痴蝶鏡

 春は、丈夫の胸にも、悩ましい血を沸かせる。
 王允のことばを信じて、呂布はその夜、素直に邸に帰ったもののなんとなく寝ぐるしくて、一晩中、熟睡できなかった。
「――どうしているだろう、貂蝉は今頃」
 そんなことばかり考えた。
 董太師の館へ伴われて行ったという貂蝉が、どんな一夜を明かしているかと、妄想をたくましゅうして、果ては、牀のうえにじっとしていられなくなった。
 呂布は、帳を排して、窓外へ眼をやった。そして彼女のいる相府の空をぼんやり眺めていた。
 鴻が鳴き渡ってゆく。
 朧月が更けている。――夜はまだ明けず、雲も地上も、どことなく薄明るかった。庭前を見れば、海棠は夜露をふくみ、茶蘼は夜靄にうな垂れている。
「ああ」
 彼は、独り呻きながら、また、牀へ横たわった。
「こんなに心のみだれるほど想い悩むのは、俺として生れてはじめてだ。――貂蝉貂蝉、おまえはなぜ、あんな蠱惑な眼をして、おれの心を囚えてしまったのだ」
 彼は、夜明けを待ちかねた。
 ――が、朝となれば、彼は毅然たる武将だった。邸にも多くの武士を飼っている彼だ。朝陽を浴びて颯爽と、例の赤兎馬に乗って、丞相府へ出仕した。
 べつに、そう急用もなかったのであるが、彼は早速、董卓の閣へ出向いて、
「太師はお目ざめですか」と、護衛の番将に訊ねた。
 番将は懶げに、そこから後堂の秘園をふり向いて、
「まだ帳を下ろしていらっしゃるようですな」と、無感情な顔して云った。
「ほ」
 呂布は、何かむらむらと、不安に襲われたが、わざと長閑な陽を仰いで云った。
「もう午の刻にも近いのに、まだお寝みなのか」
「後堂の廊も、あの通り閉したままですから」
 静かに、春園の禽は、昼を啼きぬいていた。
 ――寝殿は帳を垂れたまま寂として、陽の高きも知らぬもののように見える。
 呂布はおおい難い顔いろの裡からやや乱れた言葉でまた訊ねた。
「太師には、昨夜、よほどお寝みがおそかったとみえますな」
「ええ、王允の邸へ、饗宴に招かれて、だいぶごきげんでお帰りでしたからね」
「非常な美姫をお伴れになったそうですな」
「や、将軍もそれを、もうご存じですか」
ムム王允の家の貂蝉といえば有名な美人だから」
「それですよ、太師のお目ざめが遅いわけは。昨夜、その美人を幸いして、春宵の短きを嘆じていらっしゃることでしょう。……何しても、きょうはよい日和ですな」
「あちらで待っているから、太師がお目ざめになったら知らしてくれ」
 呂布は、思わず、憤然と眉に色を出して、そこから立去った。
 相府の一閣で、彼はぼんやりと腕ぐみしていた。気にかかるので、時折、池の彼方の閣を見まもっていた。後堂の寝殿は、真午になって、ようやく窓をひらいた様子であった。
「太師には、ただ今、お目ざめになられました」
 さっきの番将が告げに来た。
 呂布は、取次も待たずに、董卓の後堂へ入って行った。そして、廊にたたずみながら奥をうかがうと、臥房深き所、芙蓉の帳まだみだれて、ゆうべいかなる夢をむすんだか、鏡に向って、臙脂を唇に施している美姫のうしろ姿がちらと見えた。

 呂布は、われを忘れて、臥房のすぐ扉口の外まで、近づいて行った。
「オ……。貂蝉
 彼は、泣きたいように胸を締めつけられた。七尺の偉丈夫も、魂を掻きむしられ、沈吟、去りもやらず、鏡の中に映る彼女のほうを偸み見していた。
 そして、煮え沸る心の底で、
貂蝉はもう昨夜かぎりで、処女ではなくなっている! ……。ここの臥房には、まだすすり泣きの声が残っているようだ。……ああ、董太師もひどい。貂蝉もまた貂蝉だ。……それとも王允がおれを欺いたのか。いやいや董太師に求められては、かよわい貂蝉はもうどうしようもなかったろう」
 彼の蒼白い顔は、なにかのはずみに、ふと室内の鏡に映った。
 貂蝉は、
「あら?」
 びっくりして振向いた。
「…………」
 呂布は、怨みがましい眼をこらして、彼女の顔をじっと睨んだ。――貂蝉は、とたんに、雨をふくんだ梨花のようにわなないて、
(――ゆるして下さい。わたくしの本心ではありません。胸をなでて……怺えて……。このつらいわたしの胸も分っていて下さるでしょう)
 哀れを乞うような、すがりついて泣きたいような、声なき想いを、眼と姿態にいわせて呂布へ訴えた。
 すると、壁の陰で、
貂蝉。……誰かそれへ参ったのか」と、董卓の声がした。
 呂布は、ぎょっとして、数歩跫音をしのばせて、室を離れ、そこからわざと大股に、ずっとはいって来て、
呂布です。太師には、今お目ざめですか」と、常と変らない態を装って礼をした。
 春宵の夢魂、まだ醒めやらぬ顔して、董卓は、その巨躯を、鴛鴦の牀に横たえていたので、唐突な彼の跫音に、びっくりして身を起した。
「誰かと思えば、呂布か。……誰に断って、臥房へ入って来た」
「いや、今、お目ざめと、番将が知らしてくれたものですから」
「いったい、何の急用か」
「は……」
 呂布は、用向きを問われて口ごもった。――臥房へまで来て命を仰ぐほどな用事は何もないのであった。
「実は……こうです。夜来、なんとなく寝ぐるしいうちに、太師が病にかかられた夢を見たものですから、心配のあまり、夜が明けるのを待ちかねて、相府へ詰めておりました。――がしかし、お変りのない容子を見て、安心いたしました」
「何をいっておるのか」
 董卓は、彼のしどろもどろな口吻を怪しんで、舌打ちした。
「起きぬけから忌わしいことを聞かせおる。そんな凶夢を、わざわざ耳に入れにくるやつがあるか」
「恐れ入りました。常々健康をお案じしておるものですから」
「嘘をいえ」と、叱って、「そちの容子は、なんとなくいぶかしいぞ。その眼の暗さはなんだ。その挙動のそわそわしている様はなんだ。去れっ」
「はっ」
 呂布は、うつ向いたまま、一礼して悄然と、影を消した。
 その日、早めに邸へ帰って来ると、彼の妻は、良人の顔色の冴えないのを憂いて訊いた。
「なにか太師のごきげんを損ねたのではありませんか」
 すると呂布は、大声で、
「うるさいっ。董太師がなんだ。この呂布を圧えることは、太師でもできるものか。貴さまは、できると思うのか」
 と、妻に当って、どなりちらした。

 呂布の容子は、目立って変ってきた。
 相府への出仕も、休んだり遅く出たり、夜は酒に酔い、昼は狂躁に罵ったり、また、終日、茫然とふさぎ込んだまま、口もきかない日もあった。
「どうしたんですか」
 妻が問えば、
「うるさい」としかいわない。
 床を踏み鳴らして、檻の猛獣のように、部屋の中を独り廻っている時など、頬を涙にぬらしていることがあった。
 そうこうする間に、一月余りは過ぎて、悩ましい後園の春色も衰え、浅翠の樹々に、初夏の陽が、日ましに暑さを加えてきた。
「お勤めはともかく、この際、お見舞にも出ないでは、大恩のある太師へ叛く者と、人からも疑われましょう」
 彼の妻はしきりと諫めた。
 近頃、董太師が、重いというほどでもないが、病床にあるというので、たびたび、出仕をすすめるのだった。
 呂布もふと、
「そうだ。出仕もせず、お見舞にも出なくては、申し訳ない」
 気を持ち直したらしく、久しぶりで、相府へ出向いた。
 そして、董卓の病床を見舞うと、董卓は、もとより、彼の武勇を愛して、ほとんど養子のように思っている呂布のことであるから、いつか、叱って追い返したようなことは、もう忘れている顔で、
「オオ、呂布か、そちも近頃は、体が勝れないで休んでいるということではないか。どんな容体だの」と、かえって病人から慰められた。
「大したことではありません。すこしこの春に、大酒が過ぎたあんばいです」
 呂布は、淋しく笑った。
 そしてふと、傍らにある貂蝉のほうを眼の隅から見やると、この半月の余は、董卓の枕元について帯も裳も解かず、誠心から看護して、すこし面やつれさえして見える容子なので――呂布はたちまち、むらむらと嫉妬の火に全身の血を燃やされて、
(初めは、心にもなくゆるした者へも、女はいつか、月日と共に、身も心も、その男に囚われてしまうものか)と、遣るかたなく、煩悶しだした。
 董卓は、咳入った。
 その間に、呂布は、顔いろをさとられまいと、牀の裾へ退いた。――そして董卓の背をなでている貂蝉の真白な手を、物に憑かれた人間のように見つめていた。
 すると、貂蝉は、董卓の耳へ、顔をすりよせて、
「すこし静かに、おやすみ遊ばしては……」
 とささやいて、衾をおおい、自分の胸をも、上からかぶせるようにした。
 呂布の眼は、焔になっていた。その全身は、の如く、去るのを忘れていた。貂蝉は、病人の視線を隠すと、その姿を振向いて、片手で袖を持って、眼を拭った。……さめざめと、泣いてみせているのである。
(――辛い。わたしは辛い。想っているお方とは、語らうこともできず、こうして、いつまで心にもない人と一室に暮らさなければならないのでしょう。あなたは無情です。ちっともこの頃は、お姿を見せてくださらない! せめて、お姿を見るだけでも、わたしは人知れず慰められているものを)
 もとより声に出してはいえなかったが、彼女の一滴一滴の涙と、濡れた睫毛と、物いえぬ唇のわななきは、言葉以上に、惻々と、呂布の胸へ、その想いを語っていた。
「……では、では、そなたは」
 呂布は、断腸の思いの中にも、体中の血が狂喜するのをどうしようもなかった。盲目的に彼女のうしろへ寄って行った。そして、その白い頸を抱きすくめようとしたが、屏風の角に、剣の佩環が引っかかったので、思わず足をすくめてしまった。
呂布っ。何するか」
 病床の董卓は、とたんに、大喝して身をもたげた。

 呂布は、狼狽して、
「いや、べつに……」と、牀の裾へ退がりかけた。
「待てっ」と、董卓は、病も忘れて、額に青すじを立てた。
「今、おまえは、わしの眼を偸んで、貂蝉へたわむれようとしたな。――わしの寵姫へ、みだらなことをしかけようとしたろう」
「そんなことはしません」
「ではなぜ、屏風の内へはいろうとしたか。いつまで、そんな所に物欲しそうにまごついているか」
「…………」
 呂布は、いい訳に窮して、真っ蒼な顔してうつ向いた。
 彼は、弁才の士ではない。また、機知なども持ち合わせない人間である。それだけに、こう責めつけられると、進退きわまったかの如く、惨澹たる唇を噛むばかりだった。
「不届き者めッ、恩寵を加えれば恩寵に狎れて、身のほどもわきまえずにどこまでもツケ上がりおる! 向後は予の室へ、一歩でもはいると承知せぬぞ。いや、沙汰あるまで自邸で謹慎しておれ。――退がらぬかっ。これ、誰かある、呂布をおい出せ」
 と、董卓の怒りは甚しく、口を極めて罵った。
 どやどやと、室外に、武将や護衛の力者たちの跫音が馳け集まった。――が、呂布は、その手を待たず、
「もう、来ません!」
 云い放って、自分からさっと、室の外へ出て行った。
 ほとんど、入れちがいに、
「何です? 何か起ったのですか」と、李儒が入ってきた。
 まだ怒りの冷めない董卓は、火のような感情のまま、呂布が、この病室で、自分の寵姫に戯れようとした罪を、外道を憎むように唾して語った。
「困りましたなあ」
 李儒は冷静である。にが笑いさえうかべて聞いていたが、
「なるほど、不届きな呂布です。――けれど太師。天下へ君臨なさる大望のためには、そうした小人の、少しの罪は、笑っておゆるしになる寛度もなければなりません」
「ばかな」
 董卓は、肯じない。
「そんなことをゆるしておいたら、士気はみだれ、主従のあいだはどうなるか」
「でも今、呂布が変心して、他国へ奔ったら、大事はなりませぬぞ」
「…………」
 董卓も、李儒に説かれているうちに、やや激怒もおさまって来た。ひとりの寵姫よりは、もちろん、天下は大であった。いかに貂蝉の愛に溺れていても、その野望は捨てきれなかった。
「だが李儒呂布のやつは、かえって傲然と帰ってしまったが、では、どうしたらよいか」
「そうお気づきになれば、ご心配はありません。呂布は単純な男です。明日、お召しあって、金銀を与え、優しくお諭しあれば、単純だけに、感激して、向後はかならず慎むでしょう」
 李儒の忠言を容れて、彼はその翌日、呂布を呼びにやった。
 どんな問罪を受けるかと、覚悟してきて見ると、案に相違して、黄金十斤、錦二十匹を賜わった上、董卓の口から、
「きのうは、病のせいか、癇癖を起して、そちを罵ったが、わしは何ものよりも、そちを力にしておるのだ。悪く思わず、以前のとおりわが左右を離れずに、日ごとここへも顔を見せてくれい」
 と、なだめられたので、呂布はかえって心に苦しみを増した。しかし主君の温言のてまえ、拝跪して恩を謝し、黙々とその日は無口に退出した。

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