、或る時、帝に近づいて献策した。
三
李傕は、煩悶していた。夜が明けるたび営中の兵が減って行く。
「なにが原因か?」
考えても、分からなかった。
不機嫌なところへ、反対に、思いがけない恩賞が帝から降った。彼は有頂天になって、例のごとく巫女を集め、
「今日、大司馬の栄爵を賜わった。近いうちに、何か、吉事があると、おまえ達が預言したとおりだった。祈祷の験はまことに顕かなもんだ。おまえ達にも、恩賞をわけてつかわすぞ」
と、それぞれの巫女へ、莫大な褒美を与えて、いよいよ妖邪の祭りを奨励した。
それにひきかえ将士には、なんの恩賞もなかった。むしろこの頃、脱走者が多いので叱られてばかりいた。
「おい楊奉」
「やあ、宋果か。どこへゆく」
「なに……。ちょっと、貴公に内密で話したいと思って」
「なんだ? ここなら誰もいないが、君らしくもなく、ふさいでいるじゃないか」
「楽しまないのは、この宋果ばかりではない。おれの部下も、営内の兵は皆、あんなに元気がない。これというのも、われわれの大将が将士を愛する道を知らないからだ――悪いことはみな兵のせいにし、よいことがあれば、巫女の霊験と思っている」
「ううム。……まったく、ああいう大将の下にいたら、将士も情けないものだ。われわれは常に、十死に一生をひろい、草を喰い石に臥し修羅の中に生命をさらして働いている者だが……その働きはあの巫女にも及ばないのだから」
「楊奉。――お互いに部下をあずかる将校として部下が可哀そうじゃないか」
「でも仕方があるまい」
「しまった」と、狼狽しているところへ、李傕の討手が、楊奉の陣へ殺到して来た。すべてが喰い違って、楊奉は度を失い、四更の頃まで抗戦したが、さんざんに打負かされて、彼はついに夜明けとともに、何処ともなく落ちのびてしまった。
李傕の方では、凱歌をあげたが、おかしなものである。実はかえって大きな味方の一勢力を失ったのだ。――日をおうに従って、彼の兵力はいちじるしく衰弱を呈してきた。
いやといえば、新手の張済軍に叩きのめされるおそれがあるので、
「爾今、共に協力して政事をたて直そう」と、和解した。
張済のすすめに、帝も御心をうごかした。
弘農は、旧都に近い。御意はたちまち決った。
四
行けども行けども満目の曠野である。時しも秋の半ば、御車の簾は破れ、詩もなく笑い声もなく、あるはただ、惨心のみであった。
旅の雨にあせた帝の御衣には虱がわいていた。皇后のお髪には油の艶も絶え、お涙の痩せをかくすお化粧の料もなかった。
「ここは何処か」
吹く風の身に沁みるまま帝は簾のうちから訊かれた。薄暮の野に、白い一水が蜿々と流れていた。
「覇陵橋の畔です」
李傕が答えた。
間もなく、その橋の上へ、御車がかかった。すると、一団の兵馬が、行手をふさぎ、
「車上の人間は何ものだ」と、咎めた。
すると、大将らしい者二人、はっと威に恐れて馬を降り、
「貴様たちは、なにをしていたのだ。なぜ御車を通したか」
「でも、橋を固めておれとのお指図はうけましたが、帝の玉体を奪い取れとはいいつかりませんでした」
と、二人の将を、立ちどころに縛めて、その首を刎ねてしまった。
そして、声荒く、
「帝を追えっ」
と、罵って、兵を率いて先へ急いだ。
「郭汜だ。どうしよう」
「おお! もうそこへ」
宮人たちは、逃げまどい、車の陰にひそみ、唯うろたえるのみだったが――時しもあれ一彪の軍馬がまた、忽然と、大地から湧きだしたように、彼方の疎林や丘の陰から、鼓を打鳴らして殺到した。
意外。意外。
見れば――
「あっ。楊奉?」