西部第二戦線

 当時、中国の人士が、西羗の夷族と呼びならわしていたのは、現今の青海省地方――いわゆる欧州と東洋との大陸的境界の脊梁をなす大高原地帯――の西蔵人種と蒙古民族との混合体よりなる一王国をさしていっていたものかと考えられる。
 さて。
 その西羗王国と魏とは、曹操の世代から交易もしていたし、彼より貢物の礼をとっていた。異種族が最も光栄として喜ぶ位階栄爵などを朝廷の名をもって彼に贈与してあるので、それを恩としているものだった。
 時に、魏の叡帝は、曹真祁山における大敗を聞いて、孔明の大軍の容易ならざる勢力を知り、遠く、使いを派して、西羗の国王徹里吉に対し、
 ――高原の強軍を起して孔明の、うしろを脅かし、西部の境に、第二戦線を張られたし。
 と、教書をもって、これに行動をうながした。
 同時に、曹真からも、同じ目的の使いが入国した。おびただしい重宝珍器の手土産が、羗の武相吉元帥と、宰相の雅丹などに贈られた。
曹操以来、恩のある魏国の大難です。嫌とは断われますまい」
 両相の建議によって、国王徹里吉は、直ちに、羗軍の発向をゆるした。
 雅丹宰相、越吉元帥は、二十五万の壮丁を集合して、やがて東方の低陸へ向って進み出した。
 西羗の高原を下るや、黄河揚子江の上流をなす清流が山と山の間をうねり流れている。黄河の水も揚子江の水も、大陸へ流れ出ると、真黄色に濁っているが、このあたりではそう濁りもない清澄な谷川であった。
 平和に倦んでいた高原の猛兵は、孔明の名を聞いても、どれほどな者か知らなかったし、その武器は、夷には似ず精鋭だったので、ほとんどすでに蜀軍を呑んでいるような気概でそれへ臨んでゆくのであった。
 欧州土耳古埃及、などの西洋との交流が頻繁で、その文化的影響を、中国大陸よりも逆に早くうけていたこの羗族軍は、すでに鉄で外套した戦車や火砲を持ち、またアラビヤ血種の良い馬を備え、弓弩槍刀もすべて優れていたといわれている。
 軍中の荷駄には駱駝を用い、またその上に長槍をひっさげてゆく駱駝隊もあった。駱駝の首や鞍には、沢山な鈴をさげ、その無数の鈴の音と、鉄戦車の轍の音は、高原兵の血をいやが上にも昂ぶらせた。かくてこの大軍が、やがて蜀境の西平関(甘粛省)へ近づいていた頃、寝耳に水、いま祁山渭水のあいだに在る孔明の所へ、
「西部の動きただならず、急遽、援軍を仰ぐ」との早馬があった。
 孔明もこれには、はたと色をかえて考えこんだ。そして、
「誰をか向けん?」と、つぶやいたのを聞いて、関興、張苞のふたりは、
「われらをこそ」と、希望して出た。
 事は急だし、道のりはある。しかも電撃戦を以て、一挙に決し去らぬことには、総軍の不利いうまでもない。
 それには、この若手こそ屈強だが、二人とも西部地方の地理は不案内である。で、孔明は、西涼州出身の馬岱をこれに添えて、五万の兵を分ち、明日ともいわず出発させた。驟雨の低雲が曠野を馳せてゆくように、援軍は西進してたちまち、羗軍の大部隊と相対した。
「羗軍は驚くべき装備をもっている。あれを破るのはたいへんだ」
 まず高地に立って、敵勢を一望して来た関興は、舌を巻いた容子で、馬岱と張苞にむかい、
「鉄車隊とでもいうか、鋼鉄をもって囲んだ戦車をつらねている。鉄車のまわりには、各箇、針鼠のように釘の如き棘を一面に植え、中に兵が住んでいる。どうしてあれを撃滅できようか。容易ならない強敵だ」と、溜息ついて話した。

「関興にも似気ないではないか」と、馬岱はかえってその言を嗤い、
「――まだ一戦もせぬうちから敵に気を呑まれてどうするか。ともあれ明日は一戦して、彼の実力のほどを試みてみよう。評議はその上のことでいい」
 と、励ました。
 しかし翌日の合戦には、反対に蜀軍のほうがさんざんに敵の羗軍に試されたり翻弄されてしまった。
 その敗因は、何といっても、羗軍の持っている鉄車隊の威力だった。その機動力の前には、軍の武勇もまったく歯が立たない。
 騎馬戦や歩兵戦では絶対に優勢だったが、羗軍は負け色立つと見るや鉄の針鼠を無数に繰り出して縦横に血の軌をえがき、むらがる蜀兵を轢き殺しつつ、車窓から連弩を射放って、敵中無碍に走り廻るのであった。
 そのとき羗の越吉元帥は、手に鉄槌をひっさげ、腰に宝鵰の弓をかけ、悍馬をとばして陣頭にあらわれ、羗の射撃隊は弓をならべて黒鵰の矢を宙も晦くなるほど射つづけてくる。
 ために、蜀兵の潰滅は、全面に及んで、しかも随所個々に殲滅され、関興のごときは、わけて敵に目ざされて、終日、退路を走り惑い、あやうく越吉元帥の鉄鎚に砕かれるような目に幾度も遭った。
 さきに本陣へ帰っていた馬岱と張苞は、夜に入っても関興がもどって来ないので、
「ついに乱軍のなかで討死を遂げたか」と半ば、絶望していたほどである。すると関興は夜更けて、ただ一騎、満身血と襤褸になって引き揚げてきたが、
「きょうほど恐ろしい目に遭ったことはない」
 と、肚の底から羗軍の猛威を述懐した。
 そして、途中、一つの澗のそばで、危うく敵の越吉元帥の部下に取り巻かれ、すでに討死をとげるところだったが、ふしぎにもその時、空中に父関羽の姿が見えるような気がして、にわかに百人力を得て、一方の血路を斬りひらき、あとは無我夢中でこれまで逃げてきた――と、平常の彼にも似あわず、心から自己の惨敗を認めて話した。
「いや、足下だけの敗戦ではない。われわれの隊もみな大敗をうけた。兵力の損傷は実に半数にものぼっているだろう。この責任は共に負うべきだ」
 馬岱は云ったが、張苞はただ口惜し涙をこすっている。しかもまた、明日の戦に、何らこの頽勢をくつがえすべき策も自信もなかった。
「所詮、かなわぬことを知って、なおこれ以上ぶつかってゆくのは勇に似て勇ではない。それがしは、敗軍をとりまとめ、要害の地に退いて、ひとまず敵を支えているから、貴公たち二人は、大急ぎで祁山へゆき、諸葛丞相にまみえて、いかにせばよろしいか、丞相のご意見を求めてきてくれ。……それまでは、守るを主として、一ヵ月や二ヵ月は、にしがみついても頑張っておるから」
 馬岱はそういった。
 関興と張苞にも、今はそれしか考えられない、で二人は、夜を日についで、祁山へいそいだ。
 ここ祁山での序戦には、蜀軍の上に、赫々たる祝福があったものの、さきに多大の兵力を西部方面へ割き、いままた、その大敗を聞いて、孔明の眉には、ただならぬ不安と焦躁の陰がうごいた。
 かかるときこそ将帥の判断ひとつが将来にその大勢を決する重大なわかれ目となるものであろう。孔明は一夜をおいてすぐ次の日、
「いまこの祁山においては、曹真は守勢にあり、我は戦いの主導権を握っている。すなわち我戦わずんば彼も動かずという状態にあるところゆえ、諸将はよくわが留守を守れ。そして好んで策を用い敵を刺戟してはならぬ」
 そう云い渡して、自ら西平関へ向う旨を告げた。新たに調えた軍勢三万余騎のうちに、姜維張翼の両将を加え、また関興、張苞も率き具して、急援に馳せたのであった。
 かくて西平関に着くや、孔明は、直ちに出迎えた馬岱を案内として、高地にのぼり、羗軍の軍容を一眄した。そしてかねて聞く無敵鉄車隊の連陣をながめると、呵々と一笑し、
「量るに、これはただ器械の力。これしきの物を持つ敵を破り得なくてどうしよう。姜維はどう思うか」
 と、傍らを見てたずねた。

 姜維は、言下に答えて、
「敵には、勇があっても、智略がありません。また、器械力があっても、精神力はないものです。丞相の指揮とわが蜀兵の力で破れなかったらむしろ不思議でしょう」
 といった。
 孔明はわが意を得たるものとしてうなずいた。――そして山を降りて、陣営に入ると、諸将を会して、こう語った。
「いま彤雲野に起って、朔風天に雪をもよおす。まさにわが計を用うべき時である。姜維は一軍をひきいて敵近く進み、予が紅の旗をうごかすのを見たら急に退け。……そのほかの将には、後刻なお告げるところがあろう」
 すなわち姜維は誘導戦法の先手となって羗軍へ近づいたのである。――と見るや越吉元帥の中軍は、例の鉄車隊を猛牛の如く押しすすめ、姜維の勢を席巻せんとして来た。
 姜維の勢は、引っ返し、また踏みとどまり、また逃げ奔る。
 勝ち誇った羗族の大軍は、この日を期して、蜀軍を粉砕せよと、戦線を拡大して、ついに孔明の本陣まで突入して来た。
 戦い半ばの頃から大きな牡丹雪が降り出して、朔風凛々、次第にこの地方特有な吹雪となりだしていたが、今しも姜維の兵は、その霏々たる雪片と異ならず、みな先を争って、陣門の内へ逃げ入り、防ぎ戦う者もなかった。
 鉄の猛牛は苦もなく柵門を突き破り、十台、二十台、三十台と、列をなして進み入った。それに続いて、騎馬二千、歩兵三、四千も喊声をあげてなだれ入った。
 ところが、兵営の彼方此方に、凍れる旗とおびただしい雪の吹きだまりが眺められただけで、陣内には、一兵も見えない。――のみならず、その雪風か、枯葉の声か、非ず、不思議な美音が、何処からともなく聞えてくるではないか。
「はてな? ……。待て待て。深入りするな」
 越吉元帥は味方を制した。そして馬上に耳を澄ましていたが、愕然と身ぶるいして、
「琴の音だ? ……。琴の音がする」と、つぶやいた。
 さてこそ、深き計略があるにちがいない。孔明とかいう軍略に長けたる者が、新たに、精鋭をひきいてこれへ来ていると聞く。――油断すな、前後を警戒せよ、と彼は高声に戒めつつ、心なお怪しみにとらわれて、退きもせず、進みも得ず、吹雪の中に立ちよどんでいた。
 すると、うしろに続いてきた後陣の雅丹宰相が、それを聞くと、大いに笑って、
孔明は詐りを得意となすと聞く。ただそれ人の心を惑わしめんとする児戯にひとしい計略。何をためらい、何をおそるる。――すでに曠野は雪つもること十尺。退くにはかえって難儀あらん。鉄車隊を先として、無二無三、陣内を駈けあらし、しかる後、ここを占領してこよいの大雪をしのぐに如かず。もし孔明を見かけたらこの機をはずさず手捕りにせよ」
 と、厳命した。
 越吉元帥もそれに励まされて、ふたたび鉄車の猛進を令し、兵を分けて、まず陣の四門を塞ぎ取って、平攻めに敵残兵の殲滅を計った。
 ――と、奥深き一叢の疎林のうちになお一廓の兵舎があった。今しそこから慌てて南の門へ逃げ出してゆく一輛の四輪車がある。扈従の者も、五、六騎の将と百人ばかりの小隊によって守られゆくに過ぎない。あれよ、孔明にまぎれもなし、追いかけてわれこそ捕えんと、羗族の部将たちは、馬を揃えて馳け出そうとした。
「いや待て、愈〻、いぶかしいぞ」
 越吉元帥は、それを制したが、雅丹宰相はあざ笑って、
「たとえ彼に多少の詐謀があろうと、この軍勢をもって、この勝利の図にのせて追えば、何ほどのことやあろう。――敵の総帥を眼にみながら、これを見遁すという法はない。断じて逸すべからずである」と自ら前に立って烈しく下知した。
 孔明の車は、その間に、南の柵門を出て、陣後につづく林の中へ隠々として逃げかくれてゆく。
「やるなっ」
 羗族の騎馬、戦車、歩兵などは、雪を蹴り、雪にまみれ、真っ白な煙を立ててそれを追った。

 このとき姜維の一手は、また南の柵外に現れて、羗族の大軍がそれから出て、孔明を追撃するのを、妨害するかのような態勢をとった。
「うるさき小将。あれから先へ片づけろ」
 これを合言葉として、羗軍はまず姜維へ当ってきた。彼はよく抗戦したがもとより比較にならない兵数である。ほとんど、怒濤の前の芥の如く蹴ちらされた。
 いよいよ勢いに乗った羗軍数万は、疎林の一道を中心として、
「なお遠くは行くまい」
 と、孔明の車を追いかけた。そして林を馳け抜けると、たちまち、一眸ただ白皚々たる原野へ出た。
 ただこの丘と彼方の平野とのあいだが、帯のような狭い沢になっている。騎馬隊や歩兵の一部はたちまち馳けおりてまた向うへ登って行ったが、鈍々たる猛牛の鉄車隊は、やや遅れたため、車列一団になって、そこを越えかけた。すでにしてその一団の鉄車が、窪地の底部に達するや否や突然、雪しぶきをあげ、ごうッと、凄まじい一瞬の音響とともに、その影が見えなくなった。
「あっ、陥ちたっ」
「陥し穽だ」
 続々、後から降りかけていた鉄牛の車兵は、絶叫をあげて、車を止めようとしたが、傾斜の雪をすべってゆく車輪は止まるべくもない。
 あれよ、と騒ぎながらも、みすみすそれへすべり陥ち、またその上にすべり陥ちて、一つの道だけでも、何十台という鉄車が忽然地上から消え失せた。
 しかもここ一道だけでなく、至るところに、同じ惨害が起っていた。まさしくそこを見直せば、何ぞ知らん、このゆるやかな傾斜の窪と見えていたのは、太古の大地震のときにでも亀裂していたかのような長い断層であって、その数里にわたる上へ板を敷きつめ土をかぶせ、さらに柴など蔽いつつんだ所へ今朝からの大雪だったので、誰が見てもそれとは知れなかったのみか、騎馬や歩兵などが馳け渡った程度では何のこともなかったので、羗族が力とたのむ鉄車群はまんまとその大半以上を、一挙にここへ擲ってしまったわけであった。
 計略図にあたったと見ると、蜀軍は鉦鼓を鳴らし、鬨の声をあわせ、野の果て、林の陰、陣営の東西などから、いちどに奮い起ってきた。
 馬岱軍は雅丹宰相を生捕りにし、関興は恨みかさなる越吉元帥を馬上一刃のもとに斬って、鬱懐をはらした。
 姜維張翼、張苞などの働きもまたいうまでもない。何せよ機動戦を主として、その力に驕りきっていた羗軍なので、こうなるとほとんど手応えなく蜀兵の撒血にまかせ、残る者は例外なく降伏してしまった。
 しかし孔明は、雅丹宰相の縄を解いて、懇ろに順逆を諭し、
「蜀皇帝こそ大漢の正統である。われは勅をうけて、魏を討つといえども、決して、羗国に対して、何らの野心もあるものではない。汝らは魏にだまされたのだ。立ち帰って羗国王によく伝えるがよい」と、その虜兵をもすべてゆるし、みな本国へ帰してやった。
 事成るやただちに、孔明祁山へ向って軍をかえした。途中、表をしたためて、成都へ使いを立て、後主劉禅へ勝ち軍のもようを奏した。ここに、大きな機を逸していたのは、渭水に陣している曹真の大軍だった。
 彼の不敏は、魏にとって、取り返しがたい大不覚ともいえるものであった。なぜならば、その曹真が、孔明の不在を知って、祁山へ行動しだしたのは、すでに孔明が西部の憂いを払って、引っ返してくる頃だったからである。
 しかも、祁山の留守にも、孔明の遺計が充分に守られていたため、かえって、いくたびも敗北を喫し、やがてまた、西部方面から帰ってきた蜀軍のために、左右からつつまれて、多角的に打ち叩かれ、ついに渭水から総退却のほかなき態になってしまった。
 大体、曹真は、初めからあまり自信のなかった大任であるから心ただ哀しみ、第二第三の良策とてもなく、洛陽へ早馬ばかり立て、ひたすら中央の援助と指令のみを仰いでいた。

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