臨江亭会談
一
蜀の玄徳は、一日、やや狼狽の色を、眉にたたえながら、孔明を呼んで云った。
「先生の兄上が、蜀へ来たそうではないか」
「昨夜、客館に着いたそうです」
「まだ会わんのか」
「兄にせよ、呉の国使として参ったもの。孔明も蜀一国の臣。私に会うわけにはまいりません」
「何しに見えたのであろう」
「もとより荊州の問題でしょう」
孔明は、座へ寄って、玄徳の耳もとへ、何かささやいた。
「……そういうお気持で」
「む、む。わかった」
玄徳はいささか眉をひらいた。
その晩、孔明はふいに、客舎にある兄を訪ねた。孔明に会うと、諸葛瑾は、声を放って、大いに哭いた。
「兄上。いったい、どうなすったのです」
「聞いてくれ、亮。わしの妻子一族がみな呉で投獄された」
「荊州を還さぬという問題をとらえてですか」
「そうじゃ。亮……察してくれよ」
「お気づかいには及びません。荊州さえ還せばみな獄から解かれましょう。兄上の妻子にまでご災難の及んでゆくのを、なんで孔明が坐視しておりましょう。君へ申しあげて、きっと荊州は呉へ還します」
「おお……そうしてくれるか」
諸葛瑾は、涙を喜色にかえて、弟に謝し、次の日ひそかに玄徳へ会った。そして、
「これは、呉侯からのご書簡ですが」
と、孫権からの一書を呈すると、玄徳はそれを披見して、たちまち色を作した。
諸葛瑾は、はっとした。側にいた孔明も、眼をみはった。玄徳の手にその書簡は引き裂かれ、その眸は、天の一方を見て、独り語にこう叫んだ。
「無礼なり孫権。――もとより荊州はいつか呉へ還さんとは思っていたが、汝、いたずらに小策を弄し、わが夫人を欺いて、呉へ呼び返すなど、玄徳の面目を無視し、夫婦の情を虐げ、いつかはこの恨みをと、骨髄に刻んでいた玄徳の心を知らないかっ。――むかし一荊州にありし時だに、汝ごときは物の数としていたわれでない。いわんや今、蜀四十一州を併せて、精兵数十万、肥馬無数、糧草は山野に蓄えて、国人みな時にあたるの覚悟をもつ。汝、いかに狡智を弄すとも、力をもって荊州を取ることを得んや」
胸中の憤怒を一時に吐いたような玄徳の激色に、ふたりは打たれたように一瞬沈黙していたが、そのうちに孔明が卒然と面をおおって哭きかなしんだ。
「もし兄上をはじめ、妻子一族まで、呉侯のために誅せられたら、孔明はどんな面をして、独り世に生き残っておられましょう……哀しいかな、この絆。ああ苦し、この事の処置」
仰いでは、涙をのみ、伏しては肩を打ちふるわせた。
玄徳は、なお怒気忿々と、色を収めなかったが、次第に感情を抑制して、孔明の心も不愍と察しやるかのように、
「そう嘆かれては、予の胸もつらい。さりとて荊州は還し難し、軍師の悲嘆は黙し難し。……そうだ、ではこうしてつかわす。荊州のうち長沙、零陵、桂陽の三郡だけを呉へ還してくれる。それなら呉の面目も立ち、瑾の妻子も助けられよう」
「かたじけのう存じます」と孔明は拝謝し、また感激して、
「では、その趣を、ご書簡にしるして、兄上へおさずけ下さい。――兄上はそれをたずさえて荊州へ赴き、関羽と談合の上、移譲の手続きを運びましょうから」と、いった。
玄徳はすぐ書簡を書いて、瑾へ渡したが、
「予の義弟の関羽は、心性率直、情熱は烈火に似、われすらなお懼るるほどの男だから、衝突しないように、よく気をつけて語るがいいぞ」
と注意してやった。
諸葛瑾は、成都を去って、山覊舟行数十日、荊州へ着くや、すぐ城を訪れて関羽に対面した。
二
関羽のそばには、養子の関平が侍立していた。
諸葛瑾は、玄徳の書簡を示して、さて、
「このたび荊州の内、三郡だけを呉へお還し給わることになりましたから、早速、そのお手配をねがいたい」と、いった。
関羽は、うんもすんもいわない。瑾を睨めつけているのだ。瑾がかさねて、
「もし将軍がおきき入れなく、三郡すらお還し下さらぬときは、瑾の妻子は立ちどころに誅せられ、私も呉へ帰る面目はありません。どうか、苦衷を察してください」と、泣訴した。
関羽は、剣の柄を叩いて、
「ならんっ。断じて還さん。それはみな呉の計略というもの。ふたたび無用な口を開くと、この剣が答えるぞ」
と、大喝した。
関平は父をなだめた。
「このお方は、孔明軍師の兄上です。およしなさい」
「知っておる。孔明の兄でもなければ、生かして帰すところじゃない」
と、関羽はなお恐ろしい形相をおさめないのである。
諸葛瑾は、とりつくしまもなく、ここを去って再び蜀へもどり、玄徳へ訴えようとしたが、その玄徳は折から病中とあって典医が面会を許さず、弟の孔明に会おうとすれば、その孔明は郡県の巡察に出張して、しばらくは成都に帰るまいという。
千里の往来も空しい旅となって、瑾はぜひなく一応、呉へ帰って来た。呉主孫権は、それもこれもみな策士孔明のからくりにちがいないと、足ずりして怒ったが、
「さりとて、汝にも、汝の妻子にも罪があるわけではない」
と、仮に獄中へつないでおいた瑾の家族はみな家へ帰した。
孫権はまた、諸官吏を、荊州へ派して、
「すでに玄徳が還すといった長沙、零陵、桂陽の三郡は、臣下の関羽が、なんと拒もうと、まさしく呉が接受すべきものである。強硬に交渉して、関羽の下の地方官吏を追い払い、汝らの手で郡の政庁を奪って代れ」と、厳命した。
もちろん軍隊もついて行った。しかしほど経てからそれらの官吏はみな逃げ帰ってきた。反対に関羽の部下に追い払われてきたのだという。しかも軍隊などはほとんどひどい目に遭わされて、生きて帰ってきた兵は三分の一しかなかった。
「とても、尋常一様な手段では荊州は還りますまい。私にご一任賜るなら、遠く溯って、陸口(漢口の上流)の塞外、臨江亭に会宴をもうけ、一日、関羽を招いてよく談じ、もしきかなければ、即座に彼を刺し殺してしまいますが……いかがでしょう、お任せ下さいますか」
これは魯粛の進言である。
呉中一といっても二と下らない賢臣の言だ。反対者もあったが、孫権は然るべしと、その計を採用することに決し、
「いまをおいて、いつの日か荊州をわが手に取り還さん。はや行け」と、励ました。
船に兵を積み、表には、親睦の使いととなえて、魯粛は、揚子江を遠く溯って行った。そして陸口城市の河港に近い風光明媚の地、臨江亭に盛大な会宴の準備をしながら、一面、呂蒙だの甘寧などの大将に、「もし関羽が見えたときは、かくかくにして」と、すべての計をととのえていた。
臨江亭は湖北省にある。荊州はいうまでもなく湖南の対岸。――魯粛の使いは、舟行して江を渡った。しかもその使いは、ことさら華やかに装い、従者に麗しい日傘をかざさせて、いかにも悠暢に、会宴の招待にゆく使いらしく櫓音も平和に漕いで行った。
彼はやがて、荊州の江口から城下に入り、謹んで、書を関羽に呈した。書面の内容はもとより魯粛の名文をもって礼を尽し、蜜の如き交情をのべ、どうしても断れないように書いてあった。
三
「参る。よろしくいってくれ」
簡単に承諾して、関羽は使いを返した。
関平は驚いた。かつ危ぶんで、父に諫めた。
「魯粛は、呉でも、長者の風のある人物とは聞いていますが、時局がこんな場合、いかなる陥穽を構えているか知れたものではありません。千金の重き御身を、そう軽々にうごかし遊ばすのは、如何と思いますが」
「案じるな」
関羽はあくまで簡単にいう。
「供は、周倉一名をつれて行く。そちは精兵五百人に快舟二十艘をそろえ、こなたの岸に遠く控えておれ。――そしてもし父が彼方の岸で旗をあげて招くのを見たら、初めて船を飛ばして馳せつけて来い」
「かしこまりました」
関平は、父の命に従うしかなかった。
その日になると、関羽は、緑の戦袍を着、盛冠花鬚、一きわ装って小舟にのった。供の周倉は、面は蛟のごとく青く、唇は牙をあらわし、腕は千斤も吊るべしと思われる鉄色の肌をしている。その周倉が、桃園の義盟以来、関羽が常に離すことなき八十二斤の青龍刀を持って、主人のうしろに控えていた。
また、小舟には、紅の旗を一すじ立てていた。「関」の一大文字が書いてある。江風はゆるやかに、波は凪いで、舟中の関羽は眠くなりそうな眼をしていた。
「……や、ひとりで来る」
「あれが関羽か?」
対岸では、呉の人々が、眩しげに手をかざし合っていた。てッきり関羽は、大勢の兵をつれて来るだろう。――そう予期していたものらしい。もし大兵を連れてきたら、鉄砲を合図に、呂蒙と甘寧の二軍でふくろ包みにしてしまおう。これが、魯粛の備えておいた、第一段の計であった。
ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装い、供ひとりを従えてきたので、
「さらば、第二段の計で」
と、はやくも眼くばせを交わし合っていた。
会場臨江亭の庭後には、屈強な武士ばかり五十人を伏せて、ここへ関羽を迎えたのである。もちろん沿道の林間、園内随所の林泉の陰にも、雑兵は充満している。ひとたびここへ入ったからには、天魔鬼神でも生きて出ることはできないようになっている。とはいえもちろん客の視野には、一すじの素槍の光だに、眼にふれないように隠してあった。
亭は花や珍器に飾られ翠蔭しきりに美鳥が啼いていた。はるばる呉から舶載してきた南方の美味薫醸は、どんな貴賓を饗するにも恥かしいものではなかった。
魯粛は、拝伏して、関羽を上賓の席に請じ、さて、酒をすすめ、歌妓楽女をして、歓待させたが、話になると、眸を伏せた。関羽の眼をどうしても正視できなかった。
しかし酒半酣の頃、ようやく、やや打ちくつろいだ態を仕向けて云った。
「将軍もよくご存じでしょう。むかし荊州の問題で、呉侯の命をうけ、たびたび劉皇叔の御許へ、交渉の使いにまいりましたが、いやはや、えらい目に遭いました。あればかりは忘れられませんよ」
「どうしてです」
「すっかり翻弄されたようなものでしたからね」
「そんなことはないでしょう。わが主劉皇叔はかりそめにも信義には背かないお方です」
「けれどついに、今もって荊州はお返しして下さらないではありませんか」
「あはははは」
「笑いごとではありません。ために、呉侯からこの問題について使いを命じられたものはみな実に面目を欠いています。――やがて蜀四十一州を取ったら返すなどと宣いながら、いま蜀をお手に入れても実行なさらず、わずかに荊州の内三郡だけを返すといわれたかと思えば、羽将軍が妨げて、故意にそれすらお返しなさらない」
「考えてもごらんなさい。わが皇叔以下、われわれ臣下は、かの烏林の激戦に、みな命をなげうち矢石を冒して、血をもって奪った地ではないか。地下の白骨に対してもそうおいそれと他国へ譲れるものかどうか。――もし足下がわれらの立場としたらどうでしょう」
「待って下さい。……過去をいうならば、この当陽の戦に、将軍たちをはじめ皇叔一族も、惨澹たる敗北をとげ、帰るに国もなく、拠るに味方もなく、百計尽き果てたところを助けてあげたのは、どこの誰でしたろう、呉の恩ではなかったでしょうか」
四
魯粛も呉の大才である。こう口を開いて、この会談の目的にふれてくると、その舌鋒は、相手の急所をつかんで離さなかった。
「いや、恩着せがましく申しては、ご不快かも知れぬが、あの折、敗亡遁竄の果て、ご一身を容るる所もなき皇叔に、愍れみをかけた御方は、天下わが主おひとりであった。後なお、莫大な国費と軍馬を賭して、曹操を赤壁に破ったればこそ、皇叔にも、ふたたび時に遭うことができたというもの。――しかるに、蜀も取りながら、まだ荊州をお返しなきは、いわゆる飽くなき貪慾、凡下だに恥ずる所業といわれても仕方がありますまい。ましてや人の師表に立つ御方ではないか。将軍はどうお考えになりますか」
「…………」
理の当然に、関羽も答えにつまって、頭を垂れていたが、なお、急所を押されると、苦しまぎれに、
「家兄の皇叔には、べつに正当なご意見があることでしょう。それがしの与り知ることではない」
と、云いのがれた。
魯粛はすかさず、なお語気に攻勢をとって、
「皇叔とあなたは、むかし桃園に義をむすんで、心もひとつぞ、生死も共にと、お誓い合った仲と承る。なんで、与り知らぬで世間が通しましょうぞ」と、たたみかけた。
すると、関羽の側に立っていた周倉が、主人の旗色悪しとみたので、突然、
「天上地下、ただ徳ある者が、これを保ち、これを政するは当然、豈、荊州を領する者、汝の主孫権でなくてはならぬという法があろうかっ」
家鳴りするような声でどなった。
はっと、色を変じながら、関羽は席から突っ立った。そして周倉に持たせておいた偃月の青龍刀を引ったくるように取ると、
「周倉、だまれっ。これは国家の重大事である。汝ごときが、みだりに舌をうごかすところではない!」と、叱りつけた。
騒然と、亭中は色めき立った。関羽がやにわに巨腕を伸ばして、魯粛の臂をつかんで歩きだしたのみでなく、周倉が亭の欄まで走って、そこから江上へ向って、しきりに、赤い旗を振ったのを見たからである。
「さあ、来給え」
関羽は、大酔したふうを装いながら、次第に大股を加え、
「すくなくも一国の大事を、軽々と酒間に談じるのは、よろしくない。かつは甚だしく久濶の情をやぶり、せっかくの酒興を傷つける。ご返礼には、他日また、それがしが湖南に一会を設けてご招待するが、きょうはひとまずお別れとしよう。酔客のために、江岸の舟まで送って来給え」
人々が、あれよと立ちさわぐ間に、もう亭を降り、園を抜け、門外へ出ていた。魯粛の肥えた体も、関羽の手にはまるで小児を提げて行くようであった。
魯粛は、酒もさめ果て、生きた空もない。耳のそばを、ぶんぶん風が鳴ったと思うと、たちまち、江岸の波打ちぎわが見えた。
ここには呂蒙と甘寧とが、大兵を伏せて、関羽を討ち漏らさじと鉄桶の構えを備えていたのであるが、関羽の右手に、見る眼もくらむばかりな大反の偃月刀が持たれていることと、また片手に魯粛がつかまれているのを見て、
「待て」
「迂濶に出るな」
と、制し合っていた。
そのまに、周倉が寄せた小舟へ、関羽はひらりと飛び乗ってしまった。そして初めて、魯粛を岸へ突っ放し、
「おさらば」
と、一語、岸を離れてしまった。
甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射ったが、一舟は悠々帆を張って、順風を負いながら、対岸から出迎えにきた数十艘の快舟のうちへ伍して去った。
交渉、ここに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。
魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の秣陵へ急ぎに急ぐ。
呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、魏の曹操が、三十万の大軍をもって、南下しつつあるという飛報が入っていた。