総兵之印

 蜀魏両国の消耗をよろこんで、その大戦のいよいよ長くいよいよ酷烈になるのを希っていたのは、いうまでもなく呉であった。
 この時に当って、呉王孫権は、宿年の野望をついに表面にした。すなわち彼もまた、魏や蜀にならって、皇帝を僭称したのである。
 四月。武昌の南郊に盛大な壇をきずいて、大礼の式典を行い、天下に大赦を令し、即日、黄武八年の年号を、黄龍元年とあらため、先王孫堅に対しては、武烈皇帝と諡して、ここに、呉皇帝の即位は終った。
 嫡子の孫登ももちろん同時に皇太子にのぼった。そしてその輔育の任には、諸葛瑾の子諸葛恪を太子左輔とし、張昭の子張休が太子右弼を命ぜられた。
 諸葛恪は、血からいえば、孔明の甥にあたるものである。資質聡明、声は甚だ清高であったといわれる。幼時から夙に、神異の才をたたえられ、その六歳の時に、こんなこともあった。
 或る折、呉王孫権が戯れに、一匹の驢馬を宮苑にひき出させ、驢の面に、白粉を塗らせて、それへ、
 諸葛子瑜
 という四文字を書いた。
 けだし、それは、諸葛瑾の顔が、人いちばい長面なので、それを揶揄して笑ったのである。だが、君公の戯れなので、当人も頭をかいて共に苦笑していた。
 すると父のそばにいたまだ六歳の諸葛恪が、いきなり筆を持って庭へとび降り、驢の前に背伸びして、その面の四文字の下へ、また二字を書き加えた。
 人々が見ると、すなわち、
 諸葛子瑜之驢
 と、読まれた。見事、からかわれている父の辱をそそいだのである。現今中国人のあいだでよくいわれる「面子」なることばの語源がこの故事からきているものか否かは知らない。
 この輔弼に加えて、さらに、丞相顧雍、上将軍陸遜をつけて共に太子を守らせ、武昌城において、孫権はまた、建業に還った。
 かくて魏蜀戦えば戦うほど、呉の強大と国力は日を趁うて優位になるばかりなので、宿老張昭はかたく、兵をいましめ、産業を興し、学校を創て、農を励まし、馬を養って、ひたすら、他日にそなえながら、一面、特使を蜀へ派して、なおなお善戦を慫慂していた。
 また、その特使の使命には、
「このたび、わが呉においても、前王孫権が登極して、皇帝の位に即かれました」
 という発表を伝えて、国際的にこれを承認させる副意義もあったこと、もちろんである。
 その特使は、成都へも、漢中孔明の所へも同様に臨んだ。孔明は心のうちに安からぬものを抱いたにちがいない。なぜといえば、彼の理想は、漢朝の統一にあるからである。天に二つの日なしという信念が、彼の天下観だからである。しかし今はそれを唱えていられない時であった。ひとたび呉が離脱せんか、魏と結ぶことは必然である。かくては永遠に蜀の興隆はない。蜀亡ぶときは、彼の理想もついに行い得ないことになる。
「それは実に慶祝にたえない。いよいよ呉蜀両帝国の共栄を確約するものです」
 孔明も直ちに、漢中の礼物を山と積ませて、呉へ賀使を送り、慶びの表を呈した。
 そして、ついでに、
「いま貴国の強兵を以て魏を攻めらるれば、魏は必ず崩壊を兆すであろう。わが蜀軍が不断に彼を打ち叩いて、疲弊に導きつつあるは申すまでもありません」
 と呉へ申し入れ、また朝野に向って、時は今なることを、大いに鼓欣宣伝させた。
 陸遜は、にわかに建業へ召還された。彼の意見を徴すべく呉帝は待ちわびていた。
「どうしたものだろう、蜀の要請は」
「修好の約ある以上、容れなければなりますまい。けれど、多くを蜀に労させて、呉はもっぱら虚をうかがい、いよいよという時、洛陽へ入城するものは、孔明より一足先に、わが呉軍であれば最上でありましょう」
「そうありたいのだ」
 孫権はこころよげに笑った。

 孔明は三度目の祁山出兵を決行した。
 その動機は、陳倉の守将郝昭が、このところ病に罹って重態だという確報を得たからであった。
 郝昭は、洛陽へ急を報じ、自分に代る大将の援軍を仰いだ。
 長安にある郭淮は、
「それでは遅い。奏上はあとでするから、ご辺はすぐ向え」
 と、張郃に三千騎を附して、すぐ陳倉城へ援けに向わせた。
 ――が、この時はもう遅かったのである。郝昭は死し、陳倉は陥ちていた。
 どうしてこう迅速だったかといえば、しきりに孔明の来襲を伝えたものは、実は姜維、魏延などの一軍で、その本軍は疾くひそかに漢中を発し、間道をとって、世上の耳目も気づかぬうちに、陳倉城の搦手に迫り、夜中、乱波を放って、城内に火をかけ、混乱に乗じて、雪崩れ入ったものだった。
 だから味方の姜維や魏延が城中へ来たときですらすでに落城のあとだった。いかに魏の張郃が急いで救援に来たところで、とうてい、間にあうわけはなかったのである。
「丞相の神算は、つねに畏服しているところですが、かかる電撃的な行動は、われらも初めて見るところでした」
 姜維、魏延たちは城中に入って、孔明の車を拝すと、心からそういって、それに額ずかずにいられなかった。
 孔明は、落去の跡を視察して、火中に死んだ郝昭の屍を捜させ、
「この人は敵ながら、その忠魂は見上げたものだ。死すとも朽ちさすべき人ではない」
 と、兵を用いて手篤く弔えと命じた。
 孔明はまた、二人へむかい、
「ここは陥ちたが、両所ともにまだ甲を解くな。直ちに、この先の散関へ馳けよ。もし時移さば、魏の兵馬充満して、第二の陳倉となるであろう」と、いった。
 姜維、魏延は、畏まって候、とばかり息つく間もなく散関へいそいだ。
 関は手薄だった。
 ために難なく乗っ取ることを得たが、蜀旗を掲げてわずか半日ともたたないうちに、士気すこぶる旺な魏軍が、えいえいと武者声あわせて襲せ返してきた。
「すわや、丞相の先見あやまたず、魏の大軍がはや来たとみえる」
 望楼にのぼって、これを望み見るに、軍中あざやかに、魏にその人ありとかねて聞く「左将軍張郃」の旗が戦気を孕んでひらめいていた。
 しかし、これまで来てみると、すでに散関すら蜀軍に奪られていたので、いたく失望したものであろう、やがて張郃の軍は、にわかに後へかえってゆく様子だった。
「追い崩せ」
 蜀勢は、関を出て、これを追った。ために張郃の勢は、若干の損害をうけたのみならず、むなしく長安へ潰走した。
「この方面の態勢は、まず定まりました」
 姜維、魏延から孔明へすぐ戦況をつたえた。
 孔明は、この報らせをつかむと、
「よし、機は熟す」となして、いよいよ総兵力をあげて、陳倉から斜谷へすすみ、建威を攻め取って、祁山へ出馬した。
 ここは二度の旧戦場だ。しかもその両度とも蜀軍は戦い利あらず、退却のやむなきを見ているのである。孔明にとっては実に痛恨の深い地であるにちがいない。彼は、帷幕の将星をあつめて告げた。
「魏は二度の勝利に味をしめて、このたびも旧時の例にならい、我かならず雍・郿の二郡をうかがうであろうとなして、そこを防ぎ固めるにちがいない。……ゆえに我は、鉾を転じて陰平、武都の二郡を急襲せん」
 孔明の作戦は、その陰、武二郡を取って、敵の勢力をその方面へ分散させようとするにあったらしい。しかし敵の兵力を分けさせるためには、自己もまた兵力を分けねばならなかった。それにさし向けた蜀軍の兵力は、王平の一万騎と、姜維の一万騎、あわせて二万の数だった。

 長安に引っかえした張郃の報告を聞き、また孔明祁山出陣を聞いて、郭淮は驚きに打たれた。
「さもあらば、蜀勢はまた雍・郿の二郡へ攻めかかるだろう。張郃、足下はこの長安を守れ、われは郿城を固め、雍城へは孫礼をやって防がせよう」
 即座に彼は、兵を分けて、その方面へ急行した。
 張郃は、早馬に次ぐ早馬をもって、祁山一帯の戦況を洛陽へ告げ、
「大兵と軍馬を、ぞくぞく下し給え、さもなくば、事態予測をゆるさず」と、要請した。
 魏朝廷の狼狽はただならぬものがあった。何となれば、この時すでに、呉の孫権の帝位登極のことが伝わっていたし、続いて、蜀呉の特使交換やら、さらには蜀の要請に従って、武昌陸遜が、大兵力をととのえ、今にも魏へ攻め入ろうとする空気が濃厚にみなぎっているなどという――魏にとって不気味きわまる情報がやたらに入っているからであった。
 蜀も強敵。呉もいうまでもなく大敵。こうなるといずれに重点をおいてよいのか。魏廷の軍政方針は紛々議論のみに終って、その実策を見失っているのであった。
司馬懿に問うしかない」
 重将宿将多しといえども魏帝もついにはひとりの仲達に恃みを帰するしかなかった。
「いそぎ参朝せよ」と、召せばいつでも、素直に出てくる司馬懿であったが、闕下に伏しても、この頃の風雲にはまるで聾のような顔をしていた。
 けれど、帝が下問すると、
「そんなことは、深くお迷いになるまでもないことかと思います」
 と、その定見を、するすると糸を吐くように述べた。
孔明が呉をけしかけたのは当り前な考えです。呉がこれに応じるのもまず修交上当然といえましょう。けれど呉には陸遜という偉物が軍をにぎっています。また、呉が率先挺身しなければ、条約に違うという理由はありませんから、攻めんといい、攻めるぞとみせ、実は軍備ばかりしていて、容易にうごかず、蜀の戦いと、魏の防ぎを、睨み合わせて、ひたすら機を測っているものにちがいありません。――故に、呉の態勢は虚です。蜀の襲攻は実です。まずもって、実に全力をそそぎ、後、虚を始末すればよろしいでしょう」
「なるほど、実にも、そうであった」
 いわれてみると、こんな分りきっていることを、なんで迷っていたのかと魏帝は膝を打って嘆じた。
「卿はまことに大将軍の才だ。卿をおいては孔明を破るものはない」
 嘆賞のあまり魏帝はその場で彼を大都督に封じ、あわせて、総兵之印をも取り上げて、汝にさずけんと詔りした。
 仲達は甚だ迷惑そうな顔をした。なぜならばその総兵之印は、全軍総司令たる曹真が持っているものである。――が、勅命いなみ難しとおうけはしたものの、
「勅を以て取り上げらるるはお気の毒の限りですし、それでは当人の面子もありませんから私が参ってみずから頂戴しましょう」
 と、長安へ立った。そして府中に病臥中の曹真に会い、病を見舞って四方山のはなしの後、
「時に、呉の陸遜、蜀の孔明が、緊密に機を結びあって、同時に、わが国の境へ攻め入ってきたのをご存じですか」
「えっ。そんな事態ですか」
 ――曹真は愕然として、
「何しろ、この病体なので、誰もほんとのことを知らしてくれない」と、痛涙にむせんだ。
「からだにお毒ですよ」
 と仲達はなぐさめて――
「それがしがお扶けしますから帷幕のことはあまりご痛心なさらぬがよい」といった。
「いや、いや、この病身では、ついに国家の大危局を救う力など到底わしにはない。どうかご辺がこれを譲りうけて、この大艱難に当ってくれい」
 と、総兵之印をとりだして、たって、司馬懿に押しつけた。司馬懿は、再三辞退したが、
「朝廷へは、わしから後に奏聞しておく。決して、卿に咎はかけない」
 といって、どうしても肯かないのである。仲達も断りあぐねた態をなして、それでは一応お預かりしておくと答えて受け取った。

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