風の便り
一
大戦は長びいた。
黄河沿岸の春も熟し、その後袁紹の河北軍は、地の利をあらためて、陽武(河南省・原陽附近)の要害へ拠陣を移した。
曹操もひとまず帰洛して、将兵を慰安し、一日慶賀の宴をひらいた。
その折、彼は諸人の中で、
「延津の戦では、予がわざと兵糧隊を先陣につけて敵を釣る計略を用いたが、あれを覚っていたのは荀攸だけだった。しかし荀攸も口の軽いのはいけない」と思い出ばなしなど持ちだして大いににぎわっていたが、そこへ汝南(河南省)から早馬が到来して一つの変を報じた。
汝南には前から劉辟、龔都という二匪賊がいた。もと黄巾の残党である。
かねて曹洪を討伐にやってあったが、匪賊の勢いは猛烈で洪軍は大痛手をうけ、いまなお、退却中という報告であった。
「ぜひ有力な援軍を下し給わぬと、汝南地方は黄匪の猖獗にまかせ、後々大事にいたるかも知れません」と、早打ちの使者はつけ加えた。
ちょうど、宴の最中、人々騒然と議にわいたが、関羽が、
「願わくは、それがしをお遣りください」と、申し出た。
曹操は、歓びながら、
「おお、羽将軍が行けば、たちどころに平定しようが、先頃からご辺の勲功はおびただしいのに、まだ予は、君に恩賞も与えてない。――しかるにまたすぐ戦野に出たいとは、どういうご意志か」
と、すこし疑って訊ねた。
関羽は、答えていう。
「匹夫は玉殿に耐えずとか、生来少し無事でいると、身に病が生じていけません。百姓は鍬と別れると弱くなるそうですが、こなたにも無事安閑は、身の毒ですから」
曹操は、呵々と大笑しながら、膝をたたいて、――壮なるかな、さらば参られよと、五万の軍勢を与え、于禁、楽進のふたりを副将として添えてやった。
あとで、荀彧は、曹操に意見した。
「よほどお気をつけにならんと、関羽は行ったまま、遂に帰ってこないかも知れません。始終容子を見ているに、まだ玄徳を深く慕っておるようです」
曹操も、反省して、
「そうだ、こんど汝南から帰ってきたら、もうあまり用いないことにしよう」と、うなずいた。
汝南に迫った関羽は、古刹の一院に本陣をおいて、あしたの戦に備えていたが、その夜、哨兵の小隊が、敵の間諜らしい怪しげな男を二名捕まえてきた。
関羽が前に引きすえて、二名の覆面をとらせてみると、そのひとりは、なんぞ計らん、共に玄徳の麾下にいた旧友の孫乾なので、
「やあ、どうしたわけだ」と、びっくりして、自身彼の縛めを解き、左右の兵を退けてから、二人きりで旧情を温め合った。
関羽はなによりも先ずたずねた。
「其許は、家兄玄徳のお行方を知っているだろう。いま何処におられるか」
「されば、徐州離散の後、自分もこの汝南へ落ちのびてきて、諸所流浪していたが、ふとした縁から劉辟、龔都の二頭目と親しくなり、匪軍のなかに身を寄せていた」
「や。では敵方か」
「ま、待ちたまえ。――ところがその後、河北の袁紹からだいぶ物資や金が匪軍へまわった。曹操の側面を衝けという交換条件で――。そんなわけで折々河北の消息も聞えてくるが、先頃、ある確かな筋から、ご主君玄徳が、袁紹を頼まれて、河北の陣中におられるということを耳にした。それは確実らしいのだ。安んじ給え。いずれにせよ、ご健在は確実だからな」
二
故主玄徳はいま、河北に無事でいると聞いて、関羽は爛々たる眼に、思慕の情を燃やしながら、しばらく孫乾の顔を見まもっていたが、やがて大きな歓びを、ほっと息づいて、
「そうか。……ああ有難い。だがまさかおれを歓ばすために、根もない噂を聞かすのではあるまいな」
「なんの、汝南へきた袁紹の家臣から聞いたことだから、万まちがいはない」
「天のご加護とやいわん」
関羽は、瞼をとじて、何ものかへ、恩を謝しているふうだった。
孫乾は、さらに声をひそめて、
「汝南の匪軍と、袁紹とは、いま云ったようなわけで、一脈の聯絡があるのだ。……だから明日の戦では、劉辟、龔都の二頭目も、みな偽って逃げるから、そのつもりで手心よろしく攻め給え」
「何で、彼らが、偽って逃げるのか」
「匪軍の将ながら、劉辟も龔都もかねて心のうちで、ふかく其許を慕っておった。で、このたび羽将軍が攻め下ってくると聞くと、むしろ歓びをなしたほどなのだ。しかし一面、袁紹と結んでいる関係もあるから、戦わぬわけにもゆかぬ」
「わかった。彼らがその心ならば、手心をしよう。それがしは平定の任を果たせばそれでよい」
「そして、一度、都へ帰られた上、二夫人を守護してふたたび汝南へ下って参られい」
「おお、一日も急ごう。……すでにご主君の居どころが分ったからには、一刻半日もじっとしていられない心地はするが、そのお居所が、袁紹の軍中だけに、もしそれがしが不意に行ったら、どんな変を生じようもはかり難い。――なにせい先に顔良、文醜などの首をみなこの関羽が手にかけておるからな」
「では、こうしましょう。……この孫乾が、先に河北へ行って、あらかじめ袁紹とその周囲の空気を探っておきます」
「む、む。それなら万全だ。身に変事のかかることは怖れぬが、彼に身を寄せ給うているご主君が心がかり……。頼むぞ、孫乾」
「お案じあるな、きっと、そこを確かめて、あなたが二夫人を守護してくるのを、半途まで出て待っていましょう」
「おお、一刻もはやく、主君のご無事なおすがたを見たいものだ。ひと目、その思いを果たせばそれだけでも、関羽は満足、いつ死んでもよい」
「なんの、これからではありませんか、羽将軍にも似あわしくない」
「いや、気持のことだ。それほどまで待ち遠いというたまでのこと」
陣中すでに更けている。
関羽は、裏門からそっと、孫乾ともう一名の間諜を送りだした。
「怪しげな密談を? ……」と、宵から注意していた副将の于禁、楽進のふたりは物陰からそれを見ていた。しかし関羽を怖れてそこでは何の干渉もなし得なかった。
あくる日、匪軍との戦は、予定どおりの戦となった。
賊将の劉辟、龔都のふたりは、颯爽と陣頭へあらわれたが、またすぐすこぶる大仰に関羽に追われて退却しだした。首を取る気もないが逃げるを追って、関羽も物々しくうしろへ迫った。
すると龔都がふり向いて、
「忠誠の鉄心、われら土匪にすら通ず、いかで天の感応なからん。――君よ、他日来たまえ。われかならず汝南の城をお譲りせん」と、いった。
関羽は苦もなく州郡を収めて、やがて軍をひいて都へ還った。
兵馬の損傷は当然すくない。
しかも、功は大きかった。曹操の歓待はいうまでもない。于禁、楽進はひそかに曹操に訴える機を狙っていたが、曹操の関羽にたいする信頼と敬愛の頂点なのを見てはへたに横から告げ口もだせなかった。
三
祝盃また大杯を辞せず、かさねて、やや陶然となった関羽は、やがて、その巨躯をゆらゆら運んで退出して来た。
大酔はしていたが、帰るとすぐ、彼は、二夫人の内院へ伺候して、
「ただ今、汝南より凱旋いたしてござる。留守中なんのお恙もなくいらせられましたか」
と、久しぶり拝顔して、四方山ばなしなどし始めた。
すると甘夫人は、
「将軍、妾の待ちわびていたのは、そのような世間ばなしではありません。戦いの途次、なんぞわが夫玄徳の便りでも聞かなんだか。お行方を知る手がかりでも耳にしなかったか……」
と、もう涙ぐんで訊ねた。
関羽は、大々した腹中から、大きな酒気を吐いて、憮然と、
「その儀については、まだ手がかりもありませぬ。さりながら、この関羽がついておりますゆえ、余りにお心を苦しめたもうな。何事も、関羽におまかせあって、時節をお待ち遊ばすように」
――と。甘夫人も、糜夫人も、珠簾のうちに伏し転んで、声を放って泣き悲しんだ。
そして恨めしげに、関羽へいうには、
「さだめし、わが夫は、もうどこかでお討死を遂げているのでしょう。それと話しては、妾たちが、嘆き悲しむであろうと将軍の胸だけに包んでいるにちがいない。……そうです、そうに違いない。……ああどうしたらよいであろう」
こうも思い、ああも思い、女性の感傷は、纒綿の涙と戯れているようだった。糜夫人も、共に慟哭しながら、こよいの関羽の酒気をひがんで云った。
「羽将軍も、むかしと違って、いまは曹操の寵遇も厚く、恩にほだされて、妾たちが足手まといになって来たのでございましょう。……それならそれと云ってください。いっそのこと、将軍の剣で……妾たちのはかない生命をひと思いに」
「何を仰せられますか」
酔も醒めて、関羽は胸を正した。そして改まって二夫人へこう諭した。
「それがしの苦衷も少しはお酌みとりくだされい。曹操の恩に甘えるくらいなら何でこんな忍苦をしておりましょう。皇叔のお行方についても、曙光が見えかけておりますが、もしあなた様がたにお告げして、それがふと内走の下女から外にでももれては、これまでの苦心も水泡に帰するやも知れずと、実は深く秘している次第でございまする」
「えっ、何といやるか。……では、皇叔のお行方がすこしは分りかけているのですか」
「されば、河北の袁紹に身を寄せられて、先頃は黄河の後陣までご出馬と、ほのかに聞き及んでおりますものの、それとてもまだ風の便り、もっと確かめてみなければわかりません」
「将軍、それは、誰に聞きましたか」
「孫乾に出会い、かれの口から聞いたことです。やがてしかとしたことがわかれば、孫乾が、途中まで迎えに出ている約束になっております」
「そ、それでは、内院を捨てて、許都から脱れ出るおつもりか……」
「しっ……」
関羽は不意にふり向いて、内院の苑をじっと見ていた。風もないのに、そこらの樹木がさやさやと揺れたからである。
「……まだ、まだ、滅多なことを、お口に出してはいけません。再び、皇叔とご対面ある日まではじっとお身静かに、ただこの関羽をおたのみあって、何事も素知らぬふうにお暮しあれ。壁にも耳、草木にも眼がひそんでおるものと、お思い遊ばして」