鈴音
一
孫高、傅嬰の二人は、その夜すぐ兵五十人をつれて、戴員の邸を襲い、
「仇の片割れ」と、その首を取って主君の夫人徐氏へ献じた。
徐氏はすぐ喪服をかぶって、亡夫の霊を祭り、嬀覧、戴員二つの首を供えて、
「お怨みをはらしました。わたくしは生涯他家へは嫁ぎません」と、誓った。
この騒動はすぐ呉主孫権の耳へ聞えた。孫権は驚いて、すぐ兵を率いて、丹陽に馳せつけ、
「わが弟を討った者は、われに弓を引いたも同然である」
と、一類の者、ことごとく誅罰した後、あらためて、孫高、傅嬰のふたりを登用し、牙門督兵に任じた。
また、弟の妻たる徐氏には、
「あなたの好きなように、生涯を楽しんでください」と、禄地を添えて、郷里の家へ帰した。
江東の人々は、徐氏の貞烈をたたえて、
「呉の名花だ」と、語りつたえ、史冊にまで名を書きとどめた。
それから三、四年間の呉は、至極平和だったが建安十二年の冬十月、孫権の母たる呉夫人が大病にかかって、
「こんどは、どうも?」と、憂えられた。
呉夫人自身も、それを自覚したものとみえる。危篤の室へ、張昭や周瑜などの重臣を招いて遺言した。
「わが子の孫権は、呉の基業をうけてからまだ歳月も浅く年齢も若い。張昭と周瑜のふたりは、どうか師傅の心をもって、孫権を教えてください。そのほかの諸臣も、心をあわせて、呉主を扶け、かならず国を失わぬように励まして賜もれ。江夏の黄祖は、むかしわが夫の孫堅を滅ぼした家の敵ですから、きっと冤を報じなければなりませぬ……」
また、孫権にむかっては、
「そなたには、そなただけの長所もあるが、短所もある。お父上の孫堅、兄君の孫策、いずれも寡兵をひっさげて、戦乱の中に起ち、千辛万苦の浮沈をつぶさにおなめ遊ばして、はじめて、呉の基業をおひらきなされたものじゃが、そなたのみは、まったく呉城の楽園に生れて楽園に育ち、今、三代の世を受けついで君臨しておられる。……ゆめ、驕慢に走り、父兄のご苦労をわすれてはなりませんぞ」
「ご安心ください」
孫権は、老母の手を、かろく握って、その細さにおどろいた。
「――それから張昭や、周瑜などは、良い臣ですから、呉の宝ぞと思い、平常、教えを聞くがよい。……また、わたくしの妹も、後堂にいる。いまから後は、そなたの母として、仕えなければいけません」
「……はい」
「わたくしは、幼少のとき、父母に早くわかれ、弟の呉景と、銭塘へ移って暮しているうち、亡き夫の孫堅に嫁したのでした。そして四人の子を生んだ。……けれど、長男の孫策も若死してしまい、三男の孫翊も先頃横死してしもうた。……残っているのは、そなたと、末の妹のふたりだけじゃ、……権よ。あのひとりの妹も、よく可愛がってやっておくれ。……よい婿をえらんで嫁がせてくださいよ。……もし、母のことばを違えたら、九泉の下で、親子の対面はかないませんぞ」
云い終ると、忽然、息をひきとった。
枕頭をめぐる人々の嗚咽の声が外まで流れた。
高陵の地、父の墓のかたわらに、棺槨衣衾の美を供えて、孫権はあつく葬った。歌舞音曲の停まること月余、ただ祭祠の鈴音と鳥の啼く音ばかりであった。
二
喪の冬はすぎて、歳は建安十三年に入った。
江南の春は芽ぐみ、朗天は日々つづく。
若い呉主孫権は、早くも衆臣をあつめて、
「黄祖を伐とうではないか」と評議にかけた。
張昭はいう。
「まだ母公の忌年もめぐってこないうちに、兵を動かすのは如何なものでしょう」
周瑜はそれに対して、
「黄祖を伐てとは、母君のご遺言の一つであった。何で喪にかかわることがあろう」と酬いた。
いずれを採るか、孫権はまだ決しかねていた。
ところへ、都尉呂蒙がきて、一事件を披露した。
「それがし龍湫の渡口を警備しておりますと、上流江夏のほうから、一艘の舟がただよい来って、二十名ほどの江賊が、岸へ上がって参りました」
呂蒙はまず、こう順を追って、次のように話したのである。
「――すぐ取囲んで、何者ぞと、取糺しましたところ、頭目らしき真っ先の男がいうには――自分ことは、黄祖の手下で、甘寧字を興覇とよぶ者であるが、もと巴郡の臨江に育ち、若年から腕だてを好み、世間のあぶれ者を集めては、その餓鬼大将となって、喧嘩を誇り、伊達を競い、常に強弓、鉞を抱え、鎧を重ね、腰には大剣と鈴をつけて、江湖を横行すること多年、人々、鈴の音を聞けば……錦帆の賊が来たぞ! 錦帆来! と逃げ走るのを面白がって、ついには同類八百余人をかぞうるに至り、いよいよ悪行を働いていたなれど、時勢の赴くを見、前非を悔いあらため一時、荊州に行って劉表に仕えていたけれど、劉表の人となりも頼もしからず、同じ仕えるなら、呉へ参って、粉骨砕身、志を立てんものと、同類を語らい、荊州を脱して、江夏まで来たところが、江夏の黄祖が、どうしても通しません。やむなく、しばらく止まって、黄祖に従っておりましたが、もとより重く用いられるわけもない。……のみならずです、或る年の戦いに、黄祖敵中にかこまれて、すんでに一命も危ういところを、自分がただ一人で、救い出してきたことなどもあったが、かつて、その恩賞すらなく、あくまで、下役の端に飼われているに過ぎないという有様でした。――しかるにまた、ここに黄祖の臣で蘇飛という人がある。この人、それがしの心事にふかく同情して、或る時、黄祖に向い、それとなく、甘寧をもっと登用されては如何にと――推挙してくれたことがあったのです。すると黄祖のいうには、――甘寧はもと江上の水賊である。なんで強盗を帷幕に用うべき。飼いおいて猛獣の代りに使っておけば一番よろしい。――そう申したので、蘇飛はいよいよそれがしを憐れみ、一夜酒宴の折、右の事情を打明けて――人生いくばくぞや、早く他国へ去って、如かじ、良主をほかに求め給え。ここにいては、足下はいかに忠勤をぬきん出ても、前科の咎を生涯負い、人の上に立つなどは思いよらぬことと教えてくれました。……ではどうしたらいいかを、さらに蘇飛に訊くと、近いうちに、鄂県の吏に移すから、その時に、逃げ去れよとのことに、三拝して、その日を待ち、任地へいく舟といつわって、幾夜となく江を下り、ようやく、呉の領土まで参った者でござる。なにとぞ、呉将軍の閣下に、よろしく披露したまえと――以上、甘寧つぶさに身の上を物語って、それがしに取次ぎを乞うのでございました」
「むむ。……なるほど」
孫権を始め、諸将みな、重々しくうなずいた。
呂蒙は、なおこう云い足して、報告を結んだ。
「甘寧といえば、黄祖の藩にその人ありと、隣国まで聞えている勇士、さるにても、憐れなることよと、それがしも仔細を聞いて、その心事を思いやり……わが君がお用いあるや否やは保証の限りではないが、有能の士とあれば、篤く養い、賢人とあれば礼を重うしてお迎えある明君なれば、ともあれ御前にお取次ぎ申すであろうと、矢を折って、誓いを示したところ、甘寧はさらに江上の船から数百人の手下を陸へ呼びあげて――否やお沙汰の下るまで慎んでお待ちおりますと――ただ今、龍湫の岸辺に屯して、さし控えておりまする」
三
「時なるかな!」と、孫権は手を打ってよろこんだ。
「いま、黄祖を討つ計を議するところへ、甘寧が数百人を率いて、わが領土へ亡命してきたのは、これ潮満ちて江岸の草のそよぐにも似たり――というべきか、天の時がきたのだ。黄祖を亡ぼす前兆だ。すぐ、甘寧を呼び寄せい」
こう孫権の命をうけ、呂蒙も大いに面目をほどこして、直ちに、龍湫へ早馬を引っ返して行った。
日ならずして、甘寧は、呉会の城に伴われてきた。
孫権は、群臣をしたがえて彼を見た。
「かねて、其方の名は承知しておる。また、出国の事情も呂蒙から聞いた。この上は、ただわが呉のために、黄祖を破るの計は如何に、それを訊きたい。忌憚なく申してみよ」
孫権はまずいった。
拝礼して甘寧は答える。
「漢室の社稷は今いよいよ危うく、曹操の驕暴は、日とともにつのりゆきます。おそらく、簒奪の逆意をあらわに示す日も遠くありますまい」
「荊州は呉と隣接しておる。荊州の内情をふかく語ってみよ」
「江川の流れは山陵を縫い、攻守の備えに欠くるなく、地味はひらけて、民は豊かです。――しかしこの絶好な国がらにも、ただ一つ、脆弱な短所があります。国主劉表の閨門の不和と、宿老の不一致です」
「劉表は、温良博学な風をそなえ、よく人材を養い、文化を愛育し、ために天下の賢才はみな彼の地に集まると、世上では申しているが――」
「まさにその通りです。けれどそれはもっぱら劉表の壮年時代の定評で、晩年、気は老い、身に病の多くなるにつれ、彼の長所は、彼の短所となり、優柔不断、外に大志なく、内に衰え、虚に乗じて、閨門のあらそいをめぐり、嫡子庶子のあいだに暗闘があるなど、――ようやく亡兆のおおい得ないものが見えだしました。討つなら今です」
「その荊州に入るには」
「もちろん江夏の黄祖を破るのを前提とします。黄祖は怖るるに足りません。彼もはや老齢で、時務には昏昧し、貨利をむさぼることのみ知って、上下、心から服しておりませぬ」
「兵糧武具の備えはどうか」
「軍備は充実していますが、活用を知らず、法伍の整えなく、これを攻めれば、立ちどころに崩壊するだろうと思います。――君いま、勢いに乗って、江夏、襄陽を衝き、楚関にまで兵をおすすめあれば、やがて、巴蜀を図ることも難しくはございますまい」
「よく申した。まことに金玉の論である。この機を逸してはなるまい」
孫権はすぐ周瑜に向って、兵船の準備をいいつけた。
張昭は、憂えて、
「いま、兵を起し給わば、おそらく国中の虚にのって、乱が生じるでしょう。せめて母公の喪のおすみになるまで、国内の充実にお心を傾けられてはどうですか」と、敢て苦言した。
甘寧は、さえぎって、
「それ故に、国家は今、蕭何の任を、ご辺に附与するのである。乱を憂えられるなら、よく国を守って、後事におつくしあるようねがいたい」
「すでにわが心は決まった。張昭も他事をいうな。一同して、盃を挙げよう」
孫権は、一言をもって、衆議を抑えた。
そして、また甘寧にむかい、
「其方をさし向けて、黄祖を討つことは、例えばこの酒の如しじゃ。一気に呑みほしてしまうがよい。もし黄祖を破ったら、その功は、汝のものであるぞ」
と、盃になみなみと酒をたたえて与えた。
かくて、周瑜を大都督に任じ、呂蒙を先手の大将となし、董襲、甘寧を両翼の副将として、呉軍十万は、長江をさかのぼって江夏へおしよせた。
四
鴻はみだれて雲にかくれ、柳桃は風に騒いで江岸の春を晦うした。
舳艫をそろえて、溯江する兵帆何百艘、飛報は早くも、
「たいへん!」
と、江夏に急を告げ、また急を告げてゆく。
黄祖の驚きはひと通りではない。
が、――先に勝った覚えがある。
「呉人の青二才ども、何するものぞ」
蘇飛を大将として、陳就、鄧龍を先鋒として、江上に迎撃すべく、兵船をおし出し、準備おさおさ怠りない。
大江の波は立ち騒いだ。
呉軍は、沔口の水面をおもむろに制圧し、市街の湾口へとつめてきた。
守備軍は、小舟をあつめて、江岸一帯に、舟の砦を作り、大小の弩弓をかけつらね、一せいに射かけてきた。
呉の船は、さんざん射立てられ、各船、進路を乱して逃げまどうと、水底には縦横に大索を張りめぐらしてあることとて、櫓を奪われ、舵を折り、
「大勢、ふたたび不利か」と、一時は、周瑜をして、眉をくもらせたほどだった。
時に、甘寧は、
「いで。これからだ」と、董襲にもうながし、かねてしめし合わせておいたとおり、決死、敵前に駆け上がるべく、合図の旗を檣頭にかかげた。
百余艘の早舟は、たちまち、江上に下ろされて、それに二十人、三十人と、死をものともせぬ兵が飛びのった。
波間にとどろく金鼓、喊声につれて、決死の早舟隊は、無二無三、陸へ迫ってゆく。
或る者は、水中の張り綱を切りながし、或る者は、氷雨と飛んでくる矢を払い、また、舳に突っ立った弓手は、眼をふさいで、陸上の敵へ、射返して進んで行った。
「防げ」
「陸へ上げるな」
敵の小舟も、揉みに揉む。
そして、火を投げ、油をふりかけてくる。
白波は、天に吼え、血は大江を夕空の如く染めた。
黄祖の先鋒の大将、陳就は岸へとび上がって、
「残念、舟手の先陣は、破られたか。二陣、陸の柵をかためろ」
声をからして、左右の郎党に下知しているのを、呂蒙が見つけて、
「うごくなっ」と、近づいた。
岸へとび上がるやいな、槍をふるって突きかけた。――陳就は、あわてて、
「やっ、呉の呂蒙か」と、剣をふるって、防ぎながら、
「気をつけろ。もう敵は上陸っているぞ」
と、部下へ注意しながら逃げ惑った。
こうまで早く、敵が陸地に迫っていようとは思っていなかったらしい。呂蒙は、
「おのれ、名を惜しまぬか」と、陳就を追って、うしろから一槍を見舞い、その仆れたのを見ると、大剣を抜いて、首をあげた。
舟手の崩滅を救わんものと、大将の蘇飛は、江岸まで馬をすすめてきた。――それと見た呉軍の将士は、
「われこそ」と、功にはやって、蘇飛のまわりへむらがり寄ったが、燈にとびつく夏の虫のように、彼のまわりに、死屍を積みかさねるばかりだった。
すると、呉の一将に、潘璋という剛の者があった。立ち騒ぐ敵味方のあいだを駆けぬけ、真っ直ぐに、蘇飛のそばへ近づいて行ったかと思うと、馬上のまま引っ組んで、さすがの蘇飛をも自由に働かせず、鞍脇にかかえて、たちまち、味方の船まで帰ってきた。
そして、孫権に献じると、孫権は眼をいからして、蘇飛を睨みつけ、
「以前、わが父孫堅を殺した敵将はこいつだ。すぐ斬るのは惜しい。黄祖の首と二つ並べて、凱旋ののち父の墓を祭ろう。檻車へほうりこんで本国へさし立てろ」
と、いって、部下に預けた。