三花一瓶
三花一瓶
一
母と子は、仕事の庭に、きょうも他念なく、蓆機に向って、蓆を織っていた。
がたん……
ことん
がたん
水車の回るような単調な音がくり返されていた。
だが、その音にも、きょうはなんとなく活気があり、歓喜の譜があった。
黙々、仕事に精だしてはいるが、母の胸にも、劉備の心にも、今日この頃の大地のように、希望の芽が生々と息づいていた。
ゆうべ。
劉備は、城内の市から帰ってくると、まっ先に、二つの吉事を告げた。
一人の良き友に出会った事と、かねて手放した家宝の剣が、計らず再び、自分の手へ返ってきた事と。
そう二つの歓びを告げると、彼の母は、
「一陽来復。おまえにも時節が来たらしいね。劉備や……心の支度もよいかえ」
と、かえって静かに声を低め、劉備の覚悟を糺すようにいった。
時節。……そうだ。
長い長い冬を経て、桃園の花もようやく蕾を破っている。土からも草の芽、木々の枝からも緑の芽、生命のあるもので、萌え出ない物はなに一つない。
がたん……
ことん……
蓆機は単調な音をくりかえしているが、劉備の胸は単調でない。こんな春らしい春をおぼえたことはない。
――我は青年なり。
空へ向って言いたいような気持である。いやいや、老いたる母の肩にさえ、どこからか舞ってきた桃花の一片が、紅く点じているではないか。
すると、どこかで、歌う者があった。十二、三歳の少女の声だった。
妾ガ髪初メテ額ヲ覆ウ
花ヲ折ッテ門前ニ戯レ
郎ハ竹馬ニ騎シテ来リ
床ヲ繞ッテ青梅ヲ弄ス
劉備は、耳を澄ました。
少女の美音は、近づいてきた。
……十四君ノ婦ト為ッテ
羞顔未ダ嘗テ開カズ
十五初メテ眉を展ベ
願ワクバ塵ト灰トヲ共ニセン
常ニ抱柱ノ信ヲ存シ
豈上ランヤ望夫台
十六君遠クヘ行ク
近所に住む少女であった。早熟な彼女はまだ青い棗みたいに小粒であったが、劉備の家のすぐ墻隣の息子に恋しているらしく、星の晩だの、人気ない折の真昼などうかがっては、墻の外へきて、よく歌をうたっていた。
「…………」
劉備は、木蓮の花に黄金の耳環を通したような、少女の貌を眼にえがいて、隣の息子を、なんとなく羨ましく思った。
そしてふと、自分の心の底からも一人の麗人を思い出していた。それは、三年前の旅行中、古塔の下であの折の老僧にひき合わされた鴻家の息女、鴻芙蓉のその後の消息であった。
――どうしたろう。あれから先。
張飛に訊けば、知っている筈である。こんど張飛に会ったら――など独り考えていた。
すると、墻の外で、しきりに歌をうたっていた少女が、犬にでも噛まれたのか、突然、きゃっと悲鳴をあげて、どこかへ逃げて行った。
二
少女は、犬に咬まれたわけではなかった。
自分のうしろに、この辺で見たこともない、剣を佩いた巨きな髯漢が、いつのまにか来ていて、
「おい、小娘、劉備の家はどこだな」と、訊ねたのだった。
けれど、少女は、振向いてその漢を仰ぐと、姿を見ただけで、胆をつぶし、きゃっといって、逃げ走ってしまったのであった。
「あははは。わははは」
髯漢は、小娘の驚きを、滑稽に感じたのか、独りして笑っていた。
その笑い声が止むと一緒に、後ろの墻の内でも、はたと、蓆機の音が止んでいた。
墻といっても匪賊に備えるためこの辺では、すべてといってよい程、土民の家でも、土の塀か、石で組上げた物でできていたが、劉家だけは、泰平の頃に建てた旧家の慣わしで、高い樹木と灌木に、細竹を渡して結ってある生垣だった。
だから、背の高い張飛は、首から上が、生垣の上に出ていた。劉備の庭からもそれが見えた。
ふたりは顔を見合って、
「おう」
「やあ」
と、十年の知己のように呼び合った。
「なんだ、ここか」
張飛は、外から木戸口を見つけてはいって来た。ずしずしと地が鳴った。劉家はじまって以来、こんな大きな跫音が、この家の庭を踏んだのは初めてだろう。
「きのうは失礼しました。君に会ったことや、剣のことを、母に話したところ、母もゆうべは歓んで、夜もすがら希望に耽って、語り明かしたくらいです」
「あ。こちらが貴公の母者人か」
「そうです。――母上、このお方です。きのうお目にかかった翼徳張飛という豪傑は」
「オオ」
劉備の母は、機の前からすっと立って張飛の礼をうけた。どういうものか、張飛は、その母公の姿から、劉備以上、気高い威圧をうけた。
また、実際、劉備の母にはおのずから備わっている名門の気品があったのであろう。世の常の甘い母親のように、息子の友達だからといって、やたらに小腰をかがめたりチヤホヤはしなかった。
「劉備からおはなしは聞きました。失礼ですが、お見うけ申すからに頼もしい偉丈夫。どうか、柔弱なわたしの一子を、これから叱咤して下さい。おたがいに鞭撻し合って、大事をなしとげて下さい」と、いった。
「はっ」
張飛は、自然どうしても、頭を下げずにはいられなかった。長上に対する礼儀のみからではなかった。
「母公。安心して下さい。きっと男児の素志をつらぬいて見せます。――けれどここに、遺憾なことが一つ起りました。で、実はご子息に相談に来たわけですが」
「では、男同士のはなし、わたくしは部屋へ行っていましょう。ゆるりとおはなしなさい」
母は、奥へかくれた。
張飛は、その後の床几へ腰かけて、実は――と、自分の盟友、いや義兄とも仰いでいる、雲長のことを話しだした。
雲長も、自分が見込んだ漢で、何事も打明け合っている仲なので、早速、ゆうべ訪れて、仔細を話したところ、意外にも、彼は少しも歓んでくれない。
のみならず、景帝の裔孫などとは、むしろ怪しむべき者だ。そんな路傍のまやかし者と、大事を語るなどは、もってのほかであると叱られた。
「残念でたまらない。雲長めは、そういって疑うのだ。……ご足労だが、貴公、これから拙者と共に、彼の住居まで行ってくれまいか。貴公という人間を見せたら、彼も恐らくこの張飛の言を信じるだろうと思うから――」
三
張飛は、疑いが嫌いだ。疑われることはなお嫌いだ。雲長が、自分の言を信じてくれないのが、心外でならないのである。
だから劉備を連れて行って、その人物を実際に示してやろう――こう考えたのも張飛らしい考えであった。
しかし、劉備は、「……さあ?」と、いって、考えこんだ。
信じない者へ、強いて、自己を押しつけて、信じろというのも、好ましくないとする風だった。
すると、廊のほうから、
「劉備。行っておいでなさい」
彼の母がいった。
母は、やはり心配になるとみえて、彼方で張飛のはなしを聞いていたものとみえる。
もっとも、張飛の声は、この家の中なら、どこにいても聞えるほど大きかった。
「やあ、お許し下さるか。母公のおゆるしが出たからには、劉君、何もためらうことはあるまい」
促すと、母も共に、「時機というものは、その時をのがしたら、またいつ巡ってくるか知れないものです。――何やら、今はその天機が巡ってきているような気がするのです。些細な気持などにとらわれずに、お誘いをうけたものなら、張飛どのにまかせて、行ってごらんなさい」
劉備は、母のことばに、
「では、参ろう」と決心の腰を上げた。
二人は並んで、廊のほうへ、
「では、行ってきます」
礼をして、墻の外へ出て行った。
すると、道の彼方から、約百人ほどの軍隊が、まっしぐらに馳けてきた。騎馬もあり徒歩の兵もあった。埃の中に、青龍刀の白い光がつつまれて見えた。
「あ……、また来た」
張飛のつぶやきに、劉備はいぶかって、
「なんです、あれは」
「城内の兵だろう」
「関門の兵らしいですね。何事があったのでしょう」
「たぶん、この張飛を、召捕らえにきたのかも知れん」
「え?」
劉備は、驚きを喫して、
「では、こっちへむかって来る軍隊ですか」
「そうだ。もう疑いない。劉君、あれをちょっと片づける間、貴公はどこかに休んで見物していてくれないか」
「弱りましたな」
「なに、大したことはない」
「でも、州郡の兵隊を殺戮したら、とてもこの土地にはおられませんぞ」
云っている間に、もう百余名の州郡の兵は張飛と劉備を包囲してわいわい騒ぎだした。
だが、容易に手は下してはこなかった。張飛の武力を二度まで知っているからであろう。けれど二人は一歩もあるくことはできなかった。
「邪魔すると、蹴殺すぞ」
張飛は、一方へこう呶鳴って歩きかけた。わっと兵は退いたが、背後から矢や鉄槍が飛んできた。
「面倒っ」
またしても、張飛は持ち前の短気を出して、すぐ剣の柄へ手をかけた。
――すると、彼方から一頭の逞しい鹿毛を飛ばして、
「待てっ、待てえ」
と呼ばわりながら馳けてくる者があった。州郡の兵も、張飛も、何気なく眼をそれへはせて振向くと、胸まである黒髯を春風になぶらせ、腰に偃月刀の佩環を戛々とひびかせながら、手には緋総のついた鯨鞭を持った偉丈夫が、その鞭を上げつつ近づいてくるのであった。
四
それは、雲長であった。
童学草舎の村夫子も、武装すれば、こんなにも威風堂々と見えるものかと、眼をみはらせるばかりな雲長の風貌であった。
「待て諸君」
乗りつけてきた鹿毛の鞍から跳び降りると、雲長は、兵の中へ割って入り、そこに囲まれている張飛と劉備を後ろにして、大手をひろげながらいった。
「貴公らは、関門を守備する領主の兵と見うけるが、五十や百の小人数をもって、一体なにをなさろうとするのか。――この漢を召捕ろうとするならば」と、背後にいる張飛へ、顎を振向けて、
「まず五百か千の人数をそろえてきて、半分以上の屍はつくる覚悟がなければからめ捕ることはできまい。諸君は、この翼徳張飛という人間が、どんな力量の漢か知るまいが、かつて、幽州の鴻家に仕えていた頃、重さ九十斤、長さ一丈八尺の蛇矛をふるって、黄巾賊の大軍中へ馳けこみ、屍山血河をつくって、半日の合戦に八百八屍の死骸を積み、張飛のことを、八百八屍将軍と綽名して、黄匪を戦慄させたという勇名のある漢だ。――それを、素手にもひとしい小人数で、からめ捕ろうなどは、檻へ入って、虎と組むようなもの、各〻が皆、死にたいという願いで、この漢へかまうなら知らぬこと、命知らずな真似はやめたらどうだ。生命の欲しい者は足もとの明るいうちに帰れ。ここは、かくいう雲長にまかせて、ひとまず引揚げろ」
雲長は、実に雄弁だった。一息にここまで演説して、まったく相手の気をのんでしまい、さらに語をついでいった。
「――こういったら諸公は、わしを何者ぞと疑い、また、巧みに張飛を逃がすのではないかと、疑心を抱くであろうが、さに非ず、不肖はかりそめにも、童学草舎を営み子弟の薫陶を任とし、常に聖賢の道を本義とし、国主を尊び、法令を遵守すべきことを、身にも守り、子弟に教えている雲長関羽という者である。そして、これにいる翼徳張飛は、何をかくそう自身の義弟にあたる人間でもある。――だが、昨夜から今朝にかけて、張飛が官の吏兵を殺害し、関門を破り、酒の上で暴行したことを聞き及んで、ゆるしがたく思い、この上多くの犠牲を出さんよりは、義兄たるわが手に召捕りくれんものと、かくは身固め致して、官へ願い出で、宙を馳せてこれへ駆けつけてきたわけでござる――。張飛はこの雲長が召捕って、後刻、太守の県城へまで送り届けん。諸公は、ここの事実を見とどけて、その由、先へご報告おきねがう」
雲長は、沓をめぐらして、きっと張飛のほうへ今度は向きなおった。
そして、大喝一声、
「ここな不届き者っ」
と、鯨の鞭で、張飛の肩を打ちすえた。
張飛は、むかっとしたような眼をしたが、雲長はさらに、
「縛につけ」と、跳びかかって、張飛の両手を後ろへまわした。
張飛は、雲長の心を疑いかけたが、より以上、雲長の人物を信じる心のほうが強かった。
で――何か考えがあることだろうと、神妙に縄を受けて、大地へ坐ってしまった。
「見たか、諸公」
雲長は再び、呆っ気にとられている捕吏や兵の顔を見まわして、
「張飛は、後刻、それがしが県城へ直接参って渡すから、諸公は先へここを引揚げられい。それともなお、この雲長を怪しみ、それがしの言葉を疑うならば、ぜひもない、縄を解いて、この猛虎を、諸公の中へ放つが、どうだ」
いうと、捕吏も兵も、逃げ足早く、物もいわず皆、退却してしまった。
五
誰もいなくなると、雲長はすぐ張飛の縄を解いて、
「よく俺を信じて、神妙にしていてくれた。事なく助ける策謀のためとはいえ、貴様を手にかけた罪はゆるしてくれ」
詫びると、張飛も、
「それどころではない。また無益の殺生を重ねるところを、尊兄のお蔭で助かった」と、今朝のむかっ腹もわすれて、いつになく、素直に謝った。そして、「――だが雲長。その身なりは一体、どうしたことか。俺を助けにくるためにしては、余りに物々しい装いではないか」
怪しんで問うと、
「張飛。なにをとぼけたことをいう。それでは昨夜、あんなに熱をこめて、時節到来だ、良き盟友をえた、いざ、かねての約束を、実行にかかろうといったのは、嘘だったのか」
「嘘ではないが、大体、尊兄が不賛成だったろう。俺のいうこと何ひとつ、信じてくれなかったじゃないか」
「それは、あの場のことだ。召使いもいる、女どももいる。貴様のはなしは、秘密秘密といいながら、あの大声だ。洩れてはならない――そう考えたから一応冷淡に聞いていたのだ」
「なんだ、それなら、尊兄もわしの言葉を信じ、かねての計画へ乗りだす肚を固めてくれたのか」
「おぬしの言葉よりも、実は、相手が楼桑村の劉備どのと聞いたので、即座に心はきめていたのだ。かねがね、わしの村まで孝子という噂の聞えている劉備どの、それによそながら、ご素姓や平常のことなども、ひそかに調べていたので」
「人が悪いな。どうも尊兄は、智謀を弄すので、交際いにくいよ」
「ははは。貴様から交際いにくいといわれようとは思わなかった。人を殺し、酒屋を飲みたおし、その尻尾は童学草舎へ持って行けなどという乱暴者から、そういわれてはたまらない」
「もう行ったか」
「酒屋の勘定ぐらいならよいが、官の捕手を殺したのは、雲長の義弟だと分ったひには、童学草舎へも子供を通わせる親はあるまい。いずれ官からこの雲長へも、やかましく出頭を命じてくるにきまっている」
「なるほど」
「他人事のように聞くな」
「いや、済まん」
「しかし、これはむしろ、よい機だ。天意の命じるものである。こう考えたから、今朝、召使いや女どもへ、みな暇を出した上、通学してくる子供たちの親も呼んで、都合によって学舎を閉鎖するといい渡し、心おきなく、身一つになって、かくは貴様の後を追って来たわけだ。――さ。これから改めて、劉備どのの家へお目にかかりに行こう」
「いや。劉備どのなら、そこにいる」
「え? ……」
雲長は、張飛の指さす所へ、眼を振り向けた。
劉備は最前から、少し離れた所に立っていた。そして、張飛と雲長との二人の仲の睦まじさと、その信義に篤い様子を見て、感にたえている面もちだった。
「あなたが劉備様ですか」
雲長は、近づいて行くと、彼の足もとへ最初から膝を折って、
「初めてお目にかかります。自分は河東解良(山西省・解県)の産で、関羽字は雲長と申し、長らく江湖を流寓のすえ、四、五年前よりこの近村に住んで、村夫子となって草裡にむなしく月日を送っていた者です。かねてひそかに心にありましたが、計らずも今日、拝姿の栄に会い、こんな歓ばしいことはありません。どうかお見知りおき下さい」
と、最高な礼儀をとって、慇懃にいった。
六
劉備はあえて、卑下しなかったが、べつに尊大に構えもしなかった。雲長関羽の礼に対して、当り前に礼を返しながら、
「ご丁寧に。……どうも申し遅れました。私は、楼桑村に永らく住む百姓の劉玄徳という者ですが、かねて、蟠桃河の上流の村に、醇風良俗の桃源があると聞きました。おそらく先生の高風に化されたものでありましょう。なにをいうにも、ここは路傍ですから、すぐそこの茅屋までお越しください」
と、誘えば、
「おお、お供しよう」
関羽も歩み、張飛も肩を並べ、共にそこからほど近い劉備の家まで行った。
劉備の母は、また新しい客がふえたので、不審がったが、張飛から紹介されて、関羽の人物を見、よろこびを現して、
「ようぞ、茅屋へ」と心から歓待した。
その晩は、母もまじって、夜更けまで語った。劉備の母は、劉家の古い歴史を、覚えている限り話した。
生れてからまだ劉備さえ聞いていない話もあった。
(いよいよ漢室のながれを汲んだ景帝の裔孫にちがいない)
張飛も、関羽も、今は少しの疑いも抱かなかった。
同時に、この人こそ、義挙の盟主になすべきであると肚にきめていた。
しかし、劉玄徳の母親思いのことは知っているので、この母親が、
(そんな危ない企みに息子を加えることはできない)
と、断られたらそれまでになる。関羽は、それを考えて、ぼつぼつと母の胸をたずねてみた。
すると劉備の母は、みなまで聞かないうちにいった。
「ねえ劉や、今夜はもうおそいから、おまえも寝み、お客様にも臥床を作っておあげなさい。――そして明日はいずれまた、お三名して将来の相談もあろうし、大事の門出でもありますし、母が一生一度の馳走をこしらえてあげますからね」
それを聞いて、関羽は、この母親の胸を問うなど愚であることを知った。張飛も共に、頭を下げて、「ありがとうござる」と、心服した。
劉備は、
「では、お言葉に甘えて、明日はおっ母さんに、一世一代の祝いを奢っていただきましょう。けれどそのご馳走は、吾々ばかりでなく、祭壇を設けて、先祖にも上げていただきたいものです」
「では、ちょうど今は、桃園の花が真盛りだから、桃園の中に蓆を敷こうかね」
張飛は手を打って、
「それはいい。では吾々も、あしたは朝から桃園を浄めて、せめて祭壇を作る手助けでもしよう」
と、いった。
客の二人に床を与えて、眠りをすすめ、劉備と母のふたりは、暗い厨の片隅で、藁をかぶって寝た。劉が眼をさましてみると、母はもういなかった。夜は明けていたのである。どこかでしきりに、山羊の啼く声がしていた。
厨の窯の下には、どかどかと薪がくべられていた。こんなに景気よく窯に薪の焚かれた例は、劉備が少年の頃から覚えのないことであった。春は桃園ばかりでなく、貧しい劉家の台所に訪れてきたように思われた。