許都と荊州

「ここに一計がないでもありません」
 と、孔明は声をはばかって、ささやいた。
「国主の劉表は病重く、近頃の容態はどうやら危篤のようです。これは天が君に幸いするものでなくてなんでしょう。よろしく荊州を借りて、万策をお計りあれ。それに拠れば、地は広く、嶮は狭く、軍需財源、すべて充分でしょう」
 玄徳は顔を横に振った。
「それは良計には違いなかろうが、わしの今日あるは、劉表の恩である。恩人の危うきにつけこんで、その国を奪うようなことは忍び得ない」
「このさい小乗的なお考えは捨て、大義に生きねばなりますまい。いま荊州を取っておかなければ、後日になって悔ゆるとも及びませぬ」
「でも、情にもとり、義に欠けるようなことは」
「かくいううちにも、曹操の大軍が襲来いたしたなら、何となさいますか」
「いかなる禍いにあおうと、忘恩の徒と誹られるよりはましである」
「ああ。まことに君は仁者でいらせられる!」
 それ以上、強いることばも、諫める辞もなく、孔明は口をつぐんだ。
 さてまた夏侯惇は、口ほどもない大敗を喫して、命からがら都へ逃げ上り、みずから面縛して――死を待つ意味で罪人のように眼隠しをほどこし――畏る畏る相府の階下にひざまずいた。
(面目なくて会わせる顔もありません)といわぬばかりな姿である。
 曹操は出座して、それを見ると苦笑した。
「あれを解いてやれ」と、左右の者へ顎でいいつけ、階を上がることをゆるした。
 夏侯惇は、庁上に慴伏して、問わるるまま軍の次第を報告した。
「何よりの失策は、敵に火計のあることをさとらず、博望坡をこえて、渓林のあいだへ深入りしすぎた一事でございました。ために丞相の将士を数多うしない、罪万死に値します」
「幼少より兵学を習い、今日まで幾多の戦場を往来しながら、狭道には必ず火攻めのあることぐらい気づかないで軍の指揮ができるか」
「今さら、何の言い訳もございません。于禁はそれをさとって、それがしにも注意しましたが、後悔すでに及ばなかったのであります」
于禁には大将軍たる才識がある。汝も元来の凡将ではない筈。この後の機会に、今日の恥をそそぐがよい」と叱ったのみで、深くも咎めなかった。
 その年の七月下旬。
 曹操は八十余万の大軍を催し、先鋒を四軍団にわかち、中軍に五部門を備え、後続、遊軍、輜重など、物々しい大編制で、明日は許都を発せんと号令した。中太夫孔融は、前の日、彼に諫めた。
「北国征略のときすら、こんな大軍ではありませんでした。かかる大動員をもって大戦にのぞまれなば、おそらく洛陽長安以来の惨禍を世に捲き起しましょう。さる時には、多くの兵を損い、民を苦しめ、天下の怨嗟は挙げて丞相にかかるやも知れません。なぜならば、玄徳は漢の宗親、なんら朝廷に反いたこともなく、また呉の孫権たりといえど、さして不義なく、その勢力は江東江南六郡にまたがり、長江の要害を擁しているにおいては、いかにお力をもってしても……」
「だまれ。晴れの門出に」
 曹操は叱って、「なお申さば、斬るぞ」と、一喝に退けてしまった。
 孔融は、慨然として、府門を出ながら、
「不仁を以て仁を伐つ。敗れざらんや。ああ!」
 と、嘆いて帰った。
 附近にたたずんでいた厩の小者が、ふと耳にして、主人に告げ口した。その主人なる男は日頃、孔融と仲のわるい郄慮だったから、早速、曹操にまみえて、輪に輪をかけて讒言した。

 些細なことをとらえて、棒ほどに訴える。
 そして、主たる位置にある人の誇りと弱点につけこむ。
 讒者の通有手段である。
 そんな小人の舌に乗せられるほど曹操は甘い主君では決してない。けれど、どんな人物でも、大きな組織のうえに君臨していわゆる王者の心理となると、立志時代の克己や反省も薄らいでくるものとみえる。人間通有の凡小な感情は、抑えてのないまま、かえって普通人以上、露骨に出てくる。
 無能な小人輩は、甘言と佞智をろうすことを、職務のように努めはじめる。曹操のまわりには、つねに苦諫を呈して、彼の弱点を輔佐する荀彧のような良臣もいたが、その反対も当然多い。
「どうも孔融は、丞相にたいして、お怨みを抱いているようです。……昨夕も退庁の際、ひとり言に、不仁を以て仁を伐つ、敗れざらんや――などと罵って帰りましたし、日頃の言行に照らしても、不審のかどがいくらもありますし」
 讒者は、弁をふるって、日頃から胸にたたんでおいた材料を、舌にまかせて並べたてた。
「――いつでしたか、丞相が禁酒の法令を発しられましたときも、孔融は笑って、天に酒旗の星あり、地に酒郡あり、人に喜泉なくして、世に何の歓声あらん。民に酒を禁じるほどなら、今に婚姻も禁じるであろう、などと途方もない暴説を吐いておりましたし」
「…………」
「また。あの孔融はですね。ずっと以前ですが、朝廷の御宴の折、赤裸になって丞相を辱めた禰衡――あの奇舌学人とは――古くから親交がありまして、禰衡にあんな悪戯をさせたのも、後で聞けば、孔融の入れ智慧だったということです」
「…………」
「いえ、まだまだ、それのみではありません。彼は荊州劉表とは、ずいぶん以前から音信を交わしております。また玄徳とは、わけても昵懇と聞いておりますゆえ、この辺の虚実は彼の邸を、突然襲って家探ししてごらんになれば、きっと意外な証拠が現れるのではないかと思われます。――明日、荊州へご発向の前に、ぜひその一事は、明らかに調べてご出陣ありますように」
「…………」
 かなり長いあいだしゃべらせておいた。曹操は一語も発せずにいたが、非常にいやな顔つきをしていた。そして聞くだけ聞き終るといきなり、
「うるさい、あっちへ行け」
 と、顎をあげて、蠅のように、その家臣を目さきから追い払った。
 さすがに、讒者の肚を、観破したのかと思うと、そうでもない。いや、その反対だったのである。
 たちまち廷尉を呼んで、
「すぐ行け」と、何かいいつけた。
 廷尉は、一隊の武士と捕吏をひきつれ、不意に孔融の邸を襲った。
 孔融は、なんの抵抗をするまもなく、召捕られた。
 召使いのひとりが奥へ走って、
「たッ、大変ですっ。ご父君にはいま、廷尉に捕縛されて、市へひかれて行きました!」
 と、そこにいる孔融の息子たちへ、哭き声で知らせた。
 二人の息子は、碁を囲んで遊んでいたが、すこしも驚かず、
「――巣すでに破れて、卵の破れざるものあらんか」
 と、なお二手三手さしていた。
 もちろん、たちまち踏みこんできた捕吏や武士の手にかかって、兄弟とも斬られてしまった。
 邸は炎とされ、父子一族の首は市に梟けられた。
 荀彧は、後で知って、
「どうも、困ったものです」と、苦々しげに云ったきりで、いつもの如く、曹操へ諫言はしなかった。諫言も間に合わないし、また無言でいるのも、一つの諫言になるからであろう。

 曹操みずから、許都の大軍をひきいて南下すると、頻々、急を伝えてくる中を、荊州劉表は、枕も上がらぬ重態をつづけていた。
「御身と予とは、漢室の同宗、親身の弟とも思うているのに……」
 病室に玄徳を招いて、彼は、きれぎれな呼吸の下から説いていた。
「予の亡い後、この国を、御身が譲りうけたとて、誰が怪しもう。奪ったなどといおう。……いや、いわせぬように、予が遺言状をしたためておく」
 玄徳は、強って辞した。
「せっかくの尊命ですが、あなたにはお子達がいらっしゃいます。なんで私がお国を継ぐ必要などありましょう」
「いや、その孤子の将来も、御身に託せば安心じゃ。どうかあの至らぬ子らを扶け、荊州の国は御身が受け継いでくれるように」
 遺言にひとしい切実な頼みであったが、玄徳はどうしても受けなかった。
 孔明は後にその由を聞いて、
「あなたの律義は、かえって、荊州の禍いを大にしましょう」と、痛嘆した。
 その後、劉表の病は重るばかりな所へ、許都百万の軍勢はすでに都を発したと聞えてきたので、劉表は気魄もおののき飛ばして、遺言の書をしたためて後事を玄徳に頼んだ。――御身が承知してくれないならば、嫡子の劉琦を取立てて荊州の主に立ててくれよというのであった。
 蔡夫人は、穏やかならぬ胸を抱いた。彼女の兄蔡瑁や腹心の張允も、大不満を含んで、早くも、
「いかにして、琦君を排し、劉琮の君を立てるか」を、日夜、ひそひそ凝議していた。
 ――とも知らず、劉表の長男劉琦は、父の危篤を聞いて、遠く江夏の任地から急いで荊州へ帰ってきた。
 そして旅舎にも憩わず、直ちに城へ入ってくると、内門の扉はかたく彼を拒んで入れなかった。
「父の看護につこうものと、はるばる江夏から急いできた劉琦なるぞ。城門の者、番の者、ここを開けい。通してくれよ」
 すると、門の内から蔡瑁は声高に答えた。
「父君のご命をうけて、国境の守りに赴かれながら、無断に江夏の要地をすてて、ご帰国とは心得ぬお振舞い。いったい誰のゆるしをうけてこれに来られたか。軍務の任の重きことをお忘れあったか。たとえご嫡子たりともここをお通しするわけには参らん。――疾く疾くお帰りあれ、お帰りあれ」
「その声は、瑁伯父ではないか。せっかく遠路を参ったのに、門を入れぬとは無情であろう。すぐ江夏へ帰るほどに、せめて父君にひと目会わせてくれい」
「ならぬ!」と、伯父の権を、声に加えて、蔡瑁はさらにこッぴどくいって、追い払った。
「病人にせよ、会えばお怒りときまっている。病を重らすだけのことだ。さすれば孝道にも背くことに相成ろう。不孝をするため、わざわざ来られたわけでもあるまい!」
 劉琦はややしばらく門外にたたずんで哭き声をしのばせていたが、やがてしおしおと馬をかえして立ち去った。
 秋八月の戊申の日、劉表は、ついに臨終した。
 蔡夫人、蔡瑁張允などは、偽の遺言書を作って、
 =荊州の統は、弟劉琮を以て継がすべし
 と披瀝した。
 蔡夫人の生んだ二男劉琮は、その時まだ十四歳であったが、非常に聡明な質だったので、宿将幕官のいるところで、或る折、
「亡父君のご遺言とはあるが、江夏には兄上がいるし、新野には外戚の叔父劉玄徳がいる。もし兄や叔父がお怒りの兵を挙げて、罪を問うてきたら何とするぞ」
 と、質問しだしたので、蔡夫人も蔡瑁も、顔いろを変えてあわてた。

 すると、末席にいた幕官の李珪という者が、劉琮の言へ即座にこたえて、
「おう若君、よくぞ仰せられました。実に天真爛漫、いまの君のおことばこそ、人間の善性というものです。君臣に道あり、兄弟に順あり、お兄君をしのいでお継ぎになるなど、もとより逆の甚だしいものです。いそぎ使いを馳せて江夏より兄君を迎えられ、琦君を国主とお立て遊ばし、玄徳を輔佐としてまず内政を正し、しかる後、北は曹操を防ぎ、南は孫権にあたり、上下一体となるのでなければ、この荊州の滅乱はまぬかれません!」と、はばかる色もなく直言した。
 蔡瑁は、赫怒して、
「みだりに舌をうごかして、故君のご遺言を辱め、部内の人心を攪乱する賊臣め。黙れっ、黙りおろうっ」と、大喝しながら、武士と共に、李珪のそばへ馳け寄って、「これへ出ろ」と、引きずりだした。
 李珪は悪びれずになおも、
「国政にあずかる首脳部の方々からして、順をみだし、法をやぶり、何とて他国の侵攻を防ぎ得ましょうや。この国の亡ぶは眼に見えている」と、叫んでやまなかったが、とたんに蔡瑁が抜き払った剣の下に、あわれその首は斬り落されていた。
 死屍は市の不浄墳に取り捨てられたが、市人は伝え聞いて、涙を流さぬはなかったという。
 襄陽の東四十里、漢陽の荘麗なる墓所に、故劉表の柩は国葬された。蔡氏の閥族は、劉琮を国主として、これから思うままに政をうごかしたが、時まさに未曾有の国難の迫っている折から、果たしてそんな態勢で乗り切れるかどうか、心あるものは危ぶんでいた。
 蔡夫人は、劉琮を守護して、軍政の大本営を襄陽城に移した。
 時すでに、曹操の大軍は刻々南下して、
「はや宛城に近し!」
 とさえ聞えてきたのである。
 幼主と蔡夫人を主座に仰ぎ、蔡瑁蒯越以下、宿将群臣たちは日々評議に余念なかった。
「一戦いなみ難し」とする軍の主戦論は、濃厚であったが、文官側になお異論が多い。
 就中、東曹の掾公悌は、
「三つの弱点がある」と、国内の不備をかぞえて、非戦論を主張した。
 その一は、江夏劉琦が、国主の兄でありながら、まったく排け者にされている不満から、いつ荊州の背後を突くか知れないという不安。
 二には、玄徳の存在である。しかも玄徳のいる新野は、この襄陽と江水ひとつをへだてた近距離にある。おそらく玄徳の向背はこの際、はかり知れないものがあろうという点。
 三つには、故太守の歿後、まだ日も経っていないので、諸臣の不一致、内政の改革、あらゆる備えが、まだ完き臨戦態勢に至っていない――というのであった。
「その説に自分も同感である。自分をもっていわせれば、さらに三つの不利がある」
 と、続いて山陽高平の人、王粲字は仲宣が起って戦に入る三害を力説した。
 一、中国百万の軍は、朝廷をひかえ、抗するものは、違勅の汚名をうける。
 一、曹操は威雷電のごとく、その強馬精兵は久しく名あるところ。荊州の兵は、久しく実戦の体験がない。
 一、たとえ玄徳をたのみとするも、玄徳のふせぎ得る曹操ではない。もしまた、曹操に当り得るほどな実力を彼に附与すれば、なんで玄徳が、わが君の下風に屈していよう。
 公悌のいう三弱、王粲のあげた三害、こう数えたてれば、荊州は到底、中国百万の軍と雌雄を決して勝てる強味はどこにもない。
 結局、降服の道しかなかった。即ち、和を乞うの書をたずさえて、襄陽の使いは南進中の曹操の軍へ、急遽派遣されたのであった。

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