私情を斬る

 漢中王の劉玄徳は、この春、建安二十五年をもって、ちょうど六十歳になった。魏の曹操より六ツ年下であった。
 その曹操の死は、早くも成都に聞え、多年の好敵手を失った玄徳の胸中には、一抹落莫の感なきを得なかったろう。敵ながら惜しむべき巨人と、歴戦の過去を顧みると同時に、
「我もまた人生六十齢」
 と、やがては自分の上にも必然来るべきものを期せずにいられなかったに違いない。
 年をとると気が短くなる――という人間の通有性は、大なり小なりそういう心理が無自覚に手伝ってくるせいもあろう。劉玄徳も多分に洩れず、自身の眼の黒いうちに、呉を征し、魏を亡ぼして、理想の実現を見ようとする気が、老来いよいよ急になっていた。
 折ふしまた魏では、曹丕が王位に即いて、朝廷をないがしろにする風は益〻はなはだしいと聞き、玄徳はある日、成都一宮に文武の臣を集めて、大いに魏の不道を鳴らし、また先に亡った関羽を惜しんで、
「まず呉に向って、関羽の仇をそそぎ、転じて、驕れる魏を、一撃に討たんと思うが、汝らの意見は如何に」と、衆議に計った。
 人々の眼はかがやいた。いまや蜀の国力も充分に恢復し、兵馬は有事の日に備えて鍛錬おこたりない。それは誰も異存なき意志を示している眸であった。
 ときに廖化が進んで云った。
関羽を敵に討たせたのは、味方の劉封孟達の二人でした。呉に仇を報う前に、彼らのご処分を正さなければ、復讐戦の意義が薄れましょう」
 玄徳は大きくうなずいて、その儀は我も一日も忘れずといった。そして直ちに、劉封孟達へ召状を発して処断せんと言を誓うと、孔明が側にあって、
「いや、火急に召状を発せられては、かならず異変を生じましょう。まず両名を一郡の太守に転封し、後、緩々お計り遊ばすがよいかと思います」と、諫めた。叛乱の動機は、つねにそうした弾みから起る。実にもと、人々は孔明の明察に感心した。
 ところがその日の群臣のなかに彭義という者がいた。彼と孟達とは日頃から非常に親しかった。会議が終ると、何かそそくさと急いで下城したようだったが、我が家へ帰るとすぐ書簡をしたためて、
(君の命は危ない。転封のお沙汰が届いても、油断するな。関羽の問題が再燃したのだ)
 と、密報を出した。
 しかし、この密書を持った使いの男は、南城門の外で、馬超の部下の夜警兵に捕まってしまった。
 馬超は、手紙の内容を見て、一驚したが、念のため彭義の家を訪れて、彼の容子を見届けることにした。なにも感づかない彭義は、
「よく遊びにきてくれた」
 と、酒を出して引き留め、深更まで快飲したが、そのうちに馬超の口につりこまれて、
「もし上庸の孟達が旗挙げしたら、足下も成都から内応し給え。不肖、彭義にも、充分勝算はある。足下の如き大丈夫が、いつまでも碌々蜀門の番犬に甘んじておるわけでもあるまいが」
 などと慨然、胸底の気を吐いてしまった。
 馬超は次の日、漢中王にまみえて、彭義の密書とともに前夜のことをことごとく告げた。玄徳は、直ちに彭義の逮捕を命じ、獄へ下して、なお余類を拷問にかけて調べた。
 彭義は大いに後悔して、獄中から悔悟の書を孔明へ送り、どうか助けてくれと、彼の憐愍に訴えた。玄徳もその陳情を見て、
「軍師どうするか」と半ば、心を動かされた風であるが、孔明は冷然と、顔を振って、
「かかる愚痴は狂人の言と見ておかねばなりません。叛骨ある者は、一時恩を感じても、後またかならず叛骨をあらわしますから」
 と、かえって急に断を下し、その夜、彭義に死を与えた。
 彭義が誅されたことによって、遠隔の地にある孟達も、さてはと、身に危急を感じだした。彼にはもともと、離反の心があったものとみえ、その部下、申耽と申儀の兄弟は、
「魏へ走れば、曹丕が重く用いてくれるに違いありません」と、主に投降をすすめ、同じ城にいる劉封にも告げず、わずか五、六十騎を連れて夜中、脱走してしまった。

 劉封は夜が明けてから孟達の脱走を聞いたが、なお信じきれない顔して、
「彼の部下はそっくり残っているし、昨日も変った容子はなかった。狩猟にでも出かけたのだろう」
 と、左右の臣が、不審な実証をあげても、まさか? とのみで悠々としていた。
 すると、国境の柵門から、早打ちが飛んできた。約五十騎ほどの将士が関所を破って魏へ入ったという報らせである。さてはと慌てて兵馬を糾合し、劉封自身、追手となって急追したが、時すでに遅しで、空しく帰ってきた。
「なんだって、孟達は、この地位と軍隊をすてて、魏へ入国してしまったのだろう?」
 まだ何も覚らない劉封は、ただ彼の心事をいぶかるにとどまっていたが、やがて成都の急使は、漢中王の命をここに伝えて、
孟達の反心は歴然。なぜ拱手して見ているか。直ちに上庸、綿竹の兵をあげて、彼の不義を鳴らし、彼の首を討ち取るべし」と、沙汰した。
 これは孔明の深謀で、玄徳としては成都の蜀軍を派して、始末するつもりであったが、孔明はそれを上策でないとして、孟達の追討を劉封に命じれば、その軍に勝っても敗れても劉封成都へ帰ってくるしかないから、その時に処断することが、対外策としても最良の方法であると説いたのであった。
 一方、魏へ投降した孟達は、曹丕の前に引かれて、一応、訊問をうけた。曹丕は、内心この有力な大将の投降は歓迎していたが、なお半信半疑を抱いて、
「玄徳が特に汝を冷遇していたとは思われんが、一体、なんの理由で魏へ来たか」と質問した。
 孟達は、それに答えて、
関羽の軍が全滅にあったとき、麦城へ救いに行かなかった点を、旧主玄徳はあくまで責めてやみません。関羽を見殺しになしたるは孟達なりと、害意を抱いておらるる由を、成都の便りに知ったからです」
 ちょうど襄陽方面から急報が入った。劉封が五万余の兵を擁して、国境を侵し、諸所焼き払いながら進攻してくるという注進であった。曹丕は、孟達を試すには適当な一戦と思ったので、
「襄陽には、わが夏侯尚や徐晃などが籠っているから、決して不安はないが、試みに、足下はまず同地の味方に加勢して、劉封の首をこれへ持って来給え。ご辺を如何に待遇するかは、その上でまた考えるから」と取りあえず、散騎常侍、建武将軍の役に任じて、襄陽へ赴かせた。
 孟達が襄陽へ着いたとき、劉封の軍勢はすでに郊外八十里まで来ていた。彼は一通の書簡をしたためて、軍使を仕立てて、「返辞を求めてこい」と、劉封の陣へそれを持たせてやった。
 劉封が受けてそれを開いてみると、次のような意味が友情的な辞句を借りて書いてあった。

思ウ所アッテ自分ハ魏ノ臣ニナッタ。君モ魏ヘ降ッテ将来ノ富貴ヲ約束シテハドウカ。君ト漢中王トハ、養父子ノ間ニナッテイルガ、元々、君ハ羅侯子ノ子デアル。劉氏ノ統ハ既ニ漢中王ノ実子ガ継グコトニナッテイル。君モ足モトノ明ルイウチニ、魏ヘ移ッテ、旧ノ羅侯子ヲ興スベキデハナイカ。

 劉封は読み終るとすぐ引き裂いて捨てた。
「今日までは未だ彼にいささかの友誼をのこしていたが、こんな不忠不孝を勧める悪人と分ればかえって思い切りがよい」
 軍使の首を刎ねて、直ちに、兵を襄陽城へすすめた。
 だが、劉封の戦いは、その日も次の日も、敗北を招いた。敵の陣頭にはいつも孟達が現れて、強かに劉封を痛めつけた。
 加うるに襄陽城には魏の勇将として聞えの高い徐晃がいるし、夏侯尚があるし、とうてい太刀打ちにならなかった。
 惨敗をかさねた劉封軍は、敵の三将に包囲されて、殲滅的な打撃にあい、遂に、上庸へ潰走してきたが、そこもいつの間にか魏軍に占領されているというようなみじめな有様であった。
 彼はとうとう百余騎の残兵をつれて、成都へ逃げ帰るのほか途がなくなってしまった。孔明の先見はあたっていた。

 劉封が敗れて帰ってきたと侍臣から聞くと、玄徳は、
堂上へ上げるな。階下に止めておけ」
 と、侍者へいいつけ、孔明と顔見合わせて、そっと嘆息した。
 彼は重い足を運んで、表の閣へ臨み、階下にひれ伏している養子の劉封をじろと見て云った。
「豎子。なんの面目があって、ここへ帰ってきたか」
 劉封は、ようやく面をあげて、
「叔父(関羽)の危難を救わなかったのは、まったく私の意志ではなかったのです。その折、孟達が頑強に拒んだため、つい彼のことばにひかれ、心にもなく自分も援軍に行かなかったので」
 と、そのことをいわれぬ先に弁解しだした。
 玄徳は眉を怒らして、
「うるさい。そのような言い訳を今さら聞く耳はもたぬ。そちも定めて、人の喰うものを喰い、人の着る衣を着ている人間であろうに、孟達の詭弁に同意し、みすみす恩ある叔父を見殺しになすとは犬か畜生か、蔑げ果てたやつではある。起てっ、去れっ。見るもけがらわしい」
 いよいよ、烈しく叱ったが、多年育てた子と思えば、私情はまたべつと見える。眼に涙をたたえ、面を横にしたきり、再び階下の子を正視しなかった。
「……まったく私の不敏です。いえ、大落度でした。なにとぞこの度だけは、おゆるし下さいまし。この通りです」
 劉封は涙を流して、何十遍も、額を地にすりつけていた。しかし、玄徳は横を向いたままである。自己を木の如く、私情を仇の如く、じっと抑えていた。
 そのうちに劉封は、わっと嬰児のようにむせび哭いた。その声には、さすがの玄徳も胸を掻きむしられた。ついに彼の怒れる眉は、慈父の面に変ろうとしかけた。
「…………」
 すると、それまで、口をつぐんで玄徳の容子を見ていた孔明は、眼を以て、彼の崩れかかる心をじっと支えた。意志の不足へ意志を補ったのである。玄徳は急に起って、
「武士ども。この豎子を押し出して、早く首を斬れ」と、左右の臣へ云い捨てるや否、ほとんど逃げ込むように面を沈めて奥の一閣へかくれてしまった。
 閉じ籠ったまま、彼は独り悵然と壁に対していた。すると一名の老侍郎が畏る畏るそれへ来ていうには、
劉封の君について、襄陽の戦場から落ちてきた部下たちに、手前がいろいろ訊いてみますと、すでに劉封様には、上庸におられた時からいたく前非を悔い、孟達が魏へ奔った後はなおさら慚愧にたえぬご容子であったそうです。そして襄陽の陣でも、孟達からきた勧降の書を引き破り、その軍使も即座に斬って、戦をすすめられた由ですから、以て、その後のご心中はよく分りまする。なんとか、ご憐愍を垂れ給わんことを、我々臣下よりも切におねがい申し奉りまする」
 さなきだに玄徳としては、助けたくてならなかったところである。彼は、誰かに、そういって貰いたい折に、こういう言葉を聞いたので、
「おお、彼にも、一片の良心はあったか。忠孝の何たるかは、少しでもわきまえていたとみえる。不愍なやつ、殺すまでには及ぶまい」
 転ぶが如く、廊下へ出た。そして急に、助命を伝えよと、老侍郎を走らせた。
 ところが、出合い頭に、数名の武士はすでに劉封の首を斬って、それへ持ってきた。玄徳は一目見るや、
「な、なに。もはや斬に処してしまったとか。われとしたことが、軽々しくも、怒りにまかせて、遂に一人の股肱を死にいたらしめてしまった。ああ、悲しいかな」
 と、痴者のごとく呟いて、腰もつかないばかりに嘆いた。
 そこへ孔明が来て、嘆きやまぬ彼を一室へ抱き入れた。そしてことば静かに、
「お心もちはよく分ります。孔明とて木ではありませんから。……けれど国家久遠の計を思うならば、ひとりの豎子、なんぞ惜しむに足らんやです。これしきの悲しみに会って、たちまち凡夫にかえるようなことで、どうして大業の基が建てられましょう。女童の情です。自らのお涙を自らお嗤いなさい。あなたは漢中王でいらせられますぞ」
「…………」
 玄徳はうなずいた。しかし老齢六十の彼には、このことも、後の病の一因にはなった。

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