雪千丈

 一行が、隆中の村落に近づいたころは、天地の物、ことごとく真白になっていた。
 歩一歩と、供の者の藁沓は重くなり、馬の蹄を埋めた。
 白風は衣をなげうち、馬の息は凍り、人々の睫毛はみな氷柱になった。
「ああ、途方もない寒さだ。――馬鹿げているわい」
 張飛は、顔をしかめながら、雪風の中で聞えよがしに呟いていたが、玄徳のそばへ寄って、またこういった。
「家兄、家兄。いい加減にしようじゃありませんか、軍もせず、こんな思いを忍んで、無益な人間を尋ねて一体どうするんです? しばしそこらの民家へ立ち寄って寒気をしのぎ、新野へ引き返されては如何ですか」
 聞くと、玄徳は、
「ばかなことを申せ」と、叱って、
「おまえは、厭か、寒いか」
 と、常になく烈しい眉を雪風にさらしながら云った。張飛も負けずに、赤い面をふくらせて、
「戦をするなら、死ぬのも厭いはしないが、こんな苦労は意味がない。なんのために、こんな馬鹿げた苦労をしてゆくのか、誰にだって分りやしません」
「予の訪う孔明に対し、予の熱情と慇懃を知らしめんためである」
「それは、家兄だけの独り合点というものでさ。冗談でしょう。こんな大雪の日に、どやどや客に来られたひには、先だって大迷惑する」
「――誰か知らん千丈の雪。おまえは黙ってついて来い。また、歩くのが嫌なら一人で新野へ帰れっ」
 もう村の中らしい。道の両側、ところどころに家が見える。雪に埋もれた土の窓から、土民の女房が眼をまろくして一行をながめていた。また貧しい煙の這う壁の奥から嬰児の声が道へ聞えてくる。
 こういう寒村の窮民を見ると、玄徳は、自分の故郷涿県の田舎と、その頃の貧乏生活を思い出す……。同時に、この地上に満ち満ちている幾億の貧乏人の宿命を思いやらずにいられない。
 彼はそこに、自分の志に大きな意義と信念を見出すのであった。きょうばかりではない。二十年来のことである。

壮士の高名、尚いまだ成らず
ああ久しく、陽春に遇わず
君見ずや
東海の老叟荊榛を辞す
橋の壮士誰かよく伸びん
広施三百六十釣
風雅遂に文王と親し
八百の諸侯、期せずして会す
黄龍舟を負うて孟津を渉る……

 何処だろう?
 何者が歌うのであろう?
 凛々、心腸をしぼるばかり、高唱してやまない者がある。
「はて。あの声は」
 玄徳は思わず駒をとめた。
 道の雪、降る雪、そこらの屋根の雪が、白毫の旋風となって眼をさえぎる。――ふと、かたわらを見ると、傾いた土の家の門に、一詩を書いた聯と、居酒屋のしるしの小旗が立っていた。
 歌う声は、その中から聞えてくるのだった。さびのある声調と、血のかよっている意気が聞きとれる。

牧野の一戦、血、杵を漂わす
朝歌一旦、紂君を誅す
また見ずや
高陽の酒徒、草中に起こる
長揖山中隆準公
高く大覇を談じて人耳を驚かす
二女足を濯うて何れの賢に逢わん……

 玄徳は、そのまま、雪に埋もれかけてゆくのも忘れて、じっと、聞き惚れていた。

 するとまた、別人の声が、卓をたたいて高吟しだした。ひとりは、それに合わせて、箸で鉢をたたく。

漢皇剣をひっさげて寰宇を清め
一たび強秦を定む四百載
桓霊いまだ久しからず火徳衰う
乱臣賊子鼎鼐を調え
群盗四方にあつまる蟻の如し
万里の奸雄みな鷹揚
吾ら大嘯、空しく手を拍つのみ
悶え来って村店に村酒を飲む……

 歌い終ると、
「あははは」
「わははは」
 梁の塵も落すような笑い声である。
「さては、――」と、玄徳は、歌の意味から察して、
「どちらか一方は、かならず孔明にちがいあるまい」
 と、急に馬をおりて、居酒屋のうちへずかずかはいって行った。
 ただの板を打った、細長い卓によって、二人の処士が飲んでいた。ふいに門口からはいってきた、玄徳のすがたを見――唖然として――どっちも眼をまろくする。
 向う側の老人は、木瓜の花みたいに真っ赤な顔はしているが、容貌は奇古清潔で、どこか風格がある。
 幅のある背を向けて、老人と対しているのは、白皙黒鬢の壮士で、親子か友人か、よほど親しい仲らしい。
 玄徳は慇懃に、酒興を醒ました無礼をわびて、
「それに在すは、臥龍先生とはちがいますか」と、老人へ向って云った。
「ちがう……」
 老人は顔を振って苦笑する。
 玄徳はさらに、若いほうの人物にむかって、
「もしや孔明先生は、其許ではありませんか」と、訊いてみた。
「ちがいます」と、若いほうも、明晰に否定する。
 老人はいぶかしげに、次に自分のほうから訊ねた。
「かかる雪中、臥龍をおたずねあるは、そも、何事ですか。また将軍こそ、如何なるお人か?」
「申しおくれた。自分は漢の左将軍、予州の牧、劉玄徳というもの。――孔明先生を訪うわけは、乱世の現状を治め、済民の道を問わんがためです」
「えっ、では新野のご城主ではありませんか」
「そうです。今、戸外を通るに、旺な声をして、慷慨の歌を吟ずる声がしました。察するに必ず先生ならんと――われを忘れてこれへはいって来たわけですが」
「それはどうも」
 二人は、顔を見合わせて、
「折角でしたが、われわれはいずれも、孔明ではありません。ただ臥龍の友だちどもです。それがしは、潁州の広元と申し、てまえの前におる壮士は、汝南の孟公威という者でござる」
 玄徳は、失望しなかった。なぜなら広元といい、孟公威といい、いずれも襄陽の学界で著名な人士である。ここで会ったのは何よりの幸せ、相伴って臥龍先生の廬を訪おうではないか――と彼がすすめると、広元は、かぶりをふって、
「いやいや、われらは山林に高臥し、懶惰になれた隠者ですから、いかで治国安民の経策になどかかわれましょう。資格のない人間どもです。まずまず、臥龍をお訪ねあるが何よりでしょう」
 と、巧みに避けた。
 やむなく玄徳は二人にわかれて、居酒屋の戸外へ出た。雪は相変らずひょうひょうと降りしきっている。供の関羽張飛たちも、きょうばかりは黙々と雪を冒してゆくばかりだった。
 やがて岡の家――孔明の廬たる柴門へようやくたどりついた。柴を叩いて、先生ありやと、先日の童子に在否を訊ねると、
「はい、何だか、きょうは書堂の内にいるようです。あの堂です。行ってごらんなさい」
 と、奥を指した。

 供や馬を柴門の陰に残して、関羽張飛のふたりだけを連れ、玄徳は雪ふみ分けて、園の奥へ通って行った。
 書斎らしい一堂がある。
 縁も廂も、雪に埋もれ、堂中はひそとしている。
 破れ芭蕉の大きな葉が、雪の窓をおおっていた。玄徳はひとり階下へ寄って、そっと室内をうかがってみた。
 ――と、そこに。
 寂然と膝を抱いて、炉によっている若者がある。若者は眉目秀明であった。堂外にたたずむ人のありとも知らぬ容子で、独り口のうちで微吟していた。

鳳凰は、千里を翔けても
なき樹には棲まずという
われ困じて一方を守り
英主にあらねば依らじとし
自ら隴畝を耕して
いささか琴書に心をなぐさめ
詩を詠じて鬱を放ち
以て天の時を待つ
一朝明主に逢うあらば
何の遅きことやあらん……

 玄徳はそっと階をのぼって、廊の端にたたずんでいた。だが、興をさまたげるも心ない業と、なおしばらく耳をすましていたが、微吟の声はそれきり聞えない。
 おそるおそる堂中をうかがってみた。炉によったまま、その人は膝を抱いて居眠っているのである。さながら邪心のない嬰児のように。
「先生。お眠りですか」
 試みに、玄徳がこう声をかけてみると、若者は、ぱっと眼をみひらいて、
「あっ。……どなたですか」と、おどろきながらも、静かにたずねた。
 玄徳は、それへうずくまって、礼を施しながら、
「久しく先生の尊名を慕っていた者です。実はさきに徐庶のすすめにより、幾たびか仙荘へきましたが、いつも拝会の縁にめぐまれず、空しく立ち帰っておりましたが、今日、風雪を冒して参ったかいあって、親しく尊顔を拝し、こんな歓びはありません」
 ――すると、彼の若者は、急にあわてて、身を正し、答礼していった。
「将軍は新野の劉皇叔でしょう。きょうもまた、私の兄をばお訪ね下すったのですか」
 玄徳は、色を失って、
「では、あなたもまた、臥龍先生ではないのですか」
「はい。私は臥龍の弟です。――われらには同腹の兄弟が三人あります。長兄は諸葛瑾と申し、呉に仕えて孫権の幕賓たり。二番目の兄が、諸葛亮、すなわち孔明で――私は臥龍の次にあたる三番目の弟、諸葛均でございます」
「ああ、そうでしたか」
「いつもいつも遠路をお訪ねたまわりながら失礼ばかり……」
「して、臥龍先生には」
「あいにく、今日も不在です」
「何処へお出かけでしょう?」
「今朝ほど、博陵の崔州平が参って、どこかへ誘い、飄然と出て行きましたが」
「お行き先は分りませんか」
「或る日は、江湖に小舟をうかべて遊び、或る夜は、山寺へ登って僧門をたたき、また、僻村の友など訪ねて琴棋をもてあそび、詩画に興じ、まったく往来のはかり難い兄のことですから……今日も何処へ行きましたことやら?」と、均は気の毒そうに、外の雪を見ながら答えた。
 玄徳は、長嘆して、
「どうしてこう先生と自分とは、お目にかかる縁が薄いのだろう」と、思わず呟いた。
 均は黙って、次の室へ立って行った。小さな土炉へ火を入れて、客のために茶を煎るのであった。
「家兄、家兄、孔明が留守とあれば、仕方がないでしょう。さあ、帰ろうじゃありませんか」
 堂外はひどい吹雪張飛は階下から、こう喚いてせきたてた。

 茶が煮えると、諸葛均は、うやうやしく玄徳に、一碗の薫湯を献じて、
「そこは雪が吹きこみます。少しこちらの席でご休息を」と、すすめた。
 しきりに帰りをうながす張飛の声をうしろに、玄徳は、落着きこんで、茶をすすりながら、
孔明先生には、よく六韜を諳んじ、三略に通ずと、かねがね伺っていますが、日々、兵書をお読みですか」
 などと雑談を向け始めた。
 均は、つつましく、
「存じません」と、答えるのみ。
「兵馬の修練はなされておいでですか」
「知りません」
「ご舎弟のほか、ご門人は」
「ありません」
 吹雪の中で、張飛は、さもさも焦れ切っているように、
「家兄っ。無用の長問答は、もうよい程にして下さい。雪も風もつのるばかり、日が暮れますぞ、ぐずぐずしていると」
 玄徳は、振り向いて、
「野人。静かにせい」と、叱った。
 そして、均にむかい、
「かく、お妨げ申していても、この吹雪では、今日のお帰りは期し難いでしょう。他日、あらためてまた、推参することにします」
「いえ、いえ。たびたび駕を枉げ給うては、恐縮の至りです。そのうち気が向けば、兄のほうからお伺いするでしょう」
「なんぞ先生の回礼を待たん。また日をおいて、自身おたずねするであろう。ねがわくは、紙筆を貸したまえ。せめて先生に一筆のこして参りたく思う」
「おやすいこと」
 諸葛均は、立って、几上の文房四具を取り揃え、玄徳の前にそなえた。
 筆の穂も凍っている。玄徳は雲箋を手にして、次の一文を認めた。

漢の左将軍宜城の亭侯司隷校尉領予州の牧劉備
歳両番を経て相謁して遇わず、空しく回っては惆悵怏々として云うべからざるものあり。切に念う、備や漢室の苗裔に生れ忝けなくも皇叔に居、みだりに典郡の階に当り、職将軍の列に係る。
伏して観る、朝廷陵替、綱紀崩擢、群雄国に乱るの時、悪党君をあざむくの日にあたりて、備、心肺ともに酸く、肝胆ほとんど裂く。

 玄徳はここで筆を按じ、瞳を、外の霏々たる雪に向けていた。
 張飛は、聞えよがしに、
「ううっ、たまらぬ。家兄は詩でも作っているのか。さりとは、風流な」
 それを耳にもかけない玄徳であった。さらに、筆を呵して――

匡済の忠はありといえども、経綸の妙策なきを如何にせん。仰いで啓す。
先生の仁慈惻隠、忠義慨然、呂望の才を展べ子房の大器を施すを。備、これを敬うこと神明の如く、これを望むや山斗の如し。一見を求めんとして得べからず、再び十日斎戒薫沐して、特に尊顔を拝すべし。乞う、寛覧を垂れよ。鑒察あらば幸甚。
  建安十二年十二月吉日再拝

「帋筆をお下げあれ」
「おすみになりましたか」
「先生がお帰りになられたらはばかりながらこの書簡を座下に呈して下さい」
 云いのこして、玄徳は堂をおり、関羽張飛をつれて、黙々、帰って行った。
 門外に出て、馬を寄せ、すでにここを去ろうとした時である、送ってきた童子は客も捨てて彼方へ高く呼びかけていた。
「老先生だ。――老先生! 老先生!」

 童子は待ちきれず、彼方へ馳けだして行った。
 玄徳の一行もやや進んでいた。
 孔明の家の長い籬のきれたところに、狭い渓へかかっている小橋がある。
 見ると今、そこを渡ってくる驢馬の上に、暖かそうな頭巾をかぶった老翁のすがたがある。身には狐の皮衣をまとい、酒をいれた葫蘆を、お供の童子に持たせてくる。
 籬の角から渓へのぞんで、寒梅の一枝が開きかけていた。
 老翁はそれを仰ぐと、興をもよおしたらしく、声を発して、梁父の詩を吟じた。

一夜北風寒し
万里彤雲厚く
長空雪は乱れ飄る
改め尽す山川の旧きを

白髪の老衰翁
盛んに皇天の祐を感ず
驢に乗って小橋を過ぎ
独り梅花の痩せを嘆ず

 玄徳は、詩声を聞いて、その高雅その志操を察し、かならずこの人こそ、孔明であろうと、橋畔に馬を捨てて、
「待つこと久し。先生、ただ今、お帰りでしたか」と、呼びかけた。
 老翁は、びっくりした容子で、すぐさま馬をおり、礼をかえして、
「てまえは、臥龍の岳父の黄承彦というものじゃが……して、あなた様は?」と、怪訝った。
 またしても、人違いだったのである。孔明の妻、黄氏の父だった。玄徳は、卒爾を謝して、
「そうでしたか。私は新野の玄徳ですが、臥龍の廬を訪うこと二回、今日もむなしく会えずに帰るところです。いったい、あなたの賢婿さんは何処へ行ったのでしょう?」
「さあ。てまえもこれからその婿をたずねに行く途中ですが、……それでは今日も留守ですかい」
 やれやれといわぬばかりに、老翁は眉を降りしきる雪に上げて考えていたが、
「ここまで来たこと、てまえは娘にでも会いましょう。ひどい雪じゃ、途中の坂道をお気をつけなされ」と、ふたたび驢馬に乗って立ち別れた。
 意地悪く、雪も風もやまない。道の難渋はいうまでもなかった。来がけに立ち寄った例の居酒店のある村まで来たときは、すでに日も暮れかけていた。
 いくら長尻でも大酒でも、昼の広元や孟公威はもうそこにはいないだろう。その代りに、ほかのお客がこみあっているらしい。飲んだり騒いだり盛んにがやがややっている。そして鉢を叩きながら、その客達がうたうのを聞けば――

莫学孔明択婦
止得阿承醜女

 これをもっと俗歌的にくだいて、おまけにこの辺の田舎訛りを加え、

嫁えらみも、たいがいに
孔明さんがよい手本
択りに択ったその末が
醜女のあしょうを引きあてた。

 と、笑い囃しているのであった。
 孔明の新妻が、不縹緻なことは、この俚謡もいっているとおり、村では噂のたねらしい。
 さっき小橋で出会ったのが嫁さんの父親である。その黄承彦さえ、娘をやる時、
(われに一女あり、色は黒く、髪は赭く、容色はなけれど、才は君に配するに堪えたり)
 と、断って嫁がせたというほどであるから、親でも自慢できなかった不美人だったにちがいない。
 居酒店の前を通りながら、その俚謡を耳にした張飛は、玄徳へいった。
「どうです、あの謡は。およそ彼の家庭も、あれで分るじゃありませんか。新妻にあきたらないので、孔明先生、時々よそへ、美しいのを見に行くのじゃありませんかな?」と、戯れた。
 玄徳は返辞もしなかった。満天の雪雲のように、彼の面は怏々と閉じていた。

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