仲秋荒天

袁術先生、予のてがみを読んで、どんな顔をしたろう」
 淮南の使いを追い返したあとで、孫策はひとりおかしがっていた。
 しかし、また一方、
「かならず怒り立って、攻め襲うて来るにちがいない」
 とも思われたので、大江の沿岸一帯に兵船をうかべ、いつでもござんなれとばかり備えていた。
 ところへ、許都曹操から使者が下って、天子のみことのりを伝え、孫策会稽の太守に封じた。
 孫策は、詔をうけたが、同時に曹操からの要求もあった。
 いやそれは朝命としてであった。
 ――直ちに、淮南へ出兵し、偽帝袁術を誅伐せよ。
 という命令である。
 もとより拒むところでない。玉璽をあずけた一半の責任もある。孫策は、
「畏まりて候」と、勅に答えた。
 許都の使いが帰った日である。
 呉の長史――孫策の家老格である張昭は彼に目通りしていった。
「唯々とご承諾になったようですが、何といっても淮南は豊饒の地、袁一族は名望と伝統のある古い家柄です。先ごろ呂布と一戦してやぶれたりといえども、決して軽々しく見ることはできません。――それにひきかえ、わが呉は、新興の国です。鋭気や若さはありますが、財力、軍の結束などまだ足りません」
「やめろというのか」
「勅を拝して、今さら命に背けば、異心ありとみなされます」
「では、どうする?」
「如かず、この際は――あなたから曹操へ急書を発し、こちらは江を渡って袁術の側面を衝くゆえ、許都から大軍を下し、彼の正面に当り給え――と、もっぱら曹操の軍に主戦をやらせるのです。そしてご当家はあくまでも、援兵というお立場をおとりなさい」
「なるほど」
「一にも二にも、曹操を助けると唱えておけばです、後日ご当家に危急のあった折に、曹操へ援兵を要求することだってできましょう」
「や、ありがとう。長史のことばは、近頃の名言だ。その通りに計らおう」
 彼の発した書簡は、日ならずして、許都の相府に着いた。
 この秋、相府の人々は、
「丞相は近ごろ、愚に返ったんじゃないか」
 と、憂いあうほど、曹操はすこしぼんやりしていた。
 この春、張繍を討つべく遠征して、かえって惨敗を負って帰ったので、彼の絶大な自信にゆるぎがきたのか、また多情多恨な彼のこととて、今なお、芙蓉帳裡の明眸や、晩春の夜の胡弓の奏でが忘れ得ないのか――とにかく、この秋の彼の姿は、いつになく淋しい。
「否、否。――丞相はそれほど甘い煩悩児でもないよ」
 と、相府のある者は、彼のすがたをよく新しい祠堂の道に見るといって、人々の愚かな臆測をうち消した。
 新しい祠堂というのは、張繍との戦に奮戦して討死した悪来典韋のために建てた廟であった。
 曹操は、帰京後も典韋の霊をまつり、子の典満を取りたてて、中郎に採用し、果てしなく彼の死を愁んでいた。
 そこへ、呉の孫策から急書がとどいた。曹操は、一議におよばず承知のむねを返辞して、即日三十余万の大兵を動員した。一面は痴児のごとく、めそめそ悲しむくせがあるかと思えば、たちまち果断邁進、三軍を叱咤するの一面を示す彼であった。
 大軍は、続々都を立った。
 時、建安の二年秋九月。許都はうるわしい月夜だった。

 南征の師は、号して三十万とはいうが、実数は約十万の歩兵と、四万の騎兵隊と、千余車の輜重とで編制されていた。
 許都を立つに先だって、もちろん曹操予州劉備玄徳へも、徐州呂布へも、参戦の誘文を発しておいた。

秋天将にたかし。
われ淮水に向って南下す。
乞う途上に会同せられよ。

 檄によって劉玄徳は、関羽張飛などの精猛をひきつれて、予州の境で待ちあわせていた。
 曹操は、彼を見ると、晴々と、
「いつもながら信義に篤い足下の早速な会同を満足におもう」と、いった。
 盟軍の旗と旗とは交歓され、その下にしばし休息しながら、両雄は睦まじそうに語らっていた。
 玄徳は、関羽をかえりみて、「あれを、ここへ」と、いいつけた。
 関羽の手で、そこへ差出されたのは、二顆の首級だった。
 驚いて、曹操は、
「何者の首か?」と眼をみはった。
 玄徳は答えて、
「一つは韓暹の首、一つは楊奉の首です」
袁術の内部から裏切りして、呂布の味方につき、地方へ赴任したあの二人か」
「そうです。その後の両名は、沂都、瑯琊の両県に来て吏庁にのぞんでいましたが、たちまち苛税を課し良民を苦しめ、部下に命じて掠奪を行わしめ、婦女子をとらえて姦するなど、人心を険悪にすること一通りでありません。依って、人民の乞いをいれ、また、吏道を正す意味で、ひそかに関羽張飛に命じ、両名を酒宴に招いて殺させました」
「ほう。そうか」
「ついては、丞相の命を待たずに行ったことですから、今日はご処罰を仰ぐつもりでおります――独断をもって、両名を誅伐した罪、どうかお糺しください」
「何をいう。君のしたことは、吏道を粛正し、良民の害をのぞいたので、私怨私闘とはちがう。その功を、賞めこそすれ、咎める点はない」
「おゆるし給わるか」
「もちろん、呂布へは、自分からも、よきように云っておこう。ご安堵あるがよい」
 ここ数日、秋の空はよく澄んで、日中は暑いくらいだった。
 しかし、南下するに従って、行軍は道に悩んだ。
 ――というのは今年、徐州以南の淮水の地方は、かなり大雨がつづいたらしい。
 ために、諸所の河川は氾濫し、崖はくずれ、野には無数の大小の湖ができてしまい、馬も人も、輜重の車も、泥濘に行きなやむこと一通りでなかった。
「やあ、難行軍だったでしょう」
 呂布は、徐州の堺まで迎えに出ていた。
 曹操はあいそよく、「ご健勝でよろこばしい」と、会釈の礼を交わし、兵馬は府外に駐屯し、その後、駅館の歓迎宴では、劉玄徳も同席して、袁術討伐の気勢をあげた。
 如才ない曹操は、
「このたびの南征には、大いに君の力を借りねばならんが、ついては、自分から朝廷に奏して、君を左将軍に封じておいた。――印綬は、いずれ戦後、改めて下賜されよう」と、告げた。
 呂布はもとよりそういう好意に対しては過大によろこぶ漢である。
「犬馬の労も惜しまず」と、ばかり意気ごむ。
 ここに、曹、玄、呂の三軍は一体となって、続々、南進をつづけ、陣容は完く成った。
 すなわち曹操を中軍として、玄徳は右をそなえ、呂布は左にそなえた。
 これに対し、淮南の自立皇帝袁術には、そもどういう対策があろうか。

「すわ!」
 国境で哨兵は狼火をあげた。
「一大事」とばかり伝騎は飛ぶ。
 早打ち、また早打ち。――袁術寿春城へさして、たちまち櫛の歯をひくように変を知らせてきた。
「曹、玄、呂、三手の軍勢が一体となって――」
 と聞くと、さすがの袁術も、もってのほかに驚倒した。
「とりあえず橋甤まいれ」と、防戦に立たせ、袁術は即刻大軍議をひらいたが、とやかく論議しているまにも、頻々として、
「敵は早くも、国境を破り、なだれ入って候ぞ」との警報である。
 袁術も臍をかため、自ら五万騎をひいて寿春を出で、敵を途中にくいとめんとしたが、
「先鋒の味方あやうし」
 という敗報がすでに聞え渡ってきた。
 と、思うに、
「味方の先鋒の大将橋甤は、惜しくも敵方の先手の大将夏侯惇とわたりあい、乱軍のなかにおいて、馬上より槍にて突き伏せられました」
 と、またもや、おもしろくない注進であった。
 袁術の顔いろが悪くなるたびに、袁術の中軍は動揺しだした。
「あれあれ、あの馬けむりは、敵の大軍が近づいてきたのではないか」
 ひるみ立った士気には、「退くな」と必死に督戦する中軍の令も行われず、全軍、目ざましい抗戦もせず総退却してしまった。
 袁術もやむなく、中軍を退いて寿春城の八門をかたく閉ざし、
「この上は、城地を守って、遠征の敵の疲れを待とう」と、長期戦を決意した。
 寄手は、浸々と、寿春へつめよせる。
 呂布の軍勢は、東から。劉玄徳の兵は西から。
 また、曹操北方の山をこえて、淮南の野を真下にのぞみ、すでにその総司令部を寿春からほど遠からぬ地点まで押しすすめてきたという。
 寿春の上下は色を失い、城中の諸大将も、評議にばかり暮しているところへ、またまた、西南の方面から、霹靂のような一報がひびいてきた。
 曰く、
「――呉の孫策、船手をそろえて、大江を押渡り、曹操と呼応して、これへ攻めよせてくるやに見えます!」
 西南の急報を聞いて、
「なに、孫策が」と、袁術は仰天した。
 彼は、先頃その孫策からうけた無礼な返書を思いあわせて、身を震わせた。
「恩知らず。忘恩の賊子め」
 しかし、いくら罵ってみても事態はうごかない。
 袁術は今や手足のおく所も知らなかった。眼前の曹軍があげる喊の声は、満山の吼えるが如く、背後にせまる江南数百の兵船は海嘯のように彼を脅かして、夜の眠りも与えなかった。
 睡眠不足になった袁術皇帝をかこんで、きょうも諸大将は陰々滅々たる会議に暮らしていたが、時に、楊大将がいった。
「陛下。もういけません。寿春に固執して、ここを守ろうとすれば、自滅あるのみです。おそれながら、かくなる上は、御林の護衛軍をひきいて、一時淮水を渡られ、ほかへお遷りあって、自然の変移をお待ちあるしかございますまい」

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