孟徳新書

「ここは奥書院、俗吏は出入りしませんから、しばし静談しましょう。さあ、お着席ください」
 楊修は、張松へ座をすすめ、自ら茶を煮て、遠来の労を慰めた。
「蜀道は天下の嶮岨とうけたまわる。都まで来るには、ひとかたならぬご辛苦だったでしょう」
 張松は頭を振って、
「君命をうけて使いするに、なんの万里も遠しとしましょう。火を踏み、剣を渡るも、厭うことではありません」と、答えた。
 楊修はかさねて訊いた。
「蜀の国情や地理は、老人のはなしとか、書物とかで知るのみで、直接蜀の人から伺ったことがない。ねがわくは、ご本国の概要を聞かせ給え」
「されば、蜀はわが大陸の西部に位し、路に錦江の嶮をひかえ、地勢は剣閣の万峰に囲まれ、周囲二百八程、縦横三万余里、鶏鳴狗吠白日も聞え、市井点綴、土はよく肥え、地は茂り、水旱の心配は少なく、国富み、民栄え、家に管絃あり、社交に和楽あり、人情は密に、文をこのみ、武を尚び、百年乱を知らずという国がらです」
「おはなしを承っただけでも、一度遊びに行ってみたくなりますね。して、あなたはその蜀で、どんな役目を勤めておられますか」
「お恥かしい微賤です、劉璋の家中において、別駕の職についております。失礼ながら其許は?」
「丞相府の主簿です」
「名門楊家は、数代簪纓の誉れ高くご父祖はみな宰相や大臣の職にあられたのではないか。その子たる者が、何故、丞相府の一官吏となって、賤しき曹操の頤使に甘んじておらるるか、なぜ、廟堂に立って、天子を佐け、四海の政事に身命をささげようとはなさらぬか」
「…………」
 楊修は、身を辱ずるかの如く、顔あからめたまま、しばしうつ向いていたが、
「いや、丞相の門下にあって、軍中兵粮の実務を学び、また平時にはご書庫を預かって、庫中万巻の書を見る自由をゆるされているのは、自分にとって大きな勉強になりますからね」
「ははは、曹操について学ぶことなどがありますかな。聞説、曹丞相は、文を読んでは、孔孟の道も明らかにし得ず、武を以ては、孫呉の域にいたらず、要するに、文武のどちらも中途半端で、ただ取得は、覇道強権を徹底的にやりきる信念だけであると。――こうわれわれは聞いておるが」
「松君。それは君の認識がちがう。蜀の辺隅にいるため、如何せん、君の社会観も人物観も、ちと狭い。丞相の大才は、とうていおわかりになるまい」
「いやいや、僕の偏見よりは、かえって、中央の都府文化に心酔し、それを万能として、天下を見ている人の主観には、往々、病的な独善がある。曹操の大才とは、一体どれ程なものか、何か端的にお示しあるなら、伺いたいものだが」
「よろしい、たとえば、これをご覧なさい」
 楊修は起って、書庫の棚から、一巻の書を取出し張松の手に渡した。
 題簽には、孟徳新書とある。
 張松は、ざっと内容へ目を通した。全巻十三篇、すべて兵法の要諦を説いたものらしい。
「これは、誰の著ですか」
「曹丞相がご自身、軍務の余暇に筆をとられて、後世兵家のために著された書物です」
「ははあ、器用なものだな」
「古学を酌んで、近代の戦術を説き、孫子十三篇に擬えて、孟徳新書と題せらる。この一書を見ても丞相の蘊蓄のほどがうかがえましょう」
 張松はわらって、楊修の手へ、書物を返しながら、
「わが蜀の国では、これくらいな内容は、三尺の童子も知り、寺小屋でも読んでおる。それを孟徳新書などとは……あははは、新書とは、人をばかにしたものだ」
「聞き捨てにならぬおことば、然らばこの書の前に類書があるといわるるか」
「戦国春秋の頃、すでにこれとそっくりな著書が出ておる。著者が誰とも知れぬものゆえ、丞相はそのまま、書き写して、自分の頭から出たもののように、無学の子弟に自慢しているものでござろう。いやはや、とんだ新書もあるものだ」
 哄笑また哄笑して、張松はわらいを止めなかった。

 多少、張松に好意をもっていたらしい楊修も、彼の無遠慮なわらい方と、その大言に、反感をおぼえたらしく、眼に蔑みをあらわして云った。
「いくら何でも、まさか三尺の童子が、このような難解な書を、暗誦じているなどということはありますまい。法螺もおよそにおふきにならんと、ただ人に片腹痛い気持を起させるだけですよ」
「嘘だとお思いなさるのか」
「たれも真にうける者はないでしょう。試みに、御身がまず自分で暗誦してごらんなさい。できますか」
「三尺の童子でもなすことを、なんでそれがしにお試しあるか」
「まあまあ、事実を示してから、お説は聞くとしようではありませんか」
「よろしい。お聞きなさい」
 張松は、胸を正し、膝へ手をおくと、童子が書物を声読するように、孟徳新書の初めから終りまで、一行一字もまちがいなく誦んだ。
 楊修はびっくりした。
 急に、席を下って、うやうやしく、張松を拝し、
「まったく、お見それ申しました。私もずいぶん著名な学者や賢者にも会いましたが、あなたのような人物に会ったのは初めてです、……しばらくこれにお待ちください。曹丞相に申しあげて、もう一度、改めて、ご辺と対面なさるように、お勧め申して来ますから」
 楊修は青年らしい興奮を面にもって、すぐ曹操のところへ行った。そして、なぜ蜀の使いにあんな冷淡な態度をお示しになったのか、とその理由をなじった。
 曹操がいうには、
「一見して分るではないか。あの矯短長臂な体つきは、まるで手長猿だ。予は歓ばん」
「容や貌をもって、人物を選りわけていたら、偽者ばかりつかんで、真人を逸しましょう。そうそう、むかし禰衡という畸人がいましたが、丞相は、あの人間さえ用いたではありませんか」
「それは、禰衡には、一代の文才と、その文の力を以て、民心をつかんでいた能があったからだ。いったい張松などになんの能があるか」
「どうして、どうして、決して端倪するわけにゆきません。海を倒にし、江を翻す弁才があります。丞相の著されたかの孟徳新書をたった一度見ただけで、経をよむごとく、暗誦じてしまいました。のみならず、博覧強記、底が知れません。あの書は、戦国時代の無名の著書で、おそらく丞相の新著ではない。蜀の国では、三尺の童子も知っているなどともいっていました」
 楊修はやや賞めすぎた。青年だから是非もないが、曹操がどんな顔して最後のほうのことばを聞いていたか、気もつかずに、賞めちぎってしまった。
「中国の文化にうとい遠国の使者だ。わが大国の気象も真の武威も知らんのでそんな囈言を申すとみえる。――楊修
「はい」
「明日、衛府の西教場で、大兵調練の閲兵をなすことになっておるから、汝は、張松を連れて、見物に来い。あれに、魏の軍隊のどんなものかを見せてやれ」
 畏まって、楊修は次の日、張松をつれて、練兵場に赴いた。
 この日、曹操は、五万の軍隊を、衛府の練兵場に統率し、甲鎧燦爛、龍爪の名馬にまたがって、閲兵していた。
 虎衛軍五万、槍騎隊三千、儀仗一千、戦車、砲、弩弓手、鼓手、螺手、干戈隊、鉄弓隊など四団八列から鶴翼にひらき、五行に列し、また分散して鳥雲の陣にあらたまるなど、雄大壮絶な調練があった後、曹操は、桟敷の下へ馬を返してきた。
 そして、少し汗ばんだ面には紅を呈し、さも得意そうに、張松を見つけて呼びかけた。
「どうだな、蜀客。蜀にはこういう軍隊があるか」
 張松はさっきから眼を斜めにして見物していたが、にこと笑って、
「ありません。――が蜀はよく文治と道義によって治まり、今日までのところ、兵革の必要はなかったのです。貴国の如くには」
 と、答えた。
 またしても、曹操の心を損じはしないかと、楊修はそばで気をもんでいた。

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